◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
無機物の街に色はなく。金属の街に温もりはなく。命の意味を感じたことさえない。
自我を得てからは曇り空の下、大したことのない労働を一日中こなしていくだけの日々。危険だからと、街の外に出たことはない。
そんな日常。いつもと何ら変わらないある日。まだ雨水の残る廃棄物の山を見上げていると、その中に見慣れない形をした何かを見つけた。
「本で見たことがあるよ」
友人が言う。
「あれは『花』というんだ」
名前を言われても、何だかわからない。ただそれは──この街のものとは思えないような、細くしなやかな形をしていた。
近くで見ようと小さな体でよじ登る。呆れた声で友人が止めるが、気にも止めない。
近くまでやって来た。まじまじと『花』を見つめた。
「抜いたらだめだよ。生きてるんだから」
生きている。
この花というものは生きているらしい。
この真っ黒な場所で、こんなにも澄んだ白い色。
恐らくは自我を持たない、動けもしないのか。自分達とは違う存在なのに、生きているという点では一致している。
生きるとはなんだろう。
「……」
触れてみたいと思った。
もっと、よじ登る。手の届きそうな場所まで目指す。
下にいた友人が声を上げた。気にも止めない。
手を伸ばす。
何やら降りろと叫んでいる。
待ってくれ。もう少しだけ。
あと少し。
生まれて初めて美しいと思った、小さな命は目の前に。
「――――――」
ふと油の匂いがして、直後、何も見えなくなった。
*The End of Prayers*
第十二話
「黒い街と白い花」
◆ ◆ ◆
普通に大きくなって。
普通に誰かと出会って。
普通に恋をして。
普通に結婚をして。
普通に子供を産んで。
普通に歳をとって。
普通に死ぬ。
そんな人生を、送りたいと思っていた。
特別なことなんて何もいらない。特別であればあるほど、平凡とは程遠いのだと知っているから。
普通でありたいと思っていた。
けれど本当はそれが一番難しい。だって人生は全然、思い通りになんてなってくれないから。
──身をもってそれを知ったのは、十歳の夏。母親がベランダから落ちてきたある日のこと。
気付いた時には私の暮らしは変わり果てて、もう、取り返しがつかなくなっていた。
それでも世の中は平和なまま、何一つ変わらない。変わったのは私の世界だけ。
どんなに「夢であれ」と願ったところで時間が戻る訳もなく。変わり果てた現実を、新しい日常として受け入れるしかなかった。
……戻らないなら、せめて、どうか。
もうこれ以上。私の世界が変わってしまいませんように。
空っぽのままでいいから、どうか毎日がありふれたものでありますように。
どうか、どうか。「普通」のままで。
それだけを願って、祈り続けて。今日までを静かに生きていた。
──ああ、だけどやっぱり人生は、こんなにも思い通りにならない。
どうしてこんな事になっているのだろう。
目の前にはおとぎ話のような光景。
目を疑う様な、切り取られた映画のワンシーン。
私が一番、いらなかったものだ。
◆ ◆ ◆
誰もいない街。
ある大都市の郊外に位置する、もう街としては機能しない鉄鋼の建物群。
黒い染みがあちこちに見られ、液状の黒い油が地面に広がっている。
そんな廃街の上空に、薄緑色の光が現れた。
リアライズゲート────ではない。リアルワールドからこちら側へ戻る為に開かれた、デジタルゲートである。
現れたのは赤い悪魔。その腕には二人の少女。リアルワールドから子供を攫ってきたばかりのブギーモンだ。
抱えた子供はどちらも、他のブギーモン達が攫った子供達と比べると、そこそこ成長した体つきをしている。
ブギーモンはまだ毒に汚されていない広場を見つけると、そこに少女達を投げ落とした。意識が戻りつつあるのか、気絶した二人の顔が痛みで歪む。一方が低い声で呻いた。
「……やっぱり、ちっせーのより、こっちのがいーぃ、な」
そんな少女達の姿をいやらしい目で眺めながら、ブギーモンは下卑た笑みをこぼす。
