◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆





 不快な臭いが鼻を付く。
 液体の臭いだ。人の体から染み出ている。しかし血液というわけではなく、総じてただ「体液」だと言えよう。
 それらの臭いに、“彼”は苛立ちを覚えながら階段を降りて行く。だらしなく引きずる棍棒が石の段差に当たり、規則的な音を放つ。
 ────下の方でざわついた。臭いの正体とも言える、なんとも不快な群れである。自分が来たことに気付いたのだろう。

 そうして地下室に降り立つ。一度、棍棒を振り上げ近くの鉄格子を殴る。

「黙れよ」


 人間の子供達の、怯えた視線が集まった。







*The End of Prayers*

第十三話
「地下牢の子供達」








◆  ◆  ◆



 海棠誠司は“部屋”の隅で、息を潜めるように膝を抱えていた。

 体温が伝わって生温くなった石の床。石の壁。知らない場所。辺りはうっすらと暗く、自分と同じ年頃の子供達が大勢いる。顔はよく見えなかったが、その誰もが泣いていた。
 視界の先には鉄格子。──まるで、ゲームの中に出てくる牢屋のようだと思った。

 恐らく大人ですら冷静ではいられないこの状況を、それも子供達しかいないならば尚更、簡単に受け入れられるわけがない。目覚めた者からパニックに陥り、気付けば収集がつかない事態になっていた。
 懸命に自分を保とうとする者もいた。しかし冷静になろうと声を掛け合ったところで、安心の一つだって得られはしない。同じ境遇の仲間とはいえ、誰も事情など知らないから──結局、恐怖が闇雲に伝染していくだけとなる。

 そう、誰も、自身に起きた一切の事を知らないのだ。どうして自分がここにいるのか。いつ、どうやって来たのか。その過程の一切を思い出せなかった。
 彼らの記憶に残る最後の光景は、学校の校庭や通学路、公園にスーパーマーケットの駐車場だ。そして──

「外に出て、オーロラを見たんだ」

 口々にそう言う。空にオーロラを見たと言う。唯一、彼らに共通する記憶。
 だが、以降の出来事を認識できていない以上、その記憶は何の手掛かりにもなりはしない。打開策どころか現状の把握さえ出来ず、子供達は不安と恐怖に身を震わせるしかなかった。

 そんな中

「────ユキアグモン……」

 彼だけは、そうではなかった。
 覚えていたのだ。自分に、何があったのか。

「……」

 子供達は「ブギーモン」を認識する間もなく、眠らされ連れて来られた。まともに姿を見ていたとしても、その非現実的な容姿は夢として昇華されただろう。
 だが誠司は違う。悪魔の姿を認識し、理解した状態でこの場にいる。

 それは彼が、既にユキアグモンという存在と出会っていたからだ。だから彼には理解できた。あの赤い悪魔を現実のものだと認識し、記憶に刻んだ。
 ──だからこそ、怖かった。ここに居るであろう生き物が何なのか、漠然と想像できてしまったから。

「誰か来る!」

 ひとりが叫んだ。
 全員、どんな全校集会でも考えられないほど速やかに口を閉ざす。静寂の中、誠司は嫌な予感がし──視線だけを通路に向けた。
 足音が聞こえてくる。大きな足音だ。階段を下りてきているようだった。

 直後、誰かの裂けるような悲鳴が上がった。

 悲鳴は階段に近い方から次々と伝染する。
 やがて視界に、骨のような大きな棍棒を持った赤い鬼のような生き物が現れた。牢のある空間は、阿鼻叫喚の巷と化した。



◆  ◆  ◆



 フーガモンはひどく不愉快そうな顔で棍棒を振るい、鉄格子を殴りつける。
 地下牢に響く悲鳴は一層大きくなった。──ある意味、想定内ではあったが、だからといって苛立ちがおさまるわけではない。もう一度鉄格子を殴り、声を上げた。

「うるせえ」

 鉄格子を何度も殴る。その度に泣き声が溢れ出た。フーガモンと目があった子供達は、本能のまま悲鳴を上げてしまった。

「うるせえっつってんだろ」

 フーガモンは棍棒を床に落とし、持っていた袋も落とし、両側の牢に向かって何かを投げつける。──どこから取り出したのか、それは黒い鉄球だった。
 誠司は息を飲んだ。鉄球が格子にぶつかった瞬間、視界を雷の様な閃光が走り抜けたのだ。

