◆  ◆  ◆



「────ベルゼブモン」


 あの日から、どれだけの時間が経っただろうか。
 今の時間さえわからない。朝なのか、夜なのか。

 わからない。わからない事ばかりだ。側にいる男の事だって、名前しか知らない。

「ベルゼブモン、具合は」

 名前を呼ばれた男。黒い大男の様な何か。
 彼は何も答えなかった。どれだけ少女が呼びかけても、返事をする事は無かった。

 そんな静寂の中を、二人はただ歩き続けている。
 昼も夜も関係ない。目的地も無い。ひたすら、あてもなく進んでいくのだ。

 しかし出血が原因か否か、男の体力は長く続かず、すぐ尽きては膝が崩れて動かなくなる。進んで行く時間と距離は比例していなかった。

 力尽きてから再び動き出すまでの時間は、男にとって唯一の休息であったようだ。
 ──休息といっても、岩陰や洞窟で休めるわけではない。ただ荒廃した地面に倒れるだけなのだが。

 その束の間に肉体を休ませるものの、男が本当の意味で安らぐ事は無かった。
 まるで悪夢でも見ているのか──彼は唸って、苦しんで、やがて夢から覚めるように、呼吸を荒げて飛び起きる。
 ──目が覚めた後の彼は、決まって泥のような黒い血を吐いた。それから酷く歪んだ顔で、少女ではない誰かに向かって何かを呟く。

 そうして、彼は再び歩き始めるのだ。

 一方の少女──名をカノンという──であるが、彼女もまた、まともに休息を取っていない。睡眠など以ての外。ベルゼブモンが意識を失っている間、少女はずっと男の様子を伺っていた。
 そうする理由はふたつ。ひとつは彼が心配だったから。もうひとつは、恐怖からだ。

 眠れなかったのだ。僅でも目を閉じた隙に置いて行かれるのではないかと、少女は気が気でならなかった。こんな所で一人になってしまったら、残されてしまったらどうしよう。そんな恐怖が常に彼女を襲っている。

 ──二人が「休息」する様は、端から見れば恋人同士の様に見えたかもしれない。……だが、彼女がベルゼブモンに身を寄せているのは、彼が動いた事に気付く為。取り残されない為の防衛本能である。

 そして。
 ベルゼブモンが気を失っている間。少女は何かの音を聞けば、何かが近付く気配がすれば、男の体を揺らしてこう言うのだ。

「“デジモン”が来たわ」

 するとベルゼブモンは──他のどんな言葉にも反応しないと言うのに──瞬時に目を開け体を起こす。
 即座に脚のホルダーに手をかけ、構え、銃弾を放つ。敵を砕き、砕かれた敵の痕跡を吸収し……そしてまた、気を失う。

 彼の行動は主に四つだ。歩く事。気を失う事。狩りをする事。そして、食べる事。
 彼の発言は主に二つだ。「腹が減った」と。「喰わなければ」と。

 ああ──この人は、いつだって酷く飢えている。

 だから「食事」の前の行為は、狩りと呼ぶべきなのだろう。カノンはそう認識していた。……そう思うようにしていた。
 狩りの最中でも、彼の様子は普段通り。無口で無表情、逞しい体つきに反した儚さ。
 しかし獲物を見つけた時と、捕食する瞬間だけは──普段よりも、どこか生き生きとしているように見えた。

 この捕食(ロード)という行為の後に限り──倒れてから覚醒するまでの時間が短くなる事に、カノンは気付いていた。

 彼の狩りは刹那的で、捕食はそれ以上に一瞬だ。
 いずれも、飢えを満たす為の手段でしかない。わざわざ余計な時間をかける理由が無い。映画の殺人鬼のように、行為自体を楽しむ事は絶対に無かった。
 そんな男の姿は、まるで野生動物そのもの。食物連鎖のヒエラルキーにおいて上位に立つであろう存在。──自分の様な弱い生き物が見守る必要など、本来は無いのだろう。

 それでも、と少女は思う。男は今、まともに歩けもしないのだ。この様子では、視力だって良くないだろう。
 だから今は、せめて自分が手助けしないと────

「──……違う」

 そんなものはエゴだ。勘違いも甚だしい。  何故ならこの世界で──カノン(少女)は、ベルゼブモン()がいなければ生存できないのだから。にもかかわらず一瞬とは言え、自分が男の助けになっているかのような錯覚をしてしまった。……自分の思考が醜くて、恥ずかしくて堪らない。

