◆ ◆ ◆
──いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
身体を揺さぶられる感覚と、自分を呼ぶ声で手鞠は目を覚ます。
ご飯が来たのだろうか。そう思ったが、手鞠は周りの様子に違和感を覚えた。
騒がしい。どうして騒がしいんだろう。今更、何を騒ぐんだろう。
鉄格子の向こう側で、あの怖い鬼がいつものようにご飯の袋を持って立っている。
「……?」
いつもの鬼の後ろに、知らない誰かがいた。
およそ人ではない形をした誰か。鬼と同じような、いや、それよりももっと深い──紅い肌。
見覚えがあった。どうして見覚えがあるのだろうと思った。
混乱した様子の中。自分の隣で、誠司だけが酷く青ざめている。
◆ ◆ ◆
赤鬼はまず、いつものように食べ物を牢の中に投げ入れた。
いつも通りでなかったのは、そのまま立ち去らずに牢の前で構え、「今すぐ食べろ」と言った事だ。
普段と違う状況は、読めない。わからない。
しかし栄養不足で回転しなくなった脳でも、どう動くべきか子供達は瞬時に理解する。異を唱える者などおらず、誰もが大人しく指示に従った。
その中でひとり、こっそりとパンをちぎって隠していたのは手鞠だった。誠司は慌てて制止するが、
「でも、約束したから……」
何のことか分からず、尋ねる前にフーガモンが声を上げた。子供達の様子を確認すると、今度は手を上げる。
すると、後ろに控えていた悪魔達が牢の扉の前に立った。鍵を手に──なんと扉を開けたのだ。
「俺より先に行ったら、足潰すからな」
そう言ったフーガモンの奥には階段が見えた。恐らく地下牢からの脱出路だ。──階段まで逃げられたとしても、その先は城の敷地内。逃げ出した者の未来は決まったようなものであるが。
赤鬼の両隣には、二体の悪魔が構えている。通路の奥と子供達の前に一体ずつ、前後から見張るように。
「一人ずつ出ろ」
大人しく従っていた子供達であるが、内心では酷く困惑していた。
何故、帰れる訳でもないのに外に出されるのか。
状況が良くなるか否かではなく、変化そのものが彼らの不安を大きく煽った。それ以上に、新たに現れた悪魔の怪物が怖くて──なかなか踏み出せない。
だが、児童らの心情などフーガモン達には関係がない。フーガモンが「早くしろ」と声を上げると、悪魔のうち一体が手を上げた。
「注目ゥ!」
野太さが裏返ったような、気味の悪い声だった。
「……はい、こっち見て、俺様を、見て! いいね? 俺様は、ご主人様によく似て優しいから、あんな大きな声出さないから、安心して、俺様を見て。見て! ……そう、見て? いい?
出る前に、だ。いい? 手、俺様の、この手をだな、しっかり握るんだ。手袋してる方だ! ぎゅうーっと、でも優しく! 握るんだ。握ってくれなきゃあ悲しくなって、俺様から掴んで『グシャ!』ってやっちゃうかもしれない! いいね? お向かいの、俺様にそっくりだけど怖そうな奴にも、ちゃあんとやるんだぞ。悲しくならなくても、コイツはやっちゃうかもしれないからね!」
掲げた手が拳を握る。子供達の顔が一斉に青ざめた。
「さあ! 来て! じゃあ君! 君だ。来てくれなきゃ、俺様から行っちゃうよ。……いい子だね。そのまま俺様の手を握って。……そう!
