──ここは、どこだろう。

 気付けばそこは、果てしなく続く黄昏の荒野。夕陽をぼんやりと眺めながら「どうしてこんな場所にいるんだろう」と考える。

 ふと、隣を見る。そこには、自分よりもずっと大きな誰かが眠っていた。
 白銀の毛並み。四つ足の大きな獣。……何故だろう。初めて見た筈なのに、どこか懐かしい感じがする。

 やがて、銀の獣が目を覚ました。眠たそうに半分開かれた目と、彼を見つめていた自分の目が合った。

 ──君は、誰だ。

 獣に尋ねられ、答える。自分の名前をすぐに言えたことに驚いた。そこでようやく、今までの記憶がほとんど抜け落ちていることに気付く。
 それは銀の獣も同じだった。彼もまた、自分の名前以外を失っていたのだ。

 何もない場所で目を覚ました、何もない自分達。行く当てなどあるはずもない。
 一緒に行こう。──そう言い出したのはどちらだったか。いつの間にか二人で、一緒に荒野を進んでいた。

 この先にどんな運命を背負うことになるのかなど、知る由もなく。
 小さな影と大きな影を伸ばしながら、ただ、歩き続けて行く。






*The End of Prayers*

第一話






◆  ◆  ◆




 産まれた時からずっと、里の皆に言われ続けていることがあります。

 それはわたしが、世界を救った英雄の生まれ変わりなのだということ。
 そしてその英雄と同様、わたしはいずれ、里を災厄から守る救世主になるのだということ。

 何度も何度も、まるで念を押すように、わたしに言い続けるのでした。

 そんな里の皆は、わたしを敬い、慕い、特別な名前でわたしを呼びます。
 だからわたしは、一度も本当の名で呼ばれたことがありません。
 そうして育ってきたけれど、そのことを苦痛に感じたことはありませんでした。むしろ誇りにさえ思っています。

 何故なら、わたしにとって里がわたしの世界であり、愛しい里の皆が、わたしの全てだからです。




◆  ◆  ◆



 うっすらとした霧がかかる早朝。
 里の門番が、とある岩穴を訪れた。

「おーい、コロナモン。ガルルモン。いるか?」
「……いる。あと、起きてる」

 返事と共に、大きな白銀の狼──の姿をした成熟期デジモン、ガルルモンが姿を現す。

「おう、相変わらず早起きだな。ガルルモン」
「そう言う君は珍しいじゃないか、ゴブリモン。いつもは昼まで寝ているくせに。コロナモンならまだ寝てるけど、何かあった?」

 欠伸を噛み殺しながら、ガルルモンは岩穴の奥に目をやる。彼よりもずっと小さなデジモンが、静かに寝息を立てていた
 名前はコロナモン。獅子の子を思わせるような風貌と、赤い毛並みを持つ成長期デジモンである。

「あー、起こしてくれ。天使様がな、お前たちを聖堂へ呼ぶようにって」
「ダルクモンが? わかった。すぐに行くよ」
「おう。そうしてくれ。じゃあ、俺は門に戻るからな」

 背を向けて手を振りながら、ゴブリモンは去って行く。しかし途中、思い出したように立ち止まった。

「お前たち、そろそろさ。天使様のことはちゃんと『天使様』って呼べよ。皆そうしてるんだから」

 そう言い残したゴブリモンの後ろ姿を見つめて、ガルルモンはため息をついた。

 ──天使様とは、この里に暮らすデジモンの一人だ。本来の名はダルクモンだが、里の者は彼女を「天使様」と呼んでいる。
 天使型デジモンなので、呼称自体は間違っていない。それでも違和感を抱いてしまうのは、その呼称に固執する周囲の態度が原因だろう。自分達が彼女の名を口にする度、彼らは口を揃えて訂正を求めてきた。
 反発心、というわけではない。里に溶け込むためには必要な事だと、ガルルモンもコロナモンも理解している。……それでも、未だに彼女をそう呼ぶ気にはなれなかった。


