◆ ◆ ◆
少しずつ、少しずつ。少女を襲っていた激痛が引いていく。
「……」
ゆっくりと起き上がり、深く息を吸う。
痛みが馴染んでいく錯覚。全身が熱を出したように汗ばむ。白い胸元を、小さな雫が幾つも伝っていった。
少女の視線は、自分の腕を掴んだままの男に向けられていた。
目が合っている、端から見ればそうだろう。しかし男の瞳には少女が映っていない。視力がないのか、もしくは視界に映る一切を認識できていないのか──とにかく何も見えていないようだった。
男は再び嗚咽し、嘔吐する。吐瀉物は相変わらず黒い液体である。横たわったまま吐き出しているので、窒息しないよう起こそうとした。……が、少女の細い腕で、男の大きな肉体を持ち上げられる筈もない。
少女は狼狽した。何をすればいいか、自分に何が出来るのか分からなかった。
それでも何かしらの処置ができなければ──この人はきっと、今度こそ助からない。せっかく生きていてくれたのに。
空気が漏れるような荒い呼吸が聞こえてくる。大きな手に掴まれた腕が痛い。けれど振り払おうとは思わなかった。あの化け物と違って、不思議と嫌悪感や拒絶の感情は生まれなかった。
──この人は、ただ生きようとしているだけなのだから。
腕を掴まれる痛みから感じる生への渇望。
この人は死にたくないだけだ。自分と同じように。生きていたいから必死に手を伸ばしただけ。
それなのに。自分では、この人を助けられない。
「……ごめんなさい……」
そう呟く鈴鳴りの声。
男はぐるりと眼球を動かした。焦点は合っていなかった。虚ろな顔で再び吐血し、血液で汚れた黒い手に──少女は、自身の手を添える。
静かになる。
数秒か、数分か、曖昧に時間が経過した頃、少女の呼吸が落ち着きを取り戻す。男の呼吸は相変わらず苦しそうだった。携帯電話のライトは消え、非常灯の微かな赤色だけが周囲を照らしていた。
……本当に、とても静かだ。
そういえば、化物の声は聞こえてこない。此処に入ってからしばらく経つというのに。
逃げ切れたのだろうか? もう大丈夫なのだろうか? ──よかった。そう思うと少しだけ安心する。このまま諦めて外に出て、もう二度と自分を探せない程、遠くへ行ってしまえばいいのに。
「……何なの……」
少しだけ冷静になれば、状況は余計に理解できなくなるばかり。
当たり前だ。わけがわからなかった。きちんと、帰れるだろうか。無我夢中で走ってきてしまったから。
だが、その前に
「……」
項垂れたまま、握った手には棘が刺さる様な感覚が続く。……そんなものよりきっと、この人の方がずっと痛いだろう。
顔を上げて男を見る。手を強く握り、呼びかける。
「……頑張って。きっと、助かります」
「……」
「病院に……救急車、絶対に呼びますから……」
反応は無い。それでも少女は
「……あなたは……」
「────────つ、けたぁ」
鈴の音は、壁越しに響いた濁声に掻き消された。
「え?」
思わず、とぼけたような声を上げる。──心臓が、跳ね上がった。
「みぃー、つけ、た!」
◆ ◆ ◆
「い、いーにおいだ。ははっ! ここだぁこの穴! この先だあ見ぃーつけた! ギャハハハッ!」
少女は振り向く。
不規則に響き始めた、壁を突いて壊すような音。笑い声とは反対に、怒りの込められた破壊音。ああ、怒っているのだ。自分をこんなにまで手間取らせた事を。
追いつかれた。
「ギャハハハハハハハハハハッ!! で、でも、楽しかったぜ、追いかけっこ、好きぃー」
音は大きくなる。壁の割れる音。パラパラと小さな破片が落ちていく音。
「……──っ!」
少女は咄嗟に男を起こそうとした。だが、無理だ。引き攣った声で「起きて」と呼ぶことしかできなかった。それに、起き上がったところでどうすればいいか──。
