◆ ◆ ◆
封鎖された扉の先にはトンネルが続いていた。
緩やかな階段が広がる空間は、何かの管理用通路だったのか、もしくは排水にでも使っていたのか──長いこと放棄されているようで、非常灯は殆ど機能していなかった。
少女は携帯電話のライトで足元を照らし事なきを得たが、正面を向いたままの男は何度も段差に躓いていた。
それでも男は立ち上がる。覚束ない足取りのまま。
「…………」
この人は何処に行くのだろう。きっと外に行きたいのだろう。
この人は何がしたいのだろう。きっと目的など無いのだろう。
少女は呆然と考える。現実を未だ受け止められないまま、受け入れられないまま。
無意識に溢れる涙は安堵からか、不安からか、それとも腕の痛みからか──それさえも分からなかった。
どこか遠くで響く轟音が、二つの足音よりも大きくなった頃。トンネルの先に薄明りが見えてくる。
長い階段も終わりを迎えた。出口はフェンスで塞がれていたが、男の銃でフレームごと破壊された。
街の中には相変わらず、廃墟が群れを成していた。少女が連れてこられた場所から、ずっと離れた都市の郊外である。
見上げた空は仄暗い灰色。
霧と排気が、空の光を遮っているのだろう。
「──あ、あの」
少女は遠慮がちに、しかし勇気をもって声をかける。
「……」
「病院……」
「……」
「探しに行かないと、そのままじゃ」
「……」
男は前だけを見つめていた。こちらに視線を寄越す事はしなかった。
「……」
少女も、それ以上は言わなかった。それでも、と携帯電話を覗いてみるが──電波はやはり無いようだ。
ふと、地下での疑問が再び過る。仮に電波があったとして、救急車は来るのだろうか。そもそも病院自体、存在しているのだろうか?
こんな状態の街で、医療がまともに機能しているとは思えなかった。あれだけ街の中を走ったにも関わらず、住民ひとり見当たらなかったのだから。
──もしかしたら。今この場所にいるのは、自分と男だけなのかもしれない。
そう考えた途端、少女の胸に不安の波が押し寄せた。
無人の街路を往く。
アスファルトの道に散らばる破片。踏み砕いていく男の足取りは重く、少女より遅い。
だが、どう進むかは男に任せた。そもそも男に腕を掴まれているせいで、少女は自由に動けないのだ。
──それから、二時間近く歩いただろうか。二人の前に荒れ果てた広場が姿を見せた。周囲一帯が、高い壁に囲われていた。
壁に張り巡らされた有刺鉄線。封鎖された出入口。
恐らく此処は──
「……外……」
廃工場都市の境界線。此処を越えれば“外”だ。
これでこの街から逃げ出せる。そう思った途端──少女の中で、喜びよりも後ろめたさが湧き上がった。
理由はひとつ。
「……──あの子が、まだ」
あの場所にいるのだ。あの悪魔と出会った場所。このままでは置いて行ってしまう。
「待って……」
だが、立ち止まる事はできなかった。掴まれた腕が引っ張られたからだ。少女は、ただ振り返る事しか許されない。
「だめ……待って、あの子を……」
今更引き返したところで、彼女の亡骸を見つける事は困難だと分かっている。
それでも──弔いたかった。それが無理ならせめて彼女の、開いたままの瞼を閉じてあげたかった。
しかし男は、少女の懇願に反応一つ示さない。
片手で有刺鉄線を引き千切り、皮膚が裂けたままの掌で銃を取り、壁を撃ち壊すのだ。
掴まれた腕が痛い。痛くて痛くて泣きそうになる。
けれどあの子の方がずっと、痛くて、怖かっただろうに。
「────」
罪悪感に目を伏せる。
少女は口を噤んだ。そのまま引き摺られるように、都市の外へ連れ出された。
◆ ◆ ◆
街を一歩出れば、広がっていたのは黒い荒野。
生温く湿った空気が立ち込め、街と同様、排気混じりの霧がかかっている。
不明瞭な視界の中を男は進む。ボロボロの身体を引き摺るように、何処に続くかも分からない遠くを見つめて。
そんな男の傍らを、ひとりの少女が歩いている。
人間の少女。絵に描いたような美しい容姿だった。白い肌、真っ直ぐ伸びた柔らかな黒髪。愛らしい人形を思わせる、線の細い可憐な少女。
それが男に腕を引かれ、共に歩いて────なんて、よく出来たような話である。
しかし男は少女の容姿など認識できていない。少女の存在どころか、世界の殆どを認識できていなかったのだ。
「……」
少女は額に滲んだ汗を、セーラー服の袖で拭う。あの黒い街を出てから、一体どれほど歩いたのか。
振り向く。街はもう、その影すら見えなかった。離れたせいか、それとも霧のせいかは分からない。
