◆ ◆ ◆
勢い良く扉を閉める。
心臓が大きく脈打つ中、少女は震える手を扉から離した。
鍵をかけなければ。だが、見つからない。それ自体が付いていないようだ。
「……ッ!」
少女は必死に周囲を見回す。暗がりの中に段ボール箱を見つけた。何かの機材が入ったそれを細い腕で押し、バリケード代わりにする。いつの間にか白い頬が涙で濡れていたが、そんな事は構わずに逃走を再開した。
────どうして。
あの声は間違いなく化け物のものだ。今まで何も聞こえてこなかったのに。よりによって、進もうとしていた方向から。
ぐるぐると頭の中であの化物の姿が巡る。
どうして。わからない。どうしてここにいるの。なんであんなに近くまで来てるの。
どうして。どうして。分からない。どうして──
「────」
……ああ、そうだ。あの化物にはそもそも、“走って”追いかける必要が無かった。あんなに大きな羽があるのだから。
最初から上空からこっそり追って来ていたのかもしれない。自分の逃げる道は、きっと全部見られていた。どんなに複雑な道を選んでも意味なんて無かったんだ。
けれど自分が、地下に降りて姿を消したから。それでも途中まで、線路を辿っているのを見ていたから、きっと反対側に飛んで行ったのだろう。
……逃げ切れる気がしなかった。
「…………」
足元の非常灯が、通路の闇に微かな緑の光を浮かべる。けれど目の前の恐怖よりも背後に迫る恐怖が勝っていた。
心の中で「落ち着け」と自身に言い聞かせる。親指がひどく震えている。
浅く、荒く、呼吸をする度。仄かに感じるガソリンに似たにおい。吐き気を催しそうだ。
逃げ道を探して進む。現れた階段を駆け上がる。
その先には広い空間。資材が散乱し、作りかけの車両があった。それらを認識できる程に、空間はうっすらと明るかった。
どこかから外の光が入っているのだろう。──それはまずいと、少女は本能的な危機感を抱く。
あの化物に、あらゆる出入口で待ち伏せられているような気がした。もっと離れた場所まで進まないと、到底外には出られない。
もっと、もっと。深くへと下りなければ。
一層の暗い道を選ぶ。入り組んだコンベアを抜ける。スポットライトのように漏れ入る光に心臓が音を立てる。
長い廊下。真っ赤な非常灯。規則的に並ぶ長い階段を駆け下りる。靴が金属を叩く音だけが周囲に響いていた。
──白い首筋はじわりと汗ばんでいる。
時折、この迷路から抜け出せなくなる感覚に駆られた。しかし引き返す事は出来ない。どちらに転んでも死ぬしかないなら、せめてあの化け物の手にはかかりたくなかった。
冷静さは既に欠落した。ただ道があるから進む、少女はもう、それしか考えられなくなっていたのだ。
──どこかから遠くに聞こえてる、自分のものではない軋む音が焦燥感を掻き立てた。
携帯電話のライトが照らす赤い部屋。足元の非常灯が照らす緑の部屋。もうとっくに、自分が今どこにいるのかなんて分からない。
景色が変わる。マンションを思わせるコンクリートの廊下に、狭い間隔で玄関が並ぶ。従業員の宿舎だろうか?
鍵は掛かっていなかった。独房のような狭い部屋には誰もいない。隠れられそうな場所も、逃げられそうな抜け道も無かった。
油と排水が混ざったにおいは消えない。むしろ強くなっていた。怖くて恐くてたまらなかった。
だが、搾り滓ほどの前向きな感情──此処は暗いだけで、自分を襲う何かがいるわけではないのだと──が、少女の背中をなんとか押していく。
「ハァ、──、……はっ、……ぁ──」
呼吸はゆっくりと浅い。
壁から露出したパイプを伝って進む。パイプは何故だか濡れている。空気もまた、段々と湿ってきているように思えた。
やがて廊下の突き当たり。
壁沿いにはいくつか扉があった。
全て鍵が閉まっていた。
もう、そこから先へと繋がる出入口は、見当たらなかった。
「…………」
行き止まりだ。
今度こそ、本当に行き止まりだ。
青ざめる。手足が震える。どこにも進めない。けれど戻れば、確実に化物と鉢合わせる。
かと言って──此処に留まっていても、いずれ辿り着かれるだろう。そうしたら今度こそ無事ではすまない。
「……なんで……」
ああ、どうしよう。どうしようどうしよう。どうすればいい?
