◆ ◆ ◆
────あの日。
放課後の図書館で何が起きたのか、宮古手鞠は覚えていない。
ただ、本の整理をしていた。柚子さんの手伝いをしていた。他に人はいなくて、柚子さんが職員室に行って、一人になった。
ひとりきりの図書館はとても静かて、でも不思議と怖くなくて──外からはまだ、校内にいる生徒の声が聞こえてきて。なんだか不思議な感じだった。
それから、校庭の方が突然騒がしくなったことは覚えている。きっと男の子たちが大きな声で遊んでいるのだろうと、あまり気に留めなかったことも覚えている。
──その後、自分の背後でとても大きな音がしたことも。
そこまでだ。それから後のことは、何も覚えていない。
唯一持っていた携帯電話には、圏外の文字と発信エラーの表示。母からの大量の不在着信。心配して何度もかけてくれたのだろう。
本当ならお母さんが学校まで迎えに来てくれる筈だった。帰って、お父さんと夕飯を食べに行く予定だったのに。
どうしてこんな場所で、こんなことをしているのだろう。
「宮古さん」
横から声がする。自分を助けてくれた男の子は、驚いたことに同級生であった。今、隣に座ってくれている。
「オレ、泣きそうだよ。だって全然味しないんだもん」
フーガモンから投げ入れられた食事を、誠司はようやく口にしていた。
味には最初から期待していなかったが、不味いどころではない。噛み終えたガムのようだと思った。
「宮古さん、食べないの?」
「……」
「食べないと体がもたなくなっちゃうよ」
「……うん」
「……えっと、パサパサしてるよ」
食欲のそそられないレポートをしつつ、誠司は半分食べたところで食べるのをやめた。
「……か、海棠くん……食べてて、いいのに……」
「これはね、ちょっとずつ食べ戦法なんだ」
「……ちょっとずつ?」
「その方が一気に食べるより、お腹空かないんだって。母ちゃんがダイエットにいいって言ってたんだ。痩せちゃ困るけどね」
「……そうだね。……今、それしか食べ物、ないもんね」
「次、いつもらえるかわかんないしさ」
そう言うと、手鞠の表情が暗くなった。「次なんてあるのかな」と言いたそうな顔をしている。
「……」
それは考えたくもない。──こんなものが最後の晩餐になってたまるかと、誠司は思った。
「……あれ、でも晩餐って、凄いご飯のこというんじゃなかったっけ」
「……? た、多分……」
「……もしオレたちのこと食べるつもりなら、もっと豪華なやつじゃないと、おいしくなんかならないよね」
「え……食べられちゃうの? わたしたち……」
「ご、ごめん、例えばの話……。えっと、オレが言いたいのは、きっと大丈夫さってことで……その、太らせるつもりとかじゃないんだよ。とりあえずオレたちに、生きてて欲しいんだろうなって……」
「……」
「閉じ込めるってことは、絶対に何かあるんだ。だからきっと、うん、ご飯、出てくる気がする。大丈夫なんだ。絶対……」
──その理由なんて、想像もつかないが。少なくとも、ドラマで聞くような「身代金目当て」ではないのだと思う。
「……どうだろう」
「どう、って?」
「いや、その、少しでも前向きに……って思って」
「……」
「……思って、みたんだけど。……ごめん。オレ空気、読めてないかな」
「そ、そんなことないよ。皆で暗くなっちゃうより、全然いいと思う……」
「よかった」
「……ご飯が来るってことは、またあの怖い人、来るのかな。……あ、ごめんね、わたし……せっかく元気にしてくれてるのに」
「ううん、全然いいよ。……オレだって、あれは怖い。なんであんな見た目してんだろう。もっと可愛かったらよかったのにね」
「……そ、それはそれで、怖いと思う……」
「……確かに」
「……あの。わたしね……最初、あれかと思ったの。秋田県とかにいる……」
「なまはげ?」
「うん。でも、変だなって。口がちゃんと動いてたから」
「……」
「映画みたいって思った。……変なこと言うと思うけど、その……人間じゃ、ないみたいだった」
「…………そう、だね」
「……どうしてそんなのがいるんだろうね。ねえ、ここ……どこなんだろう」
「……」
「……」
沈黙が続く。
だが、静けさに比例して恐怖心が膨れ上がりそうになり──二人は懸命に、会話を続けようとした。
「あ、あのさ。もしかしたら、なんだけど。……あの怖いやつ、話はできるっぽいし……オレたちが静かにしてれば、乱暴、してこない……のかな」
「……そういえば、うるさいって言ってたね」
「そ、そう。だから……」
本当は、そう思いたいだけだ。
「……そうだね。わたしたちがちゃんとしてれば、いじめてこないかもしれない……」
「それだけでも、マシだよな! うん……。……まあ、だからって何か、変わるわけじゃないけど……」
「……」
「……そういえば、さっき探してた人って六年生? さん付けで呼んでたから」