時間や距離の感覚も無い。景色は変わらず黒い岩石砂漠のまま。進む先には街どころか、生命ひとつ存在しないように思えた。
────ここは、どこだろう。
知らない場所。知らない誰か。まるでおとぎ話のようだ。疲労で頭がぼうっとして、そんな馬鹿げた事を考えた。
男に目をやる。あの地下を出てから、言葉を発することも、こちらを向くこともしない。
それでも腕は掴まれたまま。もう、痛みも痺れも通り越して、何も感じなくなってきていた。
足取りも相変わらず、重く遅く覚束ない。経過する時間と進んだ距離とは比例していないように思えた。──当たり前だ。男は本来、とても歩き回れるような状態ではないのだから。
死にかけていた筈だった。だが、生き延びた。
朽ちかけた体、それでも外に出ようとしていた。
「……これから、どこに行くの?」
街を発ってから、少女は初めて口を開く。
しかしもう、反応は期待していなかった。ただ聞いてみただけ。一方的に語りかけただけだ。
それなのに、
「────」
予想に反し、男が一瞬だけ視線を向けたのだ。
少女は目を丸くさせ、けれど咄嗟に別の質問を投げかける。
「具合は、大丈夫?」
「……」
男の顔は、今度は前を向いたままだった。だが──
「……今、何て?」
彼の口から何かを聞いた。その直後、男は突然歩みを止める。
虚ろな瞳。掠れた声を漏らし、何かを──
「──、──」
声の小ささに加え、身長差のせいでうまく聞き取れない。少なくとも返答ではなく、ただ思った事を口にしているだけのようだ。
「……ねえ、何て言ったの?」
そう尋ねる少女の声は、男の咳で掻き消された。男は咄嗟に手で口を覆うが、指の隙間から黒い液体が溢れていく。
どろりと地面に咲いていく──尋常ではない量の、黒い血液。
「……!」
「──」
「やっぱり、これ以上は……動いちゃだめ、ねえ」
「……──、を……」
「あなた、本当は歩くのだって「デジモン……」
「────え?」
直後。男は、脚のホルダーに手を伸ばす。
あの時地下の天井を、トンネルのフェンスを破壊した黒銀のショットガン。血塗れの手でグリップを握り、ゆっくりと空に掲げ構えた。
少女はそれを無防備に眺めていた。
次に何が起こるかなんて、容易に想像できた筈なのに。
「……もっと……──を、────」
────耳を裂くような轟音が響く。
空気を震わせる銃声。男の手から振動が伝わる。不意を突くにはあまりに大きな衝撃。
硝煙が霧に混じり二人を巻く。何度か破裂音を響かせた後、男は引き金から指を離した。
銃を握ったまま腕を垂らす。荒く浅い呼吸の中、何やら耳を澄ませている様子だ。
──そして、顔を上げた。その時の男の瞳には、僅かだが確かに生気が宿っていた。一体どうしたのだろうと、男の目線を追って──呼吸が止まりそうになる。
霧の向こうに何かがいた。
姿はよく見えないが、少なくとも自分が知っている生物の形状をしていない事、そしてこちらへ接近している事だけは分かる。……男がそれらを誘き寄せたのだと、理解するのに時間はかからなかった。
「……“デジモン”……?」
あまりに非現実的なこの世界で。
様々な姿を持った異形の生物達を、総じてそう呼ぶのだとすれば。
それは、きっとあの悪魔の怪物も。そして──
「────あなたも?」
気付けば、霧の中の影はその数を増していた。
岩陰に湧くフナムシのようにこちらを見ていた。
男はその群れに銃口を向け──引き金を引く。
銃声が轟く。銃弾の軌跡を描くように霧が晴れる。
光の粒子が飛散する中、弾丸から逃れた影が姿を見せた。背部から触手を伸ばした、硬い蛹のような生き物であった。
──そのデジモンの名は、クリサリモンという。
成熟期、ウイルス種。この地で奇跡的に、毒の汚染を受けていない個体群だ。
男は生き残ったクリサリモン達に視線を移した。
腕を下ろすことはなく、もう二発。指に力を込めるだけで、残った彼らも消していく。
分解したクリサリモン達の粒子が、男の中へ流れていく。吸い込まれるように消えていく。
やがて粒子が見えなくなると、男は深く息を吐いた。
少女には理解できなかった。男は何故、わざわざ誘引するような行動を取ったのだろうか。
いいや、それより……あの生物達が、男の行動によって誘き寄せられたという事は────。
「……!!」
少女の予感は的中し、今度は上空から声が響く。
獣の金切り声。灰の空を過る黒い影。
それは複数の赤い目と長い手足、蝙蝠の様な翼を抱いた巨大な生き物だった。名を、デビドラモンという。