 そんな二人がこの里にやって来たのは、つい最近のことである。

 長い旅の末に辿り着いた里。敷地面積は広く、森や池など自然も豊かで、食糧にも恵まれていた。住民達も皆、穏やかで優しい。
 そんな平和な環境は疲れ切った二人を癒し、受け入れ──気付けば二人は、この地に定住するようになっていた。
 土地の名前は「天使の里」。至る場所に天使のレリーフが見られ、中央の高台には美しい聖堂が建てられている。
 その聖堂に暮らし、里を治める長こそが、里の者達に心酔するほど慕われている天使──ダルクモンだった。


「ねえ、ダルクモンが用事って、何だろうね」

 コロナモンはガルルモンの背で、眠たそうに目を細める

「あのゴブリモンがわざわざ朝早く来たってことは、結構大事なことなのかもしれない」
「大事なことって?」
「それは着いてからのお楽しみだ。……コロナモン?」
「……うん。おき、てる」

 眉間に皺を寄せながら、コロナモンはカクカクと頭を揺らしている。眠るまいとしているが、明らかに眠気の方が優勢だ。

「……」

 ガルルモンはにやりと笑って、歩くスピードを一気に上げる。いきなり振り落とされそうになったコロナモンは、慌ててガルルモンにしがみついた。

「なっ、なんだよ急に!」
「ちゃんと起きるんだ。そんな様子じゃダルクモンの話、聞けないぞ」
「起きたよ! 速いよ! もう!」
「待たせたらダルクモンに悪い。ほら、しっかり掴まって!」
「お、俺だって、そのうち進化してガルルモンよりも速くなるし、というかガルルモンは早くダルクモンに会いたいだけ……うわわわわっ」

 ガルルモンはスピードを落とさず、真っ直ぐに聖堂を目指す。
 きちんと真っ直ぐ向かっていたのだが──背後から「正直に言えばいいのにー」という声が聞こえた気がして、わざと険しい道を通って行くことにした



◆  ◆  ◆



 聖堂前の広場で、辺りを見回しているデジモンを見つける。

「ダルクモン! こっちだ!」

 ガルルモンはいつもより明るい声で呼びかけた。
 すると、輝く二対の翼を抱いたデジモンが、声に気付き手を振ってくる。
 顔の上半分に黄金の仮面を纏った、人間の女性のような姿のデジモン。まだ成熟期だが、その身に秘めた力は計り知れない神聖なものだと、住民達は彼女を崇拝している。

「ごめんなさい。こんな早くに呼び出してしまって」

 そう言って、ダルクモンは嬉しそうに微笑んだ。

「あら、コロナモン。顔色が良くないですね」
「……うん。乗り物酔い。ガルルモンが走るから……」
「まあ、ガルルモン、走って来てくれたの?」
「あ、いや……その、大事な用事があるのかと思って」

 思わず目線を逸らしたガルルモンを、コロナモンはニヤリと眺める。

「……何だよコロナモン」
「なんでもない!」

 二人のやりとりを、ダルクモンは小さく笑いながら見つめていた。それに気付き、ガルルモンは恥ずかしさで逃げ出したい気持ちになった

 コロナモン曰く、「あれは間違いなく一目惚れ」

 里の者達がダルクモンに抱くものとは、明らかに違う感情。それを真っ先に見抜いたのはコロナモンだった。
 本人は必死にそれを隠しているようで、当たり前だが、言うと怒る。
 コロナモン自身、大好きな相棒が好意の対象を持った事は嬉しく感じていた。周りに言いふらそうだなんて思わない。

 ──むしろ、言ってしまっては問題なのだ。
 里の民にとってダルクモンは崇拝の対象であり、神聖な存在。ただでさえダルクモンを『天使様』とは呼ばない一人が、その天使に対しに好意を抱いているなんて知れたらどうなることか。