いや、考えている余裕は無い。とにかく起き上がらなければ逃げられない。
何度も何度も起こそうとする。男の目は虚ろだった。笑い声が大きくなる。壁が段々と崩れていく。
やがて、壁を壊す音が止んだ。
壁の向こうに誰かがいた。
少女は声にならない悲鳴をあげた。
「つかまーぇ、た、ぃぃぃぃぃいいいい」
響き渡る濁声。ブギーモンは穴をくぐり、中へと入って行く。
赤い部屋に赤い化け物。わざわざゆっくりと、大げさに歩いてこちらへと寄ってくる。
────その姿を見た、“男”の表情が、変わった。
「あー、感動の、再会、って、やつ、だぁー」
少女はそれに気付かない。
声も出せない。文字通り、ブギーモンに釘付けだ。
悪魔の口角が吊り上げる。少女の腕にいる誰かには気付かない。
ブギーモンは微笑む。
笑う。
目は笑っていない。
壁を壊した槍は欠けている。
目が笑っていない。
「追っかけっこ、ぉー、ぉ、おおっひぃぃっ追いかけっこぉぉぉぉっっっ楽しかったなーまさかこんな行き止まりばっか逃げんなんて面白かったよぉ大人しくあのまま線路辿ってりゃぁすぐだったのになぁぁ、ぁあ、ぁ、でもそれじゃお前がつまんねーかせっかくのデジタルワールドだもん遊びたいよぉーっ俺も遊びたかったんだよぉぉやっぱでもだめだなぁやることって先にやんないといけないんだよなぁそう思うだろでも楽しかったなぁ俺も楽しかったぜお前いいぃいいいっぃーっい匂いすんだあああああ甘い匂いするぅ追っかけるのランデブーみたいでロマンチックだったと思うんだよおお本当になぁこんなところまでよく逃げて! きやがった!! ゲームオーバーだ糞野郎!!!」
足音は立たなかった。浮いていたからだ。それでも何故か足音が大きく鳴っている気がした。自分の心臓の音だった。
「……来ないで……」
「足だ。足だぁ足だぁ足だぁ足だぁぁあぁそんなもんあるからいけねえんだよな? なー? いらねえだろ? 取っちまおう? な? だいじょうぶへーきへーき死なないから! 俺も! 怒られないっ!」
「やめて……」
「だからあぁぁぁ、あ、あ? ――てめえ何持ってんだ?」
「……!」
──視線を落とす。ブギーモンはようやく、男の姿に気が付いたらしい。
「デジモンじゃねえかぁ! 死にかけだ! ひひひっ良かったなぁ救世主様だなぁそいつもう死にかけて動かねーぎひゃはははっ!! 分解始まんねぇならお姫様食う前に目の前で食ってやるよぉ!」
「……ケガ、してるの……この人……だから」
「な、自分の心配しろよ。さっきみたいにガキ死ぬの見捨ててまた逃げちまえよ」
「────」
言葉を失い硬直する少女に、ブギーモンは下卑た笑みをこぼす。
笑う。
ゆっくりと近付く。
少女の腕に抱かれたデジモンを見て、にやにやと笑う。三又の槍を構える。
────その時だった
「──ぁ? 何だお前」
目の前の“死に損ない”が、視線を自分に向けていた。先程まで首を垂らしていた奴が。
「んだよぉ。見てんじゃねーぞ、おい。クソが」
汚い笑顔を一瞬にして歪ませる。
槍を振り上げた。刃先は当然こちらを向いていた。少女は男を庇う為か、もしくは防御反応か、身を屈めて男に被さろうとし──。
「あっ」
──押し退けられた。
自分がそうされた事を、少女はすぐに理解できなかった。
先程まで少女の腕を掴んでいた、男の手が
「 」
自身の身体に突き刺さる寸前の、槍を掴んでいて。
「────は?」
素っ頓狂な声が上がった。
槍が男の手の中で砕けた。
悪魔から視線を逸らさないまま、片手で少女を押し倒し──黒い大男が上体を起こす。
砕けた槍の欠片が溶ける。
黒いコールタールのような液体が、垂れる。垂れる。垂れる。
溶ける。