クリサリモンと同じく汚染を免れたウイルス種。成熟期である。彼は純粋に獲物を狩るべく、男を目掛け急降下した。──しかし、
、
「ギャアァッ!!」
銃声。霧と共にデビドラモンの翼が弾け飛ぶ。
黒い巨体はそのまま地面へ落下し、歪な音を立てた。
少女はそれを残酷な光景だと思った。しかし男を止められなかった。恐怖以上に、「これは現実だ」という実感が持てなかったのだ。──少女の中で働いた、心理的防衛機制に因って。
地面でのたうち回る巨体。それから乾いた破裂音が数度、繰り返し響いた。デビドラモンは絶叫と共に光を纏い、分解し、飛散し、男の身体へ吸い込まれていく。
────ああ、同じだ。あの時と同じ光景だ。
あの悪魔と同じ──断末魔が上がって、そのまま光の粒になって、男の中に消えていく。
血が出るのに死体が残らない。普通の生き物とは明らかに違う。何もかもが違う。自分が知っている生き物じゃない。
それらが消されていく。彼らと同じく人間ではない、“彼”によって。
「……何、したの?」
誘き寄せた全員を消し去った、男は何故か苦しそうに胸を押さえていた。少女の腕を掴む手が震えていた。
「あなた、何をしたの……」
男が吐血する。けれど拭う事もせず、ホルダーに銃をしまう。その全ての行為は片手で行われた。その間、もう一方の手が少女から離れる事はなかった。
そのまま男は、何事も無かったかのように前を向き──再び歩き出そうとする。
「待って……」
少女は男の腕を引き、抵抗した。
「あなた、どうして……。……ねえ、わからないわ。わからないの。だって」
視線は向けられない。それでも呼び止めるように、
「 」
少女は、男の名を呼んだ。
──男の動きが止まる。見開かれた瞳。そこには困惑の色が浮かんでいた。男はひどく狼狽え、息を大きく震えさせた。
自身の名であろう単語の羅列を、声に出して紡ぐ。──それから、何かを思うように「ああ」と言って、
「……俺、の……。……」
──腕を掴む力が弱くなる。
その事に、少し遅れて少女は気付いた。男は立ち止まると、振り返り──自分達が来た方向に目線を向ける。
遠い瞳。彼は何を思っているのだろう。少女は男の横顔を見上げながら、痛みが残る腕を撫でた。……袖を捲ってみると、白い肌にはくっきりと男の手の痕がついていた。
「────外、に……、……」
虚空に零れる、男の低い声。
「……、……いつ、から……」
虚空を眺める、男の赤い瞳。
「いた……。……────お前」
「──え?」
その言葉は、確かに自分へと向けられたものだった。
少女は驚愕する。男は自分の存在など、まともに認識していないと思っていたからだ。──驚愕と同時にいくつもの緊張が走り、少女の心臓が音を立てる。
「……ずっと、いたわ。私はここに」
「……。……──お前、は……」
それから、遠くを眺める横顔が、振り向いて。
「お前は、何だ」
目線が合った。
初めて、本当に目が合ったのだ。
「────」
彼が少女を認識し、視線が交錯しても尚。男は銃に手を伸ばそうとしなかった。
ああ──やはり、殺さない。殺されない。その事実は少女に一握の希望と、彼女自身「身勝手だ」と自覚する程の、ある期待を抱かせる。
「……私は……」
そして、男の瞳を真っ直ぐに見つめながら。
少女は、自身の名を口にした。
「────カノン。私、カノン……」
少女の名。男は何も言わなかった。けれど少女の顔を、数秒だけ見つめ──また前を向き、歩き出す。
「……どこに行くの?」
少女は後を追う。追い付くのは容易く、距離はすぐにゼロとなる。
すると、今度は少女から手を伸ばした。今にも倒れてしまいそうな男を、支えるように手を回した。触れた場所に、痺れるような痛みを覚えながら。
男はそれを拒絶しなかった。何も言わず、何の反応も示さなかった。
「あなたは、どこに行くの?」
もう一度尋ねる。聞きたい事は、他にもたくさんあった筈なのに。
男は振り返らなかった。
虚ろな瞳で前を向き、風に消えそうな程の声で、誰にも向けない言葉を零す。
「……、……頭、が……。……」
少女を左脇に、右手は銃に添えながら、
「────腹が、……減った……」
視線は遥か霧の彼方。
ひたすらに“食糧”を求めて。
男は、
「……──を……もっと、……探しに……──」
少女は、
「……それなら、お願いがあるの」
「私も、一緒に連れて行って。──ベルゼブモン」
◆ ◆ ◆
そして荒野には、泥の道へ踏み入れた二人分の足跡が続く。
第十二話 終
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