 そして当の本人であるダルクモンだが──なんと、気付いている様子だった。
 しかし何も言わない。それどころか「里の皆には、『ガルルモンは特にわたしを信仰してくれている』と伝えているから大丈夫ですよ」だなんて言っている。

 里の長ではあるが、里の民とは異なる考えを持っているのか────二人がダルクモンを名前で呼んでも、彼女は怒るどころか笑顔を見せた。どこか、嬉しそうに。



◆  ◆  ◆



「どうぞ、中へ」

 里のシンボルとも言える小さな聖堂。
 白い壁に青い屋根。鐘楼塔にかかる鐘は金色。美しい外観だが、その入り口だけは分厚い鉄で出来ている。鉄扉の鍵はダルクモン自身であり、彼女が触れないと開かない仕組みになっていた。

 また、この聖堂は里で唯一の「施錠できる建物」でもあった。
 この里は、侵入者に対する警戒心が非常に薄い。里の出入口には門番が置かれているが、あくまで形だけのもの。どの家屋も無防備な造りで、コロナモン達に至っては岩穴で暮らすほどである。
 別に不満はないし、それでも里は平和だ。けれど今までの旅の生活を思い返すと、その無防備さが少々心配になってしまう。

 そんな守りの要たる聖堂だが、里の民が立ち入られるのは礼拝堂までとなっている。それが里の決まりだった。
 ──しかし三人は今、その先に続く廊下を歩いている。ダルクモン自ら、二人を奥へ招き入れたのだ。

 廊下の壁に窓は無い。天井に飾られたステンドグラスが、陽光を鮮やかに取り入れている。
 初めて見る内部に、コロナモンは少々はしゃいでいた。それを止めるガルルモンもまた、好奇心を隠せずにいる。

 二人とは反対に、ダルクモンはとても落ち着いた様子だった。

「あちらです。──祭壇の間。里の者を入れるのは初めてなので、皆には内密に」
「それは……もちろんだけど、俺たちが入っていいの?」
「ええ。きちんと説明するには、あの部屋が最適ですから」

 廊下の先に見える二つの扉。一方には紋章のようなレリーフが刻まれていた。
 レリーフの扉をダルクモンが開けると、これまでの落ち着いた内装とは似つかない、石煉瓦の部屋が姿を現した。
 真っ直ぐに伸びる身廊。祭壇。そして──微笑みを浮かべる天使の彫像。

 その顔は、ダルクモンが笑った時の顔と、よく似ていた。



◆  ◆  ◆



「──それは、『毒の大雨』。あるいは『毒の厄災』と呼ばれています」

 祭壇を背に、ダルクモンは二人へ語り始める。

「ガルルモン。聞いたことはありますか?」
「……少しだけなら」
「どんな話だっけ? 俺、あまり覚えてないや」
「昔、毒が世界中に溢れたって話。西の港街で聞いたろう?あまり詳しい事は言ってなかったけど……」
「それ、俺たちが生まれるよりずっと前のこと?」
「ええ。今この地に生きているデジモンの殆どは、この災厄についてを知りません。知っていても物語程度にしか」

 生まれる前と言っても、大昔というわけではないらしい。
 あまりに多くの命が失われ、それ故に語り継ぐ者も僅かだった。だから現在も知る者が限られるのだとダルクモンは言う。
 ──情報をまともに残せない程の災害だったのだろうかと、コロナモンは眉をひそめた。

「毒は『黒い水』と呼ばれていました。水よりは泥や油に近かったようですが。……黒い球体が突然現れ、そこから毒が雨のように降り注ぐのだそうです」
「……じゃあ、今のデジタルワールドは、その災害から生き残ったデジモンたちで成り立った世界なんだね」
「ええ、ガルルモン。毒より生き延びたデジモンは決して多くはなかったけれど、少なくもなかった。毒は致死性のものですが、一部のデジモンには毒性が低かったとされています。
 具体的には、ほとんどの究極体……そして、ある程度力を持った完全体……彼らには毒に対する耐性が、ある程度はあったようです。今の世界は、そんな彼らによって造り直されたのでしょうね」