「……」

 そして──そんな時に限って、男は少女に視線を向ける。血の様な、濁った赤い瞳で。

「……何でもないわ」
「……」

 俯く少女を数秒だけ眺めた後、ベルゼブモンは何も言わず視線を戻した。
 虚ろな横顔。いつもと同じ光景だ。今更、気にすることもない。
 それから少しだけ歩いた所で、ベルゼブモンの足が急に止まった。──倒れる様子は無い。

 どうしたの、とカノンは見上げる。男の視線は、真っ直ぐ前を向いていた。

「は……、が……減った、……」

 そうしてホルダーに手をかける。
 ──この光景も、既に珍しいものではなくなっていた。デジモンが来ない時は空に向けて銃を放ち、音で獲物を誘き寄せ狩る。それが彼のスタイルらしい。
 しかし誘き寄せられるのは、一度に一体かせいぜい二体。廃墟の街を出た頃よりも、随分と数が減っているように思えた。男が辺境のデジモンを食べ尽くしてしまったのだろうか。

「──誰も来ないわ」
「……」
「ねえ、もっと探すの?」
「……」
「……せめて、しっかり休んでから……」
「……」
「……。……あなたは……何度も倒れて、何度だって起きるけど……本当に動けなくなったら、どうするの」
「……」
「……ベルゼブモン」
「……」

 自分の声だけが反響し、消えていく。端から見れば、これほど虚しい事はないだろう。
 かし幸い──こんな状況さえ、少女には特別珍しいものではなかった。この場所へと来るずっと前から、彼女の日常は似たようなものだったから。

 少女は家でいつもひとり。広く清潔な部屋に、スピーカー越しの音楽が響く日々。
 母の死後、父親は自分の小学校卒業を機に帰らなくなった。遠くへ出張らしい。本当はきっと違うのだろう。定期的な連絡も肉声ではなく、銀行口座への振込通知だけ。
 カノンはそれを、別に寂しいとも悲しいとも思っていなかった。元から殆ど家庭に居なかった人だ。

 ──だから、静寂には慣れている。傷つく事はない。気が滅入る必要だって無い。今は、ひとりじゃないだけ救いだろうに。

「……そうね。たくさん食べないと、死んじゃうものね」

 そうしてカノンも口を閉ざす。平然と、しかし疲労を隠せない顔で、再びベルゼブモンに手を貸すのであった。

 硝煙混じりの空気で、深呼吸。この見知らぬ土地にやって来た当初──化け物による凄惨な体験をした時に比べると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。
 しかし、いつまでこんな日々が続くのだろう。……そう考えてしまう瞬間が増えていた。それはこのベルゼブモンという謎の男に、嫌気が差しているわけでは決してなく──むしろ彼は命の恩人であるので、そんなことは毛頭、考えてはいないのだが──ただ『ひたすら荒野を彷徨う』という現状に対しては、何とかならないものかと思ってしまう。

 わがままなど言える立場ではない。わかっている。わかっているのだが。

「……」

 ……同じようなことが続く日々。繰り返す変わらない毎日。それはずっと、自分が求めていたものの筈なのに。
 あまりに非現実的すぎるからだろうか。それとも、自分が今“最低限度の生活”を得られていないからだろうか。
 学校で憲法を習う時に最初に教えられることだ。……ああでも、最低って、なんだろう。
 それはきっと、雨風を凌ぐ家があって、食べるものがあって、寝る場所があって、お風呂があることなのかもしれない。
 途端に自己嫌悪で吐きそうになった。自分は普段、どれだけの贅沢をしていたことか。当たり前の日常が続けばいいだなんて、それだけでいいなんて思って。

 ──なんて贅沢。なんて図々しい。そこまで考えて──今度はふと、自身に対する不可解さに気が付いた。

「……」

 ……そういえば。自分は、ここに来てからまだ何も口にしていない。

 目覚めてから一度もだ。食事どころか水さえ飲んでいない。なのにどうして、こんなにも平然としていられるのだろう。
 体力を保っている点に関してだけなら想像がつく。眠っていないとはいえ、休息は何度も取れている。
 では、空腹感さえ感じないのは何故? 空腹になりすぎて感覚が麻痺したのか。それとも自分は、どうかしてしまったのだろうか。……隣の男に、自身の丈夫さと図太さを分けてあげられたらいいのに。

 そう思いながらベルゼブモンの横顔を見上げる。
 すると、なんと目が合った。──というのは勘違いであり、実際には男はずっと遠くへ視線を向けていた。

「……どうしたの?」

 目を凝らすというより、耳を澄ましているように見える。何か聞こえたのだろうか。
 行ってみる? と尋ねる前に、ベルゼブモンは身体の向きを、音を聞いた方向へ変えていた。