「う、うん。委員会の人で……、あの時も、一緒に図書館にいて」
「一緒に?」
「片付けてたの。金曜日だったから、返却の本の整理……」
「一緒だったのに、いないの?」
「……柚子さん、職員室に行ってて……。一緒には、来てないみたい」
「……そっか。図書室、先生とかいなかったの?」
「……いなかった。わたしと柚子さんだけ」
「もし先生がいたら、何か違ったのかな。職員室、あそこから近いのにね」
「……うん」
「でも、そっか。外じゃなくて、建物の中にいた子も……ここにいるんだなぁ」
だとすれば、きっとどこにいても攫われていたのかもしれない。そう思うと、怖い。
「海棠くんはどこにいたの?」
「オレ?」
「その、おうちとかじゃなかったみたいだから……」
「あ、うん、オレは──」
────思い出して、口を紡ぐ。
手鞠が、何かまずいことを聞いてしまったかというような不安げな表情を浮かべた。大丈夫だよ、と、弁解するように慌てて答える。
「オレは、外で……その、家から少し離れたとこだったと思う。……そう、だからさ、家とか家族は、大丈夫かもしれないよ」
「……そうだね。ここ、子供しかいないし……」
「母ちゃん父ちゃんも、宮古さんの家族だって……オレたちいなくなったの絶対、気付いてくれてると思う」
「……もし柚子さんが無事なら……そうだよね。気付いてくれてるよね。わたしの荷物、そのままだったもん。先に帰ったなんて思わないはず……」
「そうだよ! それに、これだけ皆がいなくなったんだ。警察だって絶対もう動いて────」
────見つけてもらえるのだろうか。
警察が気付いたところで、こんな所まで。
「……」
多分ここは、とても遠い気がする。
「……──」
「ありがとう、海棠くん」
「……え?」
「海棠くんだって怖いのに、励ましてくれて……海棠くんは凄いね」
「……」
「……海棠くん?」
「う、ううん。なんでもない。……あれ、パン食べるの?」
「……ちょっとずつのやつ、わたしもやる。食べないと、もたないもんね」
いただきます、と手鞠は言った。パンを大きく齧って、よく噛んだ。いつも家で言われるよりずっと多く、口の中でなくなるまで噛み続けた。
「……海棠くん、これ、ほんとに味ないね」
朝ごはんに食べたトーストを思い出す。バターとブルーベリージャムがたっぷりのトーストだった。
そういえば今日の夕飯は、どこへ連れて行ってもらえたんだろう。外食じゃなくてもいい、なんだか急に、母の料理がとても恋しく思えたのだ。
様々な思いが過って、涙が出てくる。……先に食べた誠司が泣きそうになっていた理由は、本当はこれなのかもしれない。そう、手鞠は思った。
◆ ◆ ◆
──地下牢に収容されてから、しばらくの時が経つ。
だが、どれだけ経ったのかは誰にも分からない。
気付けば携帯電話の電池も切れ、腕時計の秒針も動かなくなって────今が朝なのか、それとも夜なのかも把握できなくなる。
そうして何もできないまま、子供達は疲弊していく。
次第に、無闇に泣き喚く者はいなくなっていた。
子供達の体力の低下は著しい。摂取できるエネルギーと消費してしまうエネルギーが、当たり前だが釣り合わない。本来ならば食べ盛りの成長期だ。
体調を崩す児童が徐々に増えていく。栄養不良に加え、空腹と環境からくる心身へのストレスが主な原因だ。ほんの数日で、その影響は顕著に現れていた。
──前提として、地下牢の衛生環境は劣悪である。それでも便器が牢内に設置されていたことは幸いだった。排泄における精神負担は大きいが、これがなければ瞬く間に伝染病が蔓延しただろう。
当然ながら、フーガモンは子供達の体調不良に何一つ対処しようとしない。
だが、水を与えないと人間は生きられないという事は──脱水症状を起こした子供が現れたことで察したらしい。やはり死なれるのは困るのか、定期的に水が与えられるようになった。
五回目の食事が来る。
食事の間隔は不規則だ。フーガモン自身も時間を決めていたわけではない。
子供達は顔をやつれさせ、目の下を真っ黒に染めて──虚ろな眼差しで、フーガモンという食事係が来るのを待っていた。
もう、フーガモンの前で大声を出してしまうような子供はいなくなっていた。余計な私語など一切せず、黙って食事を待っていた。
そんな余計なことに費やす体力もなければ、わざわざ抵抗して身を危険に晒す必要性も無い。フーガモンはそれを、最初の脅迫が効いたのだと勘違いをしていたが──次第に違和感を覚え始める。
子供達の中にはフーガモンを恐れるどころか、むしろ、食事を持ってきてくれる有難い存在とさえ思う者も現れていた。実際、騒ぎ立てさえしなければ彼も暴力を振るわなかった。
静かにしてればいいなら、それは学校の怖い先生と同じ。……なら、いやむしろ、ひょっとしたら、怖くなどないのではないか。食事を持って来てくれるのだから──そんな錯覚さえし始める。
