◆  ◆  ◆





 焼けるように渇く。
 焼けるように痛む。

 ────寒い。

 沈みかけた意識は何度も、それらによって呼び起こされる。

 ただひたすらに繰り返される。

 ぐるぐると回る。
 吐き気がする。
 流れていくようだ。
 ゆらゆらと浮かんでいるようだ。
 水の底は深い。
 水の底は暗い。

 黒い。

 身体の内側から有刺鉄線が飛び出す感覚。
 それは生きているのだ。
 隅から隅まで蠢いているのだ。

「×××」

 耳の奥で囁く。本能への誘惑は決して贅沢なことではない。
 意識の底から訴えかけるのは、あくまでも生理的な欲求でしかない。

 本来ならば、それはごく普通のありふれた欲求ものであった。
 そして彼に始まったことではなく、世界中のあらゆる“友人”に対して平等に行われる誘惑ものである。
 この身体の痛みも、何もかもがそうだ。皆に平等に与えられる。誰もが味わい、味わった感覚だ。

 しかし、彼のように『恩恵』を受けたものに限る。

 さて、しかし彼の、それらを理解する為に必要な彼の意識というものは、酷くぼやけて曖昧だった。
 思考するにはあまりに霧が深い。ただ肉体に受ける感覚のみに身を任せている。

 いつからだったろう。そんな疑問さえ、もう抱けない。
 だが事実のみを言えば、もうずっと長い間、そんな状態が続いている。

 それが『彼』だった。

 ある壊滅した都市の地下。
 空気は薄く、蒸し暑く、地上から規則的な轟音が響き渡る。
 鐘の音。
 鐘の音というのは、いつ鳴るものであっただろうか。

 そんなことはともかく、『彼』が今辛うじて存在している空間には、何もない。
 やけに広いその場所は、ただ瓦礫で埋まっていた。瓦礫はかつて天井だったものであるが──その天井も出入口も、今では厳重に封鎖されている。
 外部と繋がっている所があるとすれば、それは彼の体格では、到底通ることの出来ない通気孔だけだろう。
 それが唯一の穴。せめて壁ごと壊して崩してしまえれば、脱出の可能性はあったのだが。

 しかし、そんな事ができようか。彼にはもう、目を開ける力さえないのだから。
 呼吸をするだけでも激痛が走るのだ。その激痛に呻くことすらできない。衰弱しきった身体は、いつだって崩壊を受け入れられる。

 だが、まだ生きている。
 それでも生きているのだ。ずっと、そんな状態であるにも関わらず生きている。死の淵を往来しながら、なんとその期間は一ヶ月にも及ぶ。
 理由は単純だった。彼が“生前”に捕食(ロード)したあまりに大量のデジモン達のデータが、冬眠前に蓄えられた栄養のように彼の中に残っていた。
 奇跡的ではあるが、不思議な力や運命などといったものではない。

 しかし悲しいかな。それももう底を尽きる。
 身体を襲うあらゆる感覚は牙を剥き、彼の中に深く突き刺さる。
 肉体の分解が始まるのにそう時間はいらない。

 なんということはない。
 彼もまた恩恵を受けた“友人”の一人であるのならば──彼らと同じように散っていくだけのこと。
 その過程において、本能的、生理的欲求の満たしがあったか否かというだけのこと。

 それだけのことだ。


 窒息しそうな程に吐き出した血液は、まるでコールタールのよう。垂れ流れ、瓦礫を黒く染めていく。


「…………」


 ────黒い毒の水に侵され、尚。

 それまでの自分を、人生を、全てを失っても尚。
 歪に進化を遂げてまで力を得たのは、それだけ生に執着していた証だというのに。
 その力を向ける矛先はいない。渇きを満たしてくれる存在はどこにもない。自分を生かしてくれるものは何一つない。この場所には、彼しかいなかった。

 当然だ。周りにいた筈の存在は既に喰い尽くした。残った存在はなんとか彼を隔離し逃げていった。
 だがそんなことなど微塵も、最初に喰った友人の姿形さえ、彼はもう思い出せない。

 どうして生きたかったのかも、もう思い出せない。


 とにかくどうしようもなく、彼は一人であったのだ。


「────……」


 ゆるやかに。


 たった一人、彼は死を待ち続ける。






◆  ◆  ◆



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