するとほら! この! 手袋に! 飾られた綺麗な石が! 綺麗に光りだすじゃあないか!」
ブギーモン達が纏う手袋に飾られたひとつの宝石。水晶に似た美しいそれは、子供がブギーモンの手を握ると、柔らかな光を発し始めた。
「君は、緑に光ったからアタリ! このまま真っ直ぐ奥に行って、右側の牢に入ってね! はい、次の子だ」
「何してんだお前らもやるんだよ! こっち来い!」
「あー、君は白く光っちゃったから、ハズレ! 左の牢に行ってね。ちゃあんと左に行かないと、捕まっちゃうから気をつけてね」
アタリとハズレ。何の事かわからない。そもそもアタリが良い事なのかもわからない。
「……」
ああ、あの化け物って一人じゃなかったんだ。
誠司は呆然とそう思っていた。見覚えのある赤い悪魔。自分を連れてきたのは、あの中の誰だろう。外見の判別ができなくて動物園のようだ。
……なら、ユキアグモンもたくさんいるのかな。いっぱいいたら可愛いけど……どれがアイツなのかわからなくなっちゃいそうだ。個別に名前はあるのか聞いておけばよかった。もしなかったら付けてあげようか。
一人ずつ、まるでアイドルの握手会のように、ブギーモン達の手を握っては捌けていく子供達。途中で誰かの悲鳴が聞こえたが、誰も目を向けられなかった。そうする余裕が心に無かった。今、この状況についていこうとするだけで精一杯だった。
やがて、誠司と手鞠の番が来る。目の前の化け物に怖気づき、全身から冷や汗が溢れた。怒られないうちにさっさと行ってくれ──と、後ろに並ぶ誰かが呟いた。
「……、……み、宮古さん。……どっちがいいのかわかんないけど、また、一緒のとこがいいね……」
そう言って、先に誠司が立ち上がった。悪魔の手を掴み、何かを言われて進んで行く。通路の先、どちらに曲がったのかは見えなかった。
──そして次に、手鞠が呼ばれた。
「掴め」
言われるがまま、悪魔の手を握る。──布越しの体温は生温い。嫌な感じだった。
石はまだ光らない。……ハズレだと、やはりあまり良くないのだろうか。誠司はどちらだったのだろう。
それより早く、手を離してくれないだろうか。怖くて怖くてたまらない。しかしブギーモンは顔をしかめながら、何度も手を握り返してくる。そして小さな舌打ちの後、ぶっきらぼうに「左」と言われた。
……おかしい。石はまだ光っていないのに。
「お前とさっきの奴、大ハズレだな。もしかして回路ねえんじゃねえの? これじゃ何にも使えねえよ。まあ、残念だったな」
そんな声を背中で聞いた。
◆ ◆ ◆
牢のある地下室は、その出入り口を分厚い鉄の扉で厳重に封鎖してはいるが、決して密室というわけではない。
通気の為のダクトもあれば、下水路もある。しかし収容された者がそこから脱獄するのは不可能だ。その逃げ道はあまりに小さく、人間の拳ほどの幅しかないからだ。
────しかし約一名。いや、一匹と言うべきか。「彼女」にだけは、それが通用しなかった。
「……ありゃあ何だ?」
この「チューモン」は、物心がついた時には既に城の中にいた。
デジタマ──デジモンが宿る卵から産まれたのか、それとも下水や廃棄物のデータの残骸から発生したのか、出生については本人も知らない。
ただ、城にいるからといって、フーガモンやブギーモンの仲間かと言えば否である。人間界における居住区内の野生のネズミがそうであるように、彼女もまた、不潔な害獣と幾度も駆除されかけてきた。
生まれた時から、下手に姿を見せれば殺される事は本能が教えてくれた。
通気路や下水管に身を隠し、誰もいなくなった隙を見て、死角を見つけ行動する。それがチューモンの生き方であり、今も変わらずそうしている。
そんな彼女は身を潜めながら、フーガモン達の行動の一部始終を見届けていた。
「……」
息を殺して気配を消して、様子を伺う。……さっきの人間から食べ物をもらう約束だったから来たのに、それどころではなさそうだ。
まず、子供達が皆起きている。これではいけない。自分の姿を大勢に見られてしまう。せめてあの時の子供だけに留めておかなければ、今度は自分の身が危ない。
待たねば。彼らが寝静まるまで、果たしてどれくらいかかるだろうか。
「……腹、減ったなあ……」
今はまだこうして動くことができるが、いつまで保つか。せめて欠片ひとつでいい。何か食べられれば、それだけでしぶとく生きていける。