──彼は他にも幼い、それこそ小学生程度の子供を見つけていたにも関わらず、見逃しては探し回り──あえてこの二人を連れてきたのだ。
デジモンにしては特殊な嗜癖。しかし人間のそれとはまた異なる感情である。
わざわざ毒に侵されたこの街に、彼が立ち寄ったのは他でもない。仕事に私情を持ち込んだこのブギーモンは、城に戻るまでこの少女達で遊ぶつもりだった。此処なら誰にも邪魔されないと、やましい期待に胸を膨らませていた。
もちろん、死なせてはいけない。それではリアルワールドまで仕事に出向いた意味がない。それに収穫が減ってしまっては怒られる。
ブギーモンは舐めるように少女達を眺める。──その時だった。二人のうち、ブレザーを着た制服の少女が小さく声を上げた。
ゆっくりと目を開けて、ぼんやりと辺りを眺める。当たり前であるが、何が起こっているのかを理解していない様子だった。
だが直後、自分が見知らぬ場所にいることに気付き──側に浮かぶブギーモンを目にした瞬間、耳をつんざくような金切り声で叫ぶ。
「……っ!? あ゛ー!?」
思わず耳を押さえた。地面に降り近づくと、少女は更に大きな声をあげる。
誰もいないのだから、誰かに気付かれるはずもない。そんな事は関係なく叫ぶ少女。苛立ったブギーモンは、彼女の胸ぐらを掴んで持ち上げた。
耳の近くで叫ばれたブギーモンは一層顔を歪ませ、そのまま少女を地面に叩きつける。少女は重い呻き声を吐いた。が、逃げたい一心で、必死に起き上がろうとする。
「た、たすけ……誰か……」
顔を上げると、自分と同い年ほどの少女が倒れていることに気が付いた。
うずくまりながら手をかけ揺さぶる。起きてと叫びながら、ブギーモンに何度も目を向けながら、少女の体を揺さぶり続ける。
そして
「────ん……」
もうひとり。セーラー服を纏った少女はか細く声をもらし、目を覚ます。
「……」
そして彼女も同様に、ぼんやりとした様子で状況を確認しようとするのだ。
目の前には見知らぬ女の子。知らない制服。どこの学校だろう。
背景には見知らぬ街並み。辺りを見回し──ブギーモンと目が合う。
息を呑む。
「ね、ねえ! 助けて! あれ見て!! ねえ!」
仲間を得られたブレザーの少女は縋るように抱きつく。彼女が叫ぶ隣で、セーラー服の少女は小さな悲鳴を飲み込んでいた。
「……へっ」
声を出さなかったのは、決して意図したわけではない。ただ出せなかっただけだ。本当は叫んでしまった方が楽だっただろう。──しかし図らずも、それがブギーモンにとって好印象となる。
不幸中の幸いと言えよう。彼にとってはぎゃあぎゃあ喚く少女より、恐怖で硬直した少女の方がずっと遊び甲斐があった。
あの整った顔立ちが、一体どんな顔になるのだろう。今以上に歪んだら、どうなるのだろう。
そう考えながら満面の笑みを浮かべ、悪魔は手を伸ばし、ゆっくりと少女達に近寄る。
すると、またしても悲鳴が響いた。ブレザーの少女の絶叫は、ホラー映画のヒロインのような断末魔だ。恐怖に身体が硬直するどころか、逆にそれを身体が無意識に防いでいるようにも思えた。
「……っせー、な」
しかし、その防衛本能は相手を更に不快にさせてしまった。ブギーモンはもう一度少女を掴み上げる。
「うっ、せーぞ? な?」
「いやああああああっ! やだ! やだ! ああああっ!!」
「ぎゃーぎゃーしたら、な? 気付かれちまうだろ? 誰も、いねー、けど! ぎゃはははっ。な、でも、な? 黙れよ」
声が出せないように顔を握り締め──
「……っ! ん゛んんんっ! ん、ぐ、」
少女は、咄嗟にその手に噛みついてしまった。
「────あ?」
どすっ。
──鈍い音を立て、少女の身体に衝撃が走る。
少女の背中から何かが突き出ていた。
三本の太い棘。三股の槍の先。金属と服の間から赤い液体が垂れる。目を見開いて震えるセーラー服の少女の傍に滴る。柄を伝ってブギーモンの腕が濡れる。
腹を貫かれた少女は目を剥いたまま動かなくなっていた。
槍先の一つは、胸を貫いていた。