細い声は反響もせず闇に消える。静けさの方が大きいのだ。当たり前だ。だってここには誰もいない。助けてくれる人も物もない。いるとすればあの化物だけ。
どうすればよかったのだろう。なんでこんな所に来てしまったのだろう。壁に手をつきながら、ゆっくりと膝が崩れた。全身の力が抜けていく。
────床に落ちた携帯電話が、壁の隅に何かを照らした。
「……!」
通気口だ。それも、子供であれば通れそうなほど大きな。
錆びた鉄格子で塞がれたそれは、その先に別の場所が存在することを示していた。
まだ通っていない場所がある。そう直感し──少女は咄嗟に格子に手をかける。そのまま、祈るように力を込めて引っ張った。
ガシャン。
よほど錆びていたのか、そんな気の抜けた音と共に鉄格子が外れた。
──それを幸運以外の何と呼べるだろう。少女は安堵のあまり泣き出しそうになったが、耐えた。此の場所から遠い場所へ──あの化け物が追って来られないような場所へ、出られなければ意味がない。まだ助かったわけではないのだから。
先に続く闇を見つめ、恐る恐る手を入れる。壁に当たるような様子はなく、ある程度の広さはありそうだった。
あの化け物の大きさでは通れないだろう。けれど自分なら──恐らく通り抜けられる。
最後の望みをかけて、腕と頭を入れようとした。
その時、
「────────あぁー」
遠くから、微かに聞こえてくる声。
確実に、こちらへと向かっていた。
「────こ、だ? あー? 見えな──」
それは金属が軋む音。
そして金属を壊す音。
すぐ近くにいるわけではない。しかしそれでも、先程よりはずっと近くまでやって来ている。
迷う暇も考える余裕も既に無かった。少女は慌てて、四つん這いのまま中へと入る。
においが更にきつくなる。しかしそんな事は考えていられない。這うように進んで、やがて視線の先に僅かな明かりを見た。
非常灯に染められた赤い空間。通気口とを隔てる金網。少女は手を掛け、力一杯に叩いて押す。
幸い、こちらも簡単に外すことができた。錆びた金属のにおいが鼻についた。
埃に咳込みながら這い出て、慎重に立ち上がる。暗くて周囲がよく見えないが、天井は高いようだ。
「……」
──上からは、規則的な轟音が聞こえて来る。
携帯電話のライトを付ける。足元を照らすと。あちこちに瓦礫が散らばっていた。……大きな瓦礫だ。家屋でも落とされたのかと思う程。
そんな場所ではあるが、少女はようやく息をつくことができた。
空気は重く、錆と油のにおいがした。
此処なら、化け物は入って来られないだろう。あの身体の大きさでは通気口を抜けられない。
しかし、もし此処で行き止まりなら? これ以上道が無ければ? 自分はもう此処にいるしかない。
それでも、あの化物に襲われて死ぬくらいなら──
「……ここで……?」
そうしたら私は、どうなるのだろう。
「……」
此処で、どうなる?
「……っ」
────いやだ。
こんなに怖いのなんて嫌だ。
こんなに暗い場所でなんか嫌だ。
ひとりで死ぬのだって嫌だ。全部、嫌だ。
だって私、“普通”に死にたかったのに。
「…………お母さん……」
わがままなのだろうか。願うことすら許されないのか。
私はどうすれば、どうしたらよかったの。
ああ、とにかく。意地でも出口を探すしかない。生き延びるしかない。
きっとたくさん時間がいるけど、大丈夫。密閉されていない此処は、空気が無くなる心配も無いのだ。あの化物が入って来られないなら、焦らずゆっくり探せばいい。大丈夫。
自問自答を終える。
深呼吸をし、足元を照らして慎重に歩き回る。──気をつけなくては。釘でもあったら大変だ。
ああ、せめて懐中電灯が欲しい。心からそう思う。非常灯は暗闇を不気味に彩るだけで、携帯電話のライトはあまりに心許ない。
視界は最悪だ。それでも更に別の場所へ広がっているように感じた。一体、どこまで続いているのだろう。
びちゃり。
「……?」
ふと、水が跳ねる音を聞いた。
再び足元を照らす。そこには、小さな小さな水溜り。
油の匂いがする。まるで黒いコールタールのような。
「何……」
それはパン屑の道標のように、点々と続いていた。
──という事は、この液体が流れてくる元がある筈だ。下水か何かがあるのかもしれない。下水路があれば、離れた場所へと出られるかもしれない。少女はそんな期待を胸に、足元を照らしながら進み──
「──……え?」
息を飲んだ。
人が倒れていた。
水溜りはそこで終わっていた。
「……どうして……」
こんな所に人がいる。自分以外の誰かがいる。信じられなかった。
なら、この水溜りは、
この液体は──まさか、この人の。
「……!」
震える足で駆け寄った。声を掛けたが返事はない。意識が無いのは明白だ。
──どうしよう。応急処置なんてわからない。学校でだってちゃんとは教わってない。
倒れた誰かの顔を照らす。眩しさに反応するかと思ったのだ。
体格からして男性であろうその人は、顔の上半分に不思議な仮面をつけていた。それでも、血塗れであることはよく分かる。
「救急車……」
早く助けを。そう携帯の画面を見るが────圏外だった。
……電波がないのはきっと地下にいるせいだ。外に出れば大丈夫。そう思った。そう思いたかった。しかし仮に電波があったとして、救急車なんて来るのだろうか? ──それ以前に、
そもそも、この人は、
「……」
もう一度、今度は目に向けてライトを当ててみる。
反応はやはりなかった。
何もなかったのだ。
男は何かの液体にまみれて横たわる。
液体は辺り一面に広がっている。
その姿が、ブレザーを着たあの女の子と重なった。私が見捨てたあの子。たったひとりで死んでしまったあの子。
果たして今、この場にいるのは────本当に“二人”なのだろうか?