「──────おい……おいおいおいおいおいおいおいおい嘘だろお前、毒が」
男は倒れるようにしてブギーモンに掴みかかった。
黒く汚れた手が、ブギーモンの、腕を
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああぁぁぉぉぉぉおおおぁあああああああああああああああああああああああああああ」
肉が焼ける音。
絶叫。油が焼けるにおい。絶叫。白目を剥く悪魔。肉が溶けるにおい。
「ぎぃっ、ぐぇえっ、げ……」
そして。
──男の手が一瞬、光ったように見えた。
悪魔が薄い光に包まれた。何かを叫びながら、足の先から光の粒に分解していく。
少女はその光景を呆然と眺めていた。
何が起きているのかわからなかった。
間もなく。
ブギーモンは微塵も残らず分解し、男に吸い込まれるようにして、消えていった。
◆ ◆ ◆
散らばっていた光が消える。
その様子を、まるで蛍のようだと思った。夜に消えていく蛍。そんなことを一瞬、思って──気付いた時にはもう、辺りは赤い闇に戻っていた。
壁の向こうにも、目の前にも、どこにもあの化け物がいない。消えていなくなってしまった。
「…………違う」
再び静かになった地下。地上からの轟音が遠く聞こえる。
(違う。あの悪魔は、いなくなったんじゃない)
死んだのだ。殺されたから消えたのだ。この、“人のような男”によって。
しかしあまりに非現実的な光景だった故か、不思議と実感が湧かなかった。どこか映画でも見ているような感覚だ。紛れもない現実だというのに。
「……」
少女は振り返り、男に目をやる。男は上体を起こしたまま、力なく首を垂れていた。
「……助けてくれたの?」
男は答えない。あくまで結果そうなっただけで、彼は別に、それを意識して動いたわけではないのだろう。自分を映さない血色の瞳がそう語っていた。
そうして僅かな沈黙の後、突然、男が軋むように背中を屈めた。頭を抱え、苦しそうな声を上げ始める。
「……!」
少女は慌てて男の背中を摩った。手に再び痛みが走るが、気にしてはいられない。
男は打ち上げられた魚の様に口を開閉させている。
吐き出す空気に混ざり、僅かに聞こえる低い声。何かを言おうとしているのだと少女は気付いた。
──耳を澄ます。男は確かに何かの言葉を発している。
同じ単語を、何度も、何度も。確かめるように。誰かに問うように。
「──、──」
少女はそれを、名前なのかもしれないと思った。
だから、オウム返しのように聞き返したのだ。
「××××……?」
黒い男は
「────」
目を、見開く。そのまま勢いよく少女に手を伸ばした。彼女の細い腕を乱暴に掴み、引っ張った。無理矢理に花を毟るかのように。
「……ッ!」
少女の身体がその勢いで床に転ぶ。反対に男は、よろめきながら立ち上がる。
男は少女には目を向けなかった。しかしその手は力強く、彼女の手首を握り締めたまま。
少女は「痛い」と男の手を掴むが──離してもらえる様子はない。そのまま男にしがみつく形で、少女もなんとか立ち上がった。
男はゆっくりと天を仰ぐ。そのまま視線を固定し、動かなくなった。
高い、高い、真っ暗な天井の先。規則正しい轟音が響く。
だいぶ深くへ降りた筈なのに、聞こえてくるのは何故だろう。少女は今更ながらに疑問に思った。ここが空洞だからなのか。それとも、自分が思う以上に外と近いのか。
「……外……」
……そうだ。もうあの化け物はいないのだから、もう外に出ても大丈夫なんだ。
そう思った瞬間、安堵で胸が熱くなった。出口は既に──皮肉だが、あの化け物が作ってくれている。来た道を戻るだけでいい。
しかし、地上から此処までかなり距離がある筈だ。こんな状態の男が移動に耐えられるだろうか?