ブギーモンの顔がさっと青ざめた。慌てて槍から手を離す。少女だったものが、槍ごと地面に落ちて突き刺さった。
「やっっっべえぇぇ、やっちまったぁ」
セーラー服の少女の前に横たわる死体。
足元まで、赤黒い血溜まりが広がっていく。
「……あ……」
「どーすりゃいいんだ? あ? やべ、やべぁな、これ、な、あーーーーでも、仕方ねーな、仕方ねえよなぁ。だってうるさい子は、おしおきしなくちゃな? そーだそーだ。だから俺は悪くねえ。な? だって」
自分に言い聞かせるようにそう言って、自己解決をし深呼吸する。視線は未だ、手にかけた少女を向いている。
「お前、持って帰れば怒られないもんな」
視線が、こちらを向く。
少女は思わず後退る。目の前に眠る、女の子に目をやった。
目が合う。もう動かない瞳と。
どうしてこんなことになっているのだろう。
悪い夢としか思えないような光景。きちんと事態を、理解できるわけもない。
どうして、こんなことに。
わからない。
ただ、殺される。
このままでは殺される。
「よ、汚れちゃったよ、槍、な、きたねー。ちゃんと、キレイにしないと、な」
悪魔は大事そうに槍を撫でる。少女に刺さったままの槍を撫で回す。抱きしめるように撫でて、掃除をするように槍に付着した血液を舐め回す。
目を閉じながら行われるその行為は、さながら生理的嫌悪感を催すだけのストリップ劇のようであった。
ブギーモンは夢中だった。
だから、気付かない。
「────あれっ」
気が付いたときにはもう、ゆっくりと後ずさるように距離を取り、走り出した少女の背中が視界の端に映っていた。
逃げていく。少女が逃げていく。血相を変える。狼狽えながら追いかけようとして──ゆっくりとキレイにした槍を、少女と地面から引き抜くのに手間取ってしまった。
逃げ出した少女にとっては救いとなった。
もつれそうになる足に言う事を聞かせながら、こぼれ出そうになる悲鳴を身体の中に留めながら、走る。
死にたくない。ただ、その一心で身体を動かした。
少女の姿が霧に紛れる。ブギーモンは何かを叫びながら、今度は血まみれの槍をそのまま掴み後を追いかけた。
身体に穴を空けられた少女“だったもの”は、無残な姿のまま放置される形となってしまった。しかし、もう彼女を見つけてくれる者はいない。
霧の奥には、ぼんやりと聳える摩天楼の影。
どこか遠くから、鐘のような轟音が聞こえてくる気がした。
◆ ◆ ◆
方向もわからない霧の中。迷い込んだ見知らぬ街。
油のような臭いがたちこめる。至る場所が黒い染みで覆われている。
そんな事は気にせず、所々に張り巡らされた有刺鉄線に触れないように、セーラー服の少女は鉄の迷路を駆け回る。
状況が理解できない。理解できる筈もない。訳が分からなかった。一体何が起きているのか。ろくに何も考えられないまま息を切らしていた。
だが、追われている。自分は追われている。今は何処にいるのだろう。何処まできているのだろう。背後を振り返る勇気はなかった。見えてしまうのが怖かった。ただ前だけを向くしかなかった。
「────」
瞬きすら、したくない。
その一瞬のうちに、あの怪物が目の前に現れるのではないかという恐怖。そして──目を閉じれば、あのブレザーの少女の姿が、焼き付いたように脳裏に浮かぶのだ。
「……」
人が目の前で死ぬのを見るのは二度目だった。手を差し伸べることさえ、出来なくて。
「……ごめんなさい……」
口にしたところで、彼女たちが戻ってくるわけもない。
皮肉にも身体はとても正直だ。決して足を止めない。振り向くことも祈ることもしない。そんな余裕など持てず、ただ自分のことだけを考える。荒くなる呼吸が、悲鳴の様になるのをひたすら我慢した。
寂れた市街地。周囲に建ち並ぶ閉鎖した廃墟は、無人の雑居ビルを思い出す。
今この状態で、どこかの屋内に入るのは危険だと察していた。目に見えて出口があるような、崩壊しかけの建物を見つけては入り込む。元の方向に戻ってしまうことがないように、彷徨いながら走っていく。