「────」
自分の心臓の音が聞こえる。大きく、それだけが聞こえてくる。胃に重い違和感を覚える。
油のにおい。金属のにおい。どこか覚えのある鉄のにおい。胃の中がぐるぐると回る感覚。鼓動は跳ねるように大きくなる。
口から漏れた息は震えていた。手も震えていた。ああ、でも、確かめなければ。
そして少女は、手を伸ばし
「──お願い……」
生きていることを祈りながら、そっと、黒い男の胸に触れた。
◆ ◆ ◆
────巡る。
一瞬にして、少女の全身を駆け巡る。
電流のような衝撃。
自分の中に流れ込む濁流。
何かに繋がれたような感覚。
指の肉が裂けるような激痛。
目眩がした。動悸がした。呼吸が出来ない。なのに吸い付くように手が離せない。目がそらせない。
ぐるぐると。
ぐるぐると。
体の中に何かが、入っていく。
油のにおい。どこか焦げ臭い。焼けてしまいそうになる。
──点滅する視界の中、それまで微動だにしなかった男の身体が跳ねた。
「────!!」
男が痙攣し血を吐いた。大量の血液は少女の手に降りかかる。白と黒がはっきり分かれたコントラスト。コールタールによく似た血液。
少女は呼吸が苦しくなって、動揺することすら出来ない程。男の胸に貼りついたように離れない手が、胸が、痛い。痛い。どこもかしこも痛い。痛かった。
全身が痺れる。吐息が漏れ、力が抜け、男の身体に手をつきながら、その上に倒れ込んた。
何が起きたか考える事も出来ない。見開いた目から生理的な涙を溢れさせ、必死に呼吸を取り戻す。なんとか起き上がろうとし──
────瞬間。男が少女の腕を掴んだ。
「え──」
男は顔を上げ、唸るように声を漏らし、血を吐き、目を開く。
その姿に少女は驚愕した。苦痛に歪む顔、三つの瞳に、彼が人間でないのだとようやく思い知る。
男の息は荒く、どこを見ているわけでもなく、ただ喚くように、叫ぶように、自らの吐いた血で溺れていた。
細い腕から手を離さない。少女は狼狽えながら、しかし腕を振り払おうとしなかった。どうすればいいのか分からなかった。
咳き込む男の目からは黒い液体が溢れる。頬を伝う前に、地面に落ちて見えなくなった。
「…………泣いてるの?」
それを見て、思わず出た言葉。
男は答えない。呼吸は荒いまま、しかし吐き出す血の量は減っていく。
目が合った。
男はただ、虚ろな目で少女を見つめていた。
◆ ◆ ◆
何かに触れた。
あたたかい。
あたたかくてやわらかい。
何かは、わからない。
目を開ける。
暗い空間が広がっている。
黒。灰色。彩度の無い世界。
目の前には何かがある。
知らない何か。
誰かが、
“泣いてる”
言葉の意味は理解できず、ただ、綺麗な音がしただけだとしか感じない。
しかしそれもほんの僅か、直感的なものでしかなく、やはり彼は何も理解できないのである。
全身の激痛。焼け爛れた喉。彼の視界はチカチカとブラックアウトを繰り返し、さながら映画のフィルムのようであった。そして
「 」
廃棄物の中に咲く、白い花の情景。
彼の中に一瞬だけ浮かび、消えた。
◆ ◆ ◆
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