 続けて響く叫び声。恐怖とは異なる色の悲鳴。鉄格子に触れていた、或いはその近くにいた子供が、唸るように泣いて──直後、硬直し倒れた。
 息を飲む音が、押し殺された悲鳴が上がる。しかしすぐに静寂が生まれた。何が起きたのか分からないまま、無事だった子供達は恐怖に身を固まらせていた。誠司も、それ以上は動けなかった。

「次、騒いだら焦がすぞ」

 フーガモンはそう吐き捨てると、順番に牢を見回り始める。彼が一歩進むごとに、子供達は部屋の奥へ逃げて行った。誰一人声を漏らさないまま。
 重い足音。通路を棍棒で擦る音。白目がやたらと多い巨大な眼。──その視線が自分達の牢から逸れる。怪物が背中を向け、それも視界の端へ消えていく。

「……!」

 誠司はハッとして、蹲る子供達に駆け寄った。
 今のうちに、倒れた者を奥へ連れて行かなければ。ぐったりとした女子生徒の腕を、自分の肩に回す。

「ガシャン」

 その時だった。背後から聞こえた金属音に、誠司は思わず振り向いた。
 向かいの牢で、なんと化け物が鍵を外している。けれど子供達を出す筈もなく、大きな袋を投げ入れると閉めてしまった。
 そして、振り向く。またこちらへと近寄って来る。再び悲鳴──しかし小さく──が上がる中、誠司は改めて「化け物」の姿を視認した。

「……!」

 ────似ている。

 そう思った。顔というより、肌の色が。
 最後に見た、恐らく自分を誘拐したであろう化け物も──同じような赤い肌をしていた。

「おい、離れろよ」

 いつの間にか目の前に化け物がいた。睨まれながら言われたせいで、誠司は恐怖で失禁しそうになった。
 すると、運ぼうとした女子生徒が意識を取り戻す。二人で逃げるように牢の奥へ後退った。

 フーガモンは先程と同様、牢に何かの袋を投げ入れる。再び鍵をかけ、去って行く。
 一人が袋に手を伸ばした。周囲に止められながらも開封し、恐る恐る中身を確認していた。

 中には白くて丸い何かが詰め込まれていた。食べ物なのかもしれないと、何となく思った。

 ここは牢屋で、自分達は今、食べ物をもらった。
 今この時点で、「自分達は監禁されたのだ」と確信を持った子供は、殆どいなかっただろう。

「ぼ、ぼくの……」

 その時。誰かがそんな声を上げた。ひどく震えた声に、フーガモンは苛立ちながらが振り返る。

「────あ?」
「お、お、おおお父さん、は、えらい……警察の、えらい人……」

 向かいの牢で立ち上がる、一人の男の子。
 恐らく彼はいち早く事態を察したのだろう。誠司も、誰もが彼を勇敢だと思った。しかし──残念ながら、少年は重大な事実に気付いていない。

「だ、だ、だから……ぼくのこと、さらったのか! 身代金とか、テロとかなのか!」
「……は?」

 少年は鉄格子に近付き、鉄格子を掴み、再び声を上げた。周りの子供達が、必死に男の子を制止しようとする。

「こんなの『かんきん』だ! バレないわけないんだ! す、すぐお父さんたちがくるんだ! 警察がくるんだ! お前なんかつかまるんだ!! そんなカッコーしてたって、全然こわくないんだからな!」

 ──違う。
 誠司の手が汗ばんだ。……違う。だめだ。そうじゃない。

「ゆるさないぞ!」

 だってそいつは、そもそも人間なんかじゃ

「はー」

 フーガモンは、困った、と言いたげに表情を歪ませて。
 鉄格子を握り締める男の子の手を、強引に掴み上げた。

「ぎゃっ……」

 少年の体が柵にぶつかる。側にいた子供達は、何かが軋む音を聞いたことだろう。少年の未発達で華奢な腕を掴む力が、みるみる強くなていった。
 少年が叫ぶ。子供達の悲鳴が上がる。

「ケーサツ、って何だ?」

 その発言の意味を、男の子が理解できるはずもない。

「いや、てか、うるせえよお前」

 バチン、と乾いた音がした。頬を叩かれたような音だった。
 けれど少年は掴み上げられたまま、叩かれても殴られてもいない。なのにぐったりとぶら下がっていた。──彼に何が起きたのか。いっそ平手打ちなら良かっただろうに。僅かに漂う焦げ臭さから、彼の身に起きた何かが尋常でないものだと誰もが察した。
 フーガモンが手を離すと、少年の身体は音を立てて床に倒れた。そんな彼の様子は、幸運にも誠司達の牢からは見えなかったが──子供達全員に恐怖の波が押し寄せる。
 しかし今度こそ、誰も何も言わなかった。言えなかった。その男の子に駆け寄ることもできなかった。
 フーガモンは大きく舌打ちをし、そのまま通路を引き返していく。やがて階段を上る音と、そして大きな扉が閉じるような音が聞こえた。