 ダルクモンの言葉に、二人は「究極体!?」と目を丸くさせた。
 デジモンの進化世代の最終形である究極体、それこそ物語でしか聞いた事のない存在だ。それが実在していたなんて──

「昔のデジタルワールドには、そこまで進化できたデジモンがいたんだなぁ。俺なんか成熟期にもなれないのに」
「まあ、コロナモンもそのうちなれるさ。大丈夫」
「ガルルモンはいいよな。最初から成熟期なんだもん。ちょっと分けてほしいよ」
「コロナモン、何を分けるんだい? ……と、ごめんダルクモン。話の腰を折っちゃって」
「いいえ、いいえ。わたし、二人のやり取りを見るの、とっても楽しいんです。とっても微笑ましくて、本当に兄弟みたいなんだもの」

 ダルクモンの微笑みに、ガルルモンは照れくさそうに目線を逸らす。

「それは……僕らをそう言ってもらえるのは、嬉しいよ。……僕は君と同じ成熟期で、里ではきっと強い方だろうけど……その毒には、やっぱり負けちゃうのかな」
「……毒は、成熟期以下のデジモンにとっては致死的とされています。また、ウイルス種のデジモンに至っては、全ての進化の段階で耐性が皆無なのだそうです」
「僕らが成熟期がダメなのは、未熟だからって理由で納得できるけど……ウイルス種はどうして? 完全体や究極体でもダメなんて、変な話じゃないか」
「この毒はウィルス種と性質が似ているのか、彼らと親和性が高いようで……彼らに対しては『致死』以外の影響を及ぼすと伝えられています」

 それが、毒がもたらすもう一つの恩恵、『凶暴化』であると言う。
 更に具体的に言えば『理性と自我の喪失』、『他者への襲撃と捕食衝動』。それらに支配され、誰のものか分からない本能のまま暴れるそうだ。

「黒い水を浴び、毒に侵されたウイルス種のデジモンは……もう元の彼らとは違う。汚染により歪んでしまった別の存在と成り果てるのです。中には凶暴化の際、歪に進化を遂げる者もいたと聞きます」
「ま……待って、待ってダルクモン。ガルルモンも。その……毒が怖いことはわかったけどさ、それを今いきなり話す理由がわからないよ。どうしてこんな突然なの?」

 コロナモンは状況が理解できず狼狽した。対して、ガルルモンは表情を曇らせていた。
 旅の最中で聞いた話では、毒に関して詳しく語られていなかったが──確か、毒に耐性を持つ種族もいた筈なのだ。確かそれは────

「そうですね。突然で驚いたでしょう。本当はもう少し後に、ゆっくり話すつもりだったのだけど。
 ……ところで、どうしてわたしが里で『天使様』と呼ばれているか、知っていますか? わたしが天使型のデジモンであるから……という理由だけではないのですよ」

 ダルクモンは天使の彫像を見上げ、目を細めた。

「遠い昔に起こった災厄。それを鎮め、世界を救ったのは……幾体かの究極体デジモン。種族名が明らかになっていない者が殆どですが……英雄たちの故郷には、その伝説が語り継がれていくのだと。語り継がねばならないのだと、そういう教えがあるのです。
 ──英雄の中には、大天使型のデジモンが三体いました。その一体である『彼女』は聖なる力で毒を浄化し、多くの命を救った」
「……この彫像は、そのデジモンがモデルになってるの?」
「いいえ、コロナモン。これは彼女の姿そのものです。彼女は自らが纏う聖鎧を砕き、里を癒す礎とした。……だから彫像の彼女は兜を纏っていません。
 残りのデータは、民の治癒と『後身』の継代に充てられました。──わたしは彼女の粒子が形を成して、デジタマとなって、生まれたデジモンがまた命を繋いで出来た天使。わたしたちは『私』から、あらゆるデータを引き継いできたのです。
 ……わたしはね、もうすぐ訪れる災厄の再来から……里を守る、皆にとっての『天使様』になるのよ」