自分もあの人間達に習ってしばらく寝てみようか。そう思いながら観察を続けていると、チューモンはある事に気が付いた。
子供達が二つの牢に分けられていく。
理由はわからないが、大人数と少人数に。大人数の方は広さのある牢へと移され、少人数の方は狭い牢に詰め込まれた。あの少女が送られたのは後者の方だ。
「…………あれって、間引き?」
それからしばらくし、子供達の移動が済んだ後。
大人数が収容された牢にだけ、食べ物が新たに運ばれていた。
◆ ◆ ◆
牢を移されても、現状は何ひとつ変わらない。
二つの牢は遠く離された。一方で何が起きているのか、もうお互い把握できない。
「おい」
いつの間にか眠っていた手鞠の耳に、そんなぶっきらぼうな声が入って来る。頬をぺちんと叩かれ、静電気が走るような感覚に目を覚ました。
「おい、起きな。おい」
「……! ネズミさん……」
「チューモンだって。声あんま出すなよ」
「ご、ごめん……。なかなか来ないから心配しちゃった」
「食いもん盗りに来た奴に言う台詞じゃないね。……それより周りの奴、ちゃんと寝てる?」
「えっと……うん。大丈夫みたい。あ、あのね、ちゃんと、とっておいたよ。ほら……」
手鞠はポケットから、潰れてしまったパンの残りを出して見せた。
「ご、ごめんね、寝てる時に、その……」
すると、チューモンが苦い表情を浮かべる。手鞠は、パンが潰れていることが嫌だったのだろうと思った。
「……なんか、お前って損な性格してるね」
はあ、大袈裟な溜め息を吐かれた。
「……どうだろう。よく、わかんない。……ほら、パン、食べないの?」
「……」
「チューモン、ずっと食べてないんでしょ?」
「…………その半分でいい。あとは、アンタが食いなよ」
「え?」
「アンタだって、次もらえるかわかんないんだし」
「……わたしは……もう、疲れちゃったから……」
「……」
やつれた顔。この牢の誰もがそうだ。チューモンは通路に目をやる。……もう片方の牢の子供達は回復していくのかもしれないが、こちらの子供達はこれから更に衰弱していくのだろう。
「ふうん。まあ、これも運命なんだろうね」
弱者は、選ばれなかったものは、生きることさえ許されない。それは檻の中でも、檻の外でも同じ事だ。
「まったく世知辛いね」
「……せちがらい?」
「うん、じゃあ、ありがたくもらうよ。いただきま──」
「宮古さん、誰と話してんの……?」
チューモンの心臓が跳ねた。
薄目を開けて目覚めた子供。しっかりと自分の姿を目に映している。
────まずい。チューモンは咄嗟に逃げようとした。
「……っ!」
だが、逃げられなかった。手鞠がチューモンを両手で包み込み、抱き上げたからだった。
パンの欠片を抱えたまま、チューモンは息を呑む。
「あ……あの、海棠くん。びっくりしないで、静かに……その、この子は……」
なるべく騒ぎ立てぬよう、声を潜めながら説明しようとする。
「この子、悪い子じゃなくて、お腹空いてるだけで……だから、わたしパン、とっておいて」
「……それって、さっき言ってた……」
「そ、そう。さっきの……約束してた……」
「……宮古さん、そいつ」
「えっと、あとね……」
「宮古さんと話してた?」
「……」
「……」
「……で、でも全然、平気なの。怪しくないんだよ、この子は」
「喋る、ネズミ……」
「この子ね、チューモンっていって、その、普通のネズミさんじゃなくて、喋るし歩くけど」
「…………」
「……もういいよ。離して」
チューモンが大きく息を吐いた。
「本当なら、お前に見つかった時点でアウトだったんだ。これ以上見つかって騒がれたら」
「で、でも、海棠くんはびっくりしてるだけで、きっとわたしと一緒だから……」
「ああ、まんまるのお目目じゃないか。固まっちまってさ。……だからもう、ここまでだ」
「チューモン……」
「……お前は変わってるけど良い奴だったさ。感謝するよ。これでまたしばらく生きていける。じゃあ────」
「ユキアグモンと一緒だ」
────その小さな呟きを、チューモンは、聞き逃す事ができなかった。
「宮古さん……オレ……大丈夫。だって……喋るネズミなんて、そんなの、今更びっくりしない……」
震える声。目の前の子供は、何かを思い出しているようにボロボロと泣いている。大切な水分がいとも簡単に流れていく。
「だってそうだよ。オレにだって、友達……いたんだ。恐竜で、喋って、ちっちゃくて、オレの……」