 静かになる。

 倒れた男の子を心配する声が小さく聞こえてきた。もう声を出しても良いのだと察した子供達は、それを合図とするかのように泣き喚き始めた。向かいの牢から、誰かの「まだ生きてる!」という声が聞こえてきた。

「……よ、よかった……。……──そうだ! ねえ、大丈夫!?」

 少年の生存に安堵すると、誠司は共に奥へ逃げた少女に声を掛けた。ひどく泣き腫らした顔で、けれど「うん」と頷いた。

 誠司は、その顔に見覚えがあるような気がした。思い出せなかったが、彼女が無事なことにただ安心した。



◆  ◆  ◆



 知らない人に、知らない所へ閉じ込められた。
 ただ、それだけの事。自分達が置かれた状況はいたってシンプルだ。

 勿論、そう簡単に受け入れられる訳はない。サスペンス番組のような出来事が本当に起こってしまうなんて、想像する者が果たしていただろうか。
 しかし先程の事態が、子供達に現実を痛感させた。受け入れられなくとも、認めざるを得なかった。

 加えてもう一つ、彼らにとって絶望的な事実がある。この牢屋では、外部と連絡を取る手段が一切、絶たれているという事だ。
 携帯電話が使えなかったのだ。運良く持っていた子供達のそれらは全て、画面に「圏外」の二文字を心無く表示させていた。

 親にも警察にも連絡が取れない。──これがドラマであったら、自分達の中に幸運にも刑事が紛れ込んでいて……といった展開もあるかもしれないが、どう見てもこの場には子供しかいない。

 そんな大勢の子供達が閉じ込められている牢であるが、その環境は実に劣悪だった。
 別に狭いというわけではない。広さについては、むしろ少し余裕がある。しかし地下である為か、換気があまりされておらず──辛うじて通気口はあるようだが、それでもニオイがこもって仕方なかった。
 とりわけ、この環境の中で一番劣悪と言うべき要因は、牢の中に唯一設置された家具≠セろう。
 野ざらし状態の大きな便器。あるだけ良いのかもしれないが、間仕切りが無い。つまり子供達は、大勢の目の中で排泄をしなければならなかった。

(本当に最悪だ。……女子はもっと最悪だろうな。皆で協力して、カーテンでも作れたらいいんだけど)

 そんな事を思いながら、誠司は呆然と周囲を見る。
 牢の中の子供達。正確に数えていないが、その多さはまるで学級クラス──実際には自分のクラスよりも多いと思われる──のようだと思った。
 この牢は教室で、周りにいるのはほとんどが「はじめまして」のクラスメイト。まるで新学期の一日目のようだ。そう思って、誠司は余計にむなしくなった。


 牢の暗さに目が慣れると、誠司は仲間の顔を大体、判別できるようになってきた。
 やはり殆どが知らない子供だ。近くに座っている誰かは泣き腫らした顔で、手付かずのパンらしきものを眺めていた。──そういえば、自分もまだ食べていない。
 よく観察してみる、白いパンのような食べ物。──ユキアグモンはこんなものを食べていたのだろうか。

「……」

 ここはきっと、あいつのいた場所だ。
 もちろん、ここがユキアグモンの家だとは思っていない。ただの漠然としたイメージとして、誠司はそう思っていた。

 言ってしまえば、世界。
 自分のいた世界と、ユキアグモンのいた世界。

 あまりに非現実的だ。だが、先程の鬼や自分を攫った悪魔の姿を思えば、どこか納得できる。
 ──けれどこれが現実なら、自分達は一体どうやってここに来て──どうやって帰るというのか。

「……いや、それは、だめ、うん」

 どんな時も前向きに、がポリシーじゃないか。そう思い聞かせる。
 何か、ないだろうか。少しでも元気になれる何か。──そうだ、と携帯電話を取り出す。幸運なことに、落とすことなくポケットに入ったままだ。データフォルダには、大好きな爬虫類や、恐竜の画像がたくさん入っている。