 進行方向はひどく不安定だ。もう、自分達がどの方向へと進んでいるかわからない。──せめて、あの街の音でなければいいのだが。



◆  ◆  ◆



 目的の場所までは、想像以上の距離と時間を要してしまった。

 空を彩る灰色が、今までより明るく見える。明暗のグラデーションは夜明け前を想像させた。
 歩いている間に夜を越えたのか。この灰色の空にも、朝と夜の概念はあるらしい。

 二人が辿り着いたのは駅だった。
 都心であれば頻繁に目にするような、地下鉄へと降りる駅の階段。
 音の正体は、ここから漏れる風の音だったのかもしれない。もしくは電車の音だったのかもしれない。

「あなた、耳が良いのね」

 対するベルゼブモンは、目の前の建造物が何かわかっていないようだ。無理もない、とカノンは思う。
 ベルゼブモンは大きな身体をふらつかせ、階段を降りようとする。

「待って。落ちたら大変だから……」

 男の重い腕を何とか持ち上げ、半ば強引に手摺に掴まらせる。カノンも片手を手摺に添え、もう一方の手で男の裾を掴んだ。彼が落ちないよう後ろに強く引いて──なんだか大型犬の散歩でもしている気分だ。

 しかし結局。二人はコンクリートの階段を落下する事になるのだが。
 ベルゼブモンが案の定、足を滑らせたのだ。あの地下トンネルと違い、男の身体は重力のまま落下した。掴まっていたカノンも引っ張られたが、幸い床ではなく男の上に倒れこむ形となる。

 カノンは慌てて起き上がり、顔面蒼白で男を揺さぶった。男は無事の様だが、うつ伏せのまま動かない。
 どうしたらいいか分からなくなって、咄嗟に「何か食べれば治るのでは」と安直な考えを浮かべる。デジモンがいるかは分からないが、駅ならスナック菓子の自販機があるかもしれない。

「……。……少し、待ってて」

 男はまだ動けないだろう。そう判断したカノンは男から離れ、一人で構内を進んだ。

 ──見慣れた様式のコンコース。白い壁とタイルの床。少しだけ黄色がかった蛍光灯。
 券売機らしき機械と、オレンジ色の文字が流れる電光掲示板。きちんと電気が通っている事に安心する。
 周囲には誰ひとり──乗客どころか駅員すら見当たらないのが、気になるけれど。

「……“地下鉄をご利用の方は、ホーム内の乗車ボタンを押してお待ちください”……」

 何故だか日本語で表記された、流れていく文字を読み上げた。

「……“改札口はあちら”」

 矢印のついた案内標識。ここま自動販売機は見つからなかった。……ホームまで行けばあるだろうか。
 これ以上離れるのは心配だったので、一度ベルゼブモンのもとへ戻る。倒れていた筈の男は、自力で床に座り込んでいた。

「……大丈夫?」

 男は答えない。変わらぬ表情のまま、具合が悪化している様子も無い。──良かった。これなら問題なさそうだ。

「……向こうを見てきたの。電車がまだ、走ってるかもしれなくて」
「……」
「もし別の街に出られたら、レストランがあるかもしれないわ。そうすればご飯をたくさん食べられるし、病院だって……」
「……──」

 すると、──ベルゼブモンの視線が、自分に向けられた。今度こそ、勘違いではなく。

「…………それ、は……」

 聞き慣れない単語に興味を示したのか。久しぶりにベルゼブモンが返事をしてくれた。喉が焼けたような声は、少しだけ良くなっているように思えた。
 それはさて置き──彼はきっと「病院」ではなく、「レストラン」の方に反応したのだろう。

「…………」

 男は再び沈黙する。静寂が暫く続いた後、掠れそうな声で「そうか」と呟いた。

「──たくさ、ん……いる、所…………──行けば、いいのか」

 彼の言う「たくさんいる所」とは、何がいる場所を指しているのか。──想像は実に容易だった。だが、それを指摘する事はしなかった。
 頭に過るのは、舞い散る光の粒。硝煙の香り。誰かの悲鳴。喉元にせり上がる何かを飲み込んで、カノンは「そうね」とだけ答えた。座り込む男に、手を差し伸べる。

「……歩いて探し回るより、電車で行った方が早いわ」
「……。……──」

 ベルゼブモンはじっとカノンを見つめると──出会った時と同じように、乱暴にその手を引っ張った。
 そしてまた、あの時と同じように。小さな身体は、床へ転びそうになってしまった。



◆  ◆  ◆



 誰もいないプラットホーム。
 カノンは乗車ボタンを見つけると、それを押した。天井のスピーカーがブツンと音を立て──

『──電車がまいります。下がってお待ちください』

 そんな、イントネーションの酷い機械音声