「海棠くん、何のこと……?」
「おい」
動揺を隠せないまま、チューモンは誠司を睨みつけている。
「その種族は、この城のデジモンじゃないだろ。何で知ってるんだ」
ただ此処に連れられただけの人間が、知っているわけがない。
◆ ◆ ◆
見ると幸せになれる緑の光。
それを見た日から、オーロラを見たあの日のことまでを、誠司は告白した。
相変わらず手鞠の手の中に収まったチューモンはパンを抱えたまま、険しい顔でその話を聞いていた。
ようやく一人で抱えていた秘密から解放された誠司の気持ちを汲み取ることは出来なかったが、チューモンにとっては実に興味深い話であった。
「つまり、ブギーモンに攫われた時のことは、お前くらいしか覚えてないって?」
「……うん。……多分」
「それって、さっき二人いた赤い人たち? そんな名前だったんだ……」
「……皆、モンってつくんだな。名前、ユキアグモンにしても、あいつらにしても」
「ああ。デジモンは……どうしてかな、皆そうなってんだ。人間は? 皆ニンゲンなの?」
「あ、あるよ。名前……えっと、そう、わたしは手鞠で、こっちは海棠くんで、そうやって名前……」
「カイドウクン?」
「……くん、は名前じゃないよ。誠司でいいよ。……なあ。“デジモン”ってさ、結局何なの?」
誠司は、その言葉にも聞き覚えがあった。誰が言っていたのか、思い出せない。
「お前らでいう“人間”みたいなものさ。そういう生き物。それだけ。
……ウチもさ、この場所でしか生きてないから、本当はデジモンのことだってそんなに詳しくないんだ。学もないし。だから最初にお前達人間が来た時びっくりした」
「オレたちが『人間』だってことはわかったの?」
「ここの奴らが言ってたから、そういう生き物なんだなって」
「……その奴らって、オレたちの所に来た方法とかも言ってた?」
「いいや。……聞いてなかっただけかもしれないけど。悪いけど正直、人間の事より自分の方が深刻だったからね。気にしなかった」
「そっか。……でも、行き来できるってことは、やっぱり帰れないことはないんだよな」
「まあ、そうなるかもね」
チューモンはようやくパンを食べ出す。
「……えっと、なんだっけ。誠司。お前がブギーモンに捕まる前に見たやつ」
「オーロラだよ。……ユキアグモンも似たやつから出てきたんだ。あれが、出入り口みたいなやつなのかも……」
「……わたしたちの家と、ここって、やっぱりすごく遠いのかな。……助けてもらうの、やっぱり無理なのかな」
手鞠は涙ぐんでいた。チューモンは少しバツが悪そうに、「何とも言えないよ」と言った。
「調べりゃ目的ぐらいは分かるだろうけどさ、知ったところでね。牢から出してやれても城からは出られないだろうし……」
なんとか思考を巡らせてみる。──そのユキアグモンとやらが人間の世界にいたなら、出入り口は別にブギーモンが占領しているわけではないのだろう。
それなら、奇跡的にこの地下牢に出入り口が繋がれば、こいつら皆帰れるか? なんて思ってみる。しかし下手に希望を持たせるのも良くない。希望は希望でしかないのだ。
「あとチューモン、……オレ、すごく心配なことがあるんだけど……」
「何さいきなり」
「デジモンって皆、人間の食べ物、食べられるのかな」
「は? どういう意味さ」
「そっか……ユキアグモンは、海棠くんと一緒じゃなかったんだよね」
「……リュック、落としたのは覚えてるんだ。絶対にオレたちのいた場所に、残してきたのは確かなんだけど……保健所に捕まってないかが怖くて……。ちゃんとご飯も食べられてるかなって……」
「……そのホケンジョがどんな奴か知らないけど。まあ、元々野生の奴なら上手く隠れて生きてるんじゃないの?」
「そ、そうかな……そうだよね、きっと、大丈夫だよね……」
誠司は力が抜けたように壁にもたれかかる。
「…………もし、ユキアグモンが来てくれたら……助けに来たりとか……」
「……」
チューモンは顔をしかめた。それは流石に希望を持ちすぎだ、と言おうとした。外部のデジモンが、こんな所にまでやって来れるわけがない。
だが、口には出さなかった。この現状でもまだ希望を持とうとする姿があまりに惨めで、不憫でならなかった。しかし気休めの言葉も浮かばず、チューモンは無言で溜め息を吐いた。
◆ ◆ ◆
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