「……あなた、歩ける?」
すぐに助けを呼べるとは思えない。男が腕を離さない以上、彼を置いて探しに行くのも難しい。自分達の足で出ていくしかないだろう。
「あの道を戻ったら、きっと出られるわ」
少女は男の腕に手を添えて、引いた。男は動かなかった。
「──、──は……」
「……え?」
「……──ここ、は」
掠れた低い声が零れる。
男は片手を自らの脚──膝下に装着されていたホルダーのようなもの──に添え、そこから何かを抜き出した。
銃だった。
人間が持つにはあまりに大きな、黒銀色の銃。
「……さむい……」
そして──虚ろな瞳で見上げた天井に、銃口を向けた。
直後、耳を裂くような音が響く。──銃声だ。初めて聞くそれはあまりに大きくて、少女の鼓膜にビリビリとした痛みが走った。
男は続けて数度、銃を放つ。弾丸は硬い音を立てて何かを穿った。
地下室が振動する。今度は上から金属の軋む音が聞こえて来た。
少女は嫌な予感がした。まさか、天井を?
「……!!」
咄嗟に男の腕を引くが、微動だにしない。少女は屈む体勢も取れず、男の脇に隠れるしかなかった。
周囲に小さな欠片が、細かな瓦礫が落ちてくる。埃が立ち込める。少女は固く目を瞑り、静かになるまで怯えながら耐え続ける。
──その後。一度大きな音がして、それから何も聞こえなくなった。自分の身体が潰れていない事に胸を撫で下ろし、少女は瞼を開いた。
「……あ、」
そこには光があった。
瓦礫がだらりと垂れた天井。隙間から覗く暗い空。
差し込む光は細く薄く。地下深くを照らすには足りない。それでも視界は夜明け前ほどの明るさを得た。
おかげで男の容姿全体を視認できるようになり──少女は思わず目を見張る。
男に対する第一印象は、長身の若い男性だ。体格は細身のようで、けれどしっかりと筋肉が付いている。
黒いインナースーツの上にボマージャケット纏い、顔の上半分から頭頂部を、青紫色の仮面で覆っていた。
そして、血の様な赤い三つの瞳。眼球のひとつは額にあり、それぞれが仮面に空いた穴から覗く。そして臀部からは、鎧の様な長い尾が生えていた。
やはり彼は人間ではないらしい。
そう認識しても尚、男に対する恐怖心が湧かない事が不思議だった。掴まれた腕はこんなにも痛いのに。
「────」
男は光を見上げている。外を、見上げている。
彼もまた、此処を出ようとしているのだろうか。
「でも、ここからじゃ高すぎて届かないわ」
明かりの下、改めて周囲を見回すが──他に出口は見当たらない。
扉らしきものはあったが、四辺を溶接され壁と一体化している。天井からは当然出られないので、通気口から戻るしかないだろう。
しかし男は、悪魔が作った道には目もくれなかった。当然少女に対してもだ。首を左右に揺らし、ある方向で止めると銃を構える。──引き金を引いた。
繰り返す銃声と衝撃。金属の破壊音。
照準は曖昧だったが、男はそれでも特定の方向、壁の至る箇所に弾丸を撃ち込み続ける。
──最初に吹き飛ばされたのは、溶接された扉の跡。その先には暗闇と、驚くべき事に道が続いていた。
男はそれを知っていたのか。それとも偶然だったのか。とにかく彼の目線は深い闇へ向けられて、それが少女に向く事は無かった。言葉を掛ける事もなかった。
ただ真っ直ぐ、『外』を見つめて。
男は、ゆっくりと歩き出す。
◆ ◆ ◆
外だ。
誰かが、頭の中でそう言った。
外に出た。ようやく外に出られた。
なら、自分は今まで何処にいたのだろう。
思考という行為には激しい痛みが伴った。
しかし放棄すれば本能に飲まれると知っていた。
灰色の視界。薄暗くぼやけた輪郭。
見知らぬ場所。傍らにいる白い色。
どこか見覚えがあった。これは、何だったか。
手の中の感触はあたたかい。
ああ、やっと手に取れた。────何を?
思い出せない。だが、恐らく錯覚だろう。
自分の願いなど、何一つ叶いはしないのだから。
意識が輪郭を取り戻していく。
鮮明になるのは、視界ではなく頭の中。
本能が生きる事を要求する。まだ足りないと求める。
脳内を貪る。──だから、こんなにも頭が痛いのか。
そんなものはお前に言われるまでもない。
早く、早く、早く何処かへ行かないと。
本能は幼子のように喚き散らしている。
行かなければ。
食べなければ。
◆ ◆ ◆
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