 もちろん、ユキアグモンの写真も。

「……──あ、恐竜博……」

 夏休みになったら、蒼太と行こう。
 そう思っていた。そう、話していた。

 行けるだろうか。

「……」

 そういえば、蒼太は?
 ハッと顔を上げる。急に何とも言えない焦りがこみ上げてきて、思わず立ち上がった。
 薄暗い中で目を凝らし、改めて辺りを見回す。少なくともこの中にはいないようだ。座っている人を蹴らないよう移動し、鉄格子越しに向かいの牢を覗く。

「そーちゃん、そーちゃん。……なあ」

 声を、かけてみる。

「蒼太、いるか?」

 呼び声は周りの声よりも大きく響く。何人かがこちらを向いたが、それ以上の反応を示すような者はいなかった。
 そっか、いないんだ。そう思った。嬉しさも残念さもない、ただ純粋な感想だった。

 そのまま、蒼太に電話をかけようとする。しかし相変わらず圏外だったので、そのまま画面を閉じた。
 いつか電波が入った時に使えるよう、電池だけは残しておこう。そう思い電源を切る。いよいよこれで、何もできなくなってしまった。

 鉄格子にコツンと頭をぶつけ、もたれかかる。

「……そーちゃん……」
「……あの」
「……」
「あ、あの……」

 その声が、自分に向けられたものだと気付くのには時間がかかった。驚いて体ごと振り向かせると、少し前に介抱した少女と目が合った。

「……あ」
「さっき、ありがとう……」
「……さっき……あ、ううん。それより、大丈夫?」

 こくこくと頷く。

「わたしより、あの子……大丈夫かなって……」

 彼女は向かいの牢を心配そうに眺めていた。怪物に何かをされた少年の様子は、ここからでは見えない。

「……生きてるって、さっき、聞こえたよ」
「……うん。でも、痛そうだった……」
「怪我……大丈夫だといいけど……」
「……」
「そういえば、さっき君が倒れたのって……何があったの? 感電?」
「……た、多分、……。静電気みたいなのじゃなくて、ドンって感じで……わたしは、そんなに凄くなかったけど、でもびっくりして……」
「……」

 ──ああ、そうか。雷でも電気でも、とにかくそんなものが出せるなんて──やっぱり人間じゃないんだ。

「お友達……」
「え?」
「誰か、呼んでたから……その、探してたの……?」
「……うん。ここに来てないかなって思って。でも、いなかったよ」
「……」

 少女は立ち上がると、再び鉄格子の側へと寄った。触れようとして、戸惑い──少し離れた場所から通路を見る。

「────ゆ、柚子さん」

 その声は小さく、周りの声にかき消された。

「いますか……柚子さん……!」

 もう一度。今度は大きく声を張る。向かいの牢の子供が数人、こちらに目を向けたが──それ以上は何もなかった。

「君の友達も、いないみたい?」
「……うん」

 その横顔には安堵の色が見えた。何気なく眺めていると、誠司の目にあるものが留まった。

「……あれ?」
「え?」
「その、スカートについてる……」

 誠司は、少女のスカートに付けられた小さなバッジを指差した。

「これは、委員会の……わたし、図書委員で……」
「同じ学校だったんだ!」
「え……?」
「なあ、何年生?」
「……ご、五年生……四組の……──宮古です。宮古手鞠……」

 どうりで見覚えがある筈だ、と納得する。同級生を見つけて、誠司の中に嬉しさが込み上げた。

「オレは誠司! 海棠誠司! ……でも、四組と一組じゃお互い、知らないよね。男子と女子だし。あ、でも村崎って女子は前にクラス一緒だったよ」
「わ、わたしも……一組の男の子で、知ってる子もいるよ。今森くん、は……あの……よく、物とか隠されちゃったりしてて……」
「……あ、あいつが安永といじめてる子って、君だったんだ」
「う、うん。……あとね、一組の子なら、矢車くんも知ってるよ」
「! そーちゃん……!」
「前に花那ちゃんと、わたしの、探し物してくれて……」

 そう言って──手鞠は、つい最近の出来事を懐かしそうに思い出す。

 まだ“幸せの光”の噂が出る前のことだ。廃墟にランドセルを隠されて、放課後に、友達が探しに行ってくれた。

「……学校の人、他にもここに来てるのかな……」

 向かいの牢にぼんやり目をやりながら、呟く。

「蒼太は、いなかったよ」

 誠司の言葉に手鞠は振り向いた。そうなんだ、と言う。その顔にはやはり、安堵の色が伺えた。



◆  ◆  ◆



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