もう、自分がどこにいるのかがわからない。どこまで走ればいいのかわからない。
どこかに道はあるだろうか。誰かに助けてもらえないだろうか。しかし警察どころか、街には誰かがいるような気配もない。
誰もいなかったらどうしよう。自力で逃げ切るしかないのだろうか。そもそも逃げきれる保証もないが、逃げ切った後はどうすればいい? あんな化け物がいるような場所なのに。
……そんなことより、目先のことを考えなければ。混乱しすぎて思考が鈍る。とにかく逃げないと。どこかに逃げないと。段々と、判断力が落ちているのが自覚できた。
不安と焦燥に駆られながら、夢中で街を駆けていく。
気付けば辺りは、入り組んだ立体迷路のような場所。
鉄骨が剥き出した建物がひしめき合い、遠くから工場の轟音が聞こえてくる。ひとつの街のような工場地帯。
見つかりやすそうな大通りは避けた。路地裏を通り、崩れかけの建物を走り抜ける。廃墟となった工場をいくつも通り抜ける。
瓦礫まみれの道のりの中、凝固した黒い水溜まりがいくつも広がっていた。ここで何が起きたのだろう。一瞬そう思ったが、気にしている余裕はない。
疲れで足取りが遅くなる。もっと速く走らなければ。──荒くなる呼吸がうるさい。
ふと、建物同士の間に線路が見えた。
電車が通っていたのか。見失わないよう、目で追いながら路地を走る。
あの線路を辿れば、どこか遠くへ行けるような気がした。電車に乗れれば、あの悪魔から逃げられるような気がしたのだ。
しかし路地は行き止まり。仕方なく広い通りに出る。線路が続いていた。脱線し腐食した車両が道を塞いでいた。
その近くには、街でよく見るような地下鉄への階段。──躊躇うことなく階段を駆け下りる。
「────」
の定だが、とても暗い。しかし運良く電気が生きていたのか、足元では非常灯が薄く光っている。
──そこは駅の構内というより、どちらかと言うと工場に近いように思えた。きっと普通の駅ではなく、貨物線用の駅なのかもしれない。シャッターが所々閉まっていて、進める道は限られていた。
ホームのような場所に出た。行き止まりだったが線路は続いていた。
そっと線路に降りる。きっと電車は来ないだろう。そのまま線路の上を歩いて進んだ。まるでトンネルの中を歩いている気分だった。……どこに、続いているのだろう。
明かりの無いトンネルの上部には、フィラメントのちぎれた電球が貼り付いて並ぶ。非常灯の明かりが遠い。進めば進むほど視界がなくなっていく。少女は明かりを得ようと携帯電話を探した。
スカートのポケットに手を入れて────気が付く。
入っているはずの音楽プレイヤーが無くなっていた。
どこで落としたのだろう。ここに来る最中か、最後に聞いていたあの公園か。どちらにせよもう見つからない。
亡くなった母から貰ったものだったのに。
「……」
喪失感に震えながら、大きくため息を吐く。
それでも携帯電話を取り出し、ライトを点ける。……僅かに視界が広がった。目も慣れてきたのだろう。少しずつ周囲が見えるようになってきた。宝物を失くした現実に、狼狽えながらも前に進む。
しばらく進むと、壁の一部がくり抜かれたような空間を見つけた。
照らす。避難口のような金属の扉が見えた。──開けてみると、トンネル同様に暗く狭い道。奥には更に空間があるように思えた。
……この中を進むべきか、このまま線路を進むべきか。外に出られる可能性が高いのは後者だ。この線路は途中まで外にあったのだから、また再び地上に出ることもあるだろう。
立ち止まり、悩む。
ふと、上から何かが聞こえてくるような気がした。────あの音だ。外で聞こえていたあの轟音が響いてきている。
規則正しい、鐘のようにも聞こえる轟音。ここが本当に外から隔離されているわけではないのだと安心した。
その轟音に混じって、遠くから下卑た笑い声がトンネルに響き渡る。
「────嘘……」
背後からではなく前方から。
少女は慌てて扉の中へと駆け込んだ。
◆ ◆ ◆
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