そして今日もフーガモンは、充満する子供達の臭いに不快さを滲ませ──しかし大人しくなった彼らを睨むことすらせず、淡々と食事と水瓶を置いていく。
途中、誰かに「ありがとう」と言われた気がした。
「やべえよ、とうとうイカれちまった」
地下牢から戻ると、フーガモンは大柄の牛男のようなデジモン──ミノタルモンにそう言った。
「なんもヤってねえのにキマっちまってる」
「そりゃ仕方あるめえ。あんな所ずっといたら誰だって疲れちまうだろうよ」
「でもたった五日だぜ? お仕置きで入れられてたブギーモンの奴らは、一週間いてもピンピンしてたじゃねえか」
「そりゃおめえ、ブギーモンって奴らは最初っから頭ネジ外れてんだから」
「……仮にもご主人様のおガキ様共だぞ。聞かれたらマズイって。なあ、そろそろ一回“仕分け”した方がいいんじゃねえのか?」
フーガモンが提案すると、ミノタルモンは面倒臭そうに顔をしかめた。
「どうしようっても、管理任されてるのはおめえだがんな。責任取るのもおめえだけどよ」
「だから困んだよ。くたばっちまったら元も子もねえ。そうなりゃ俺もやばいんだ」
「んならもっと飯でもなんでもやりゃあいいじゃねえが」
「本気で言ってんのかよ大飯食らいが。城封鎖しちまって、どっから食い物手に入れると思ってんだ? ねえんだよそんな所。水は当然、残飯さえ限られてる。ほんとはガキにやる分なんてねえんだ。図々しいったらありゃしねえよ。あー腹減った」
「オラだって食う量減らしてんだぞふざけんなよ。そんなに食いたきゃ、外に出て殺して食っちまえばいいんだ」
「それができねえからこうなってんだろうが! ご主人様のお許しがねえウイルス種は出入りできねえんだろ? つまりお子様ブギーモン達しか出られんねえってこった。ふざけてやがる……」
思わず舌打ちをする。──籠城するという事は、残された資源で生きて行くしかないという事でもあるのだ。
「まあ、今更言ったってどうしようもねえよ。全部終わったら生き残れるんだからよ。──ていうか人間共、そもそも全員生きてんのか?」
「一応生きてるよ。最初にちょっとおイタしちまった奴らは微妙だけど。あと何人かゲロってたなあ」
「ゲロまみれは嫌だなあ。きちんと掃除もしとけよ」
「っざけんなよ。やってられっかあんな臭え所で。掃除してる間に逃げられたらどうすんだよ」
「そんなの別に、逃げる前に足折っちまえばいいだろうがよ」
「あー、そっか」
「んでもーまずいなあ。クソはどうなんだ。垂れ流してんのか。あんま掃除しねえとよお、何か流行るんじゃねえのかぁ?」
「便所はつけてやってんだ。文句ねえ筈だ」
「まあ別に、人間の病気なんざ流行ってもオラ達には伝染らないしいいけどなあ。毒の油と同じだ」
「そういう問題じゃねえけどな。……なあ、やっぱいっぺん分けといた方がいいって。そのうちマジで全滅すっぞ。全員くたばるより、マシな方残して確実に生かしといた方がいいだろうが」
「それもそうだけんどなあ、でもよ、それに裂く人手が足りねえだろうが。分ける奴と整理する奴と見張る奴」
「ギリギリいけんだろ。四体もいりゃあ十分さ」
「四体もいだが?」
「誰が」
すると、ミノタルモンは背中をぼりぼりと掻きながら、「ブギーモンの奴らだよ」とため息を吐いた。
「帰ってきたブギーモン達、みーんなご主人様のとこ呼ばれて、外行っちまったじゃねえが。何かあっだ時に催眠できんのあいつらしかいねえだろ。オラ達じゃ殺っちまう」
「皆っつってもお前、まだ三十体ぐらいは残ってんぞ?」
「え、ああ、そんなに残ってだか。びっくりだ」
「城の中のこと知らなすぎじゃねえの。見張りしすぎてイカれたかよ。そんないなくなったら城の事やってけねえだろうが」
話に聞く工場都市の様に、建物が自動で稼働している訳ではないのだ。城の維持にも人手がいる。
フーガモンは自身らが置かれた現状を憂う。それ以上に、主人と外部へ出ていった同胞達に同情した。
「あーあ、こん中にいりゃあ、ウイルス種の俺らでも安全だってのに。一体どれだけ生きて帰ってくんだか」
「そもそも、あれだ、リアルワールドから帰ってきたのも、ここ出た時の全員いなかったなあ。デジタライズ失敗して遠く行っちまったんだろなあ。子供もろとも食われたんじゃねえが?」
「それがアタリだったらどうすんだって。お子様方にはしっかりして欲しいもんだぜ」
「んでも、ご主人様、それ知ったら悲しむだろうなあ。なんだかんだ言ってあの方、オラ達のこと大事にしてくれてるからなあ」
「大事にしてくれてんだったらよお、城を放ってお友達の所になんか、今の時期に行くかってんだ。──どうせ死んでるのに」
◆ ◆ ◆
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