「天使型と、聖なる力を宿したデジモンには、僅かですが毒を癒す力があります」

 自らを礎に、毒から土地と民を救った大天使。その記録と責務を受け継いだ後身。
 ダルクモンの告白に、コロナモンとガルルモンは言葉が出なかった。里の皆は、いざとなったら彼女が犠牲になるかもしれないと──知っていたのか。

「その聖なる力が最も強くなるのは満月の夜。……予知の能力を持つデジモン達から、『半年後に災厄の再来がある』と先日連絡がありました。なので急ぎ、一週間後の満月の夜に『洗礼』の儀式を行います。聖なる英雄の力を宿したデータを皆に分け与える事で、民には多少なり毒への耐性が出来るでしょう。
 ……里の皆は黒い水の話も、そして私の役割も、ずっと前から聞いて知っている。でも二人はそうではないから、きちんと話しておこうと思ったんです。……色々と受け入れるにも時間がかかると思ったから。けれどもっと早くに伝えるべきでしたね。ごめんなさい。二人がそんなにショックを受けるなんて、思わなくて……」
「ダルクモン。……門番のゴブリモンは、ウイルス種だよ」

 コロナモンは心配そうに、ダルクモンを見上げる。

「門は一番危ない場所だ。あそこにいるべきじゃない。……何かあった時、最初に俺たちが守るべきなのは……幼年期とウイルス種の仲間たちだ」
「その通りです。……ええ、安心して。彼には本日をもって門番の職を降りてもらう事になっています。代わりはベアモンが引き継いでくれるわ。
 ……ねえ、わたしがこの事を話したのはね、二人を不安にさせたかったわけじゃない。逆に『ここは安全なんだ』って、皆のように安心して欲しかったから……」
「それは……君が天使だからか。皆は、君が皆を守ってくれるから、だから……そうか。だから皆は、君のことをずっと『天使様』って……」
「……。ガルルモン、そんな顔しないで下さい。これはわたしにしかできない事。わたしの役目であり、運命なのですよ」
「でも君はそれでいいの? 君の出生どうこうの話じゃない。里は、皆は……初めから君じゃなくて、君の中にある過去のデータを崇めてるって事じゃないか。そんなの……」
「わたしはそれを誇りに思っています。だから、いいんです。……里の皆が、嫌いになりましたか?」
「違うよ。俺たちは皆が大好きだよ。この里も好きなんだ。でも……」
「ありがとう。……よかった。あなたたちは、とても優しいのですね。わたしも皆が大好きなんです」

 そう言って柔らかく微笑むダルクモンの顔は、哀しいほどに彫像とよく似ていた。

「……だけど、せめてあなたたちだけは……これからもわたしを、わたしの名前で呼んでいて」



◆  ◆  ◆



 陽はすっかり昇りきり、日差しは穏やかに空気を暖めていた。

 そんな中、二人は暗い顔をしながら帰路につく。
 途中、友人らに「遊ばないか」と声をかけられたが、そんな気分にはなれなかった。

「──ひとつ、思い出したことがあるんだ」

 ガルルモンは、背中のコロナモンに語りかけた。

「前に別の場所で聞いた、毒の話だ。……あるデジモンが自分を犠牲にして、皆を守ったって。あれは……ダルクモンと同じ立場のデジモンの事だったんだな」
「……そんな話だったね。でもダルクモンは犠牲になるわけじゃないんでしょ? ダルクモンの前のデジモンだって、鎧や兜だけ使ったなら……大丈夫、きっとダルクモンは犠牲になんてならないよ」
「それでもやっぱり、ダルクモンに全てを委ねる形は嫌なんだ。自分のデータをあげるなんて、成熟期の彼女が無理にやっていい事じゃない。……僕にも、彼女にできる事があればいいのに」
「……それは、俺も思うよ。俺だって……ガルルモンと同じ成熟期なら、もっとできることもあるのにって思う。何かあっても、ガルルモンとダルクモンとで、皆を守れるんじゃないかって。

 ふと、改めて思う。毒の脅威が語り継がれていたにも関わらず、里の出身で成熟期なのはダルクモンただ一人。有事の際に備えた訓練も無く、幼年期や成長期達が修行する姿も見た事がない。
 コロナモンは旅をしていても成長期のままなので、あまり他者の事は言えないのだが────それでも里の平穏さに対する違和感は拭えなかった。

「ダルクモンがいるから……安心しきって、強くなろうとしなかったんだろう。……でも、いざ毒が出てパニックになった時……外のデジモンが襲ってくるかもわからない。僕は、正直不安だよ」
「……なあガルルモン。ダルクモンは本当に、あれで良いのかな」
「わからない。……彼女はとても優しいから、だからきっと、受け入れる事に抵抗はなかったんだと思う」

 コロナモンは、聖堂のある方角に目をやった。

「でも俺、ダルクモンは寂しかったんじゃないかなって思うんだ」
「……」

 里の長。里を守る為の存在。遠い過去の大英雄。
 住民はそういう認識でダルクモンを崇めている。それは良くも悪くも、彼らと彼女が対等ではないという事を明確にしている。
 皆がいるのに、ひとりぼっち。……それはどんなに寂しい事だろう。

 始めから「二人」だったコロナモンとガルルモンには、ひとりきりである事の寂しさがわからない。
 ガルルモンは、悔しそうに歯を食いしばった。



◆  ◆  ◆




 聖堂の間で、一人。
 天使は祈りを捧げていた。

 未だに成熟期である自分。
 かつての自分には到底至らない、その未熟さに。不安にならない筈がなかった。

 ──こんなわたしに、世界を救えというの。

 デジタルワールドを救うなど、今の自分には途方も無い話。
 ならばせめて、この小さな「世界」だけでも──同胞だけは、何としてでも守らなければ。

 悲しみも寂しさも不安も、皆の希望である自分は抱くべきではない。わかっている。

 それでもダルクモンは、唯一の心のよりどころである──母に、『私』に、ただ頭を垂れて願い続けた。




◆  ◆  ◆






 音を立てることもなく、世界が揺らぐ。





◆  ◆  ◆



 数日後。


 薄暗い空に太陽が昇る。

 ゆっくりと、ゆっくりと。世界に光を注いでいく。


 ──それはまるで、血を零したような暁だった。




◆  ◆  ◆



「おかしいなぁ……」

 聖堂の中の一室。
 首を傾げながら、ダルクモンが電話機をじっと見つめていた。今朝からどうにも、里の外部と連絡を取ることが出来ないのだ。
 彼女は外部の聖獣型デジモンに、今夜の洗礼の手伝いを頼んでいた。集合時刻になっても来ないので連絡しようと思ったのだが……何度かけても通じない。

「留守……それとも故障?」

 ダルクモンは頭を抱える。今日の今日で急に留守にする筈も無いから、恐らく後者だろう。
 そうなると、大変だ。急いで電話機を直さなくては。……この里に修理が出来るデジモンなんていたかしら。考えてみるが思い当たる節がなかった。

 洗礼を行うにあたり、民への加護を強固にする為にも神聖デジモンの協力は必要不可欠なのだ。
 幼年期達も、ウイルス種の民さえ守れる程の力を。加護を。皆を守り切る儀式にしなければ意味がない。同胞の為にも妥協する事は許されない。

「……そうだわ」

 なら、直接迎えに行けばいいじゃないか。
 ああ、それならガルルモンに乗せていってもらおう。足の速い彼ならば、きっとすぐに辿り着ける。



◆  ◆  ◆



「ダルクモンと里の外へ?」
「コロナモン、だから、天使様だってば」

 ガルルモンは広場に寄り、野球をして遊ぶコロナモンに外出する旨を伝えた。

「やったじゃん、ガルルモン」
「茶化すなコロナモン。そうじゃなくて、訪ねたいデジモンがいるんだって」
「ガルルモーン、いいなあ。天使様とお散歩だー」
「洗礼までには帰ってくるでしょー?」
「いってらっしゃーい!」

 寄って来る幼年期たちに、そしてコロナモンに「行ってきます」と言って、ガルルモンは駆けて行った。

「あれ、ガルルモンどこ行くんだろう。門ってあっちの方向じゃないよね?」
「コロナモン知らなかったっけ? あっちにも門があるんだよ。聖堂と同じで、天使様しか開けられないけど」
「そうなんだ。じゃあ、門番とかもいらないんだね」
「そのとーり! それに、こっちはベアモンがいるから大丈夫だねー」
「ねー」
「……」

 黒い水の災厄が近づいているという話が、公にされてしばらく経つ。
 しかし里の危機感の無さは相変わらずだった。コロナモンは少しだけ、心配になる。

 すると──

「ねえ、あそこにいるのベアモンじゃない? どうしたんだろう」

 一人が声を上げ、指差した。
 門番を任されていた筈のベアモンが、お腹を押さえながらやって来る。

「ベアモーン! どーしたのー?」
「お、お腹、痛くなっちゃってー……!」

 仲間の呼びかけに、ベアモンは青い顔で手を振った。

「大丈夫―?」
「うん……多分。お家帰って休んでくるね……。門番はゴブリモンに代ってもらってるから、大丈夫……」

 苦笑しながら、そう言ってベアモンはトボトボと歩いていった。

「……。……本当に大丈夫かな。俺が門番した方が……」
「平気だって。それにコロナモンはゴブリモンより小さいから、敵が来たらやられちゃうよー」
「それに今日は天使様の洗礼もあるし、ベアモンもきっとすぐ良くなるよ! ほらコロナモン。ボール投げるぞー」

 コロナモンは慌てて木の棒を握った。放物線を描くボールに狙いを定め、勢いよく腕を振る。
 カキーン、と清々しい音を立て、ボールは遠くまで飛んで行ってしまった。

「あー! ばかコロナモンお前……森の方まで行っちゃったじゃないかー!」
「ご、ごめん!」

 ボールが飛んで行ったのは、広場から離れた森の中。足場が悪く、普段はほとんど誰も寄りつかない場所だ。

「俺、取りに行ってくるから! 皆は続けててー! まだボールあるよね?」
「えーっ、ひとりで平気!?」
「これでも探検は慣れてるからー!」

 大声で返事をしつつ、コロナモンは自信ありげに森へと走って行った。


 ──が、森は予想以上に広かった。


「……見つからない……」

 大分時間をかけて探したが、見つからない。
 ボールを探すついでにゴブリモンの様子も見に行こうと思っていたのだが……気付けば来た道もわからなくなって、それどころではなくなっていた。

「……帰れない……」

 このままでは日が暮れてしまう。どうしたものかと、コロナモンは悩んだ。
 ガルルモン達は夜までに必ず戻って来る。自分がここにいる事は皆が知っている筈だから、きっと探しに来てくれるだろう。……すぐに見つけてくれる筈だ。ガルルモンは、とても鼻が利くのだから。
 それまでになんとか、とりあえずボールだけでも見つけよう。コロナモンは、更に森の奥へと歩いて行った。





 ──その頃、里で一体何が起こっていたかなど。

 後に偶然抜け道を見つけ、森から出さえしなければ────知ってしまう事などなかったのに。





◆  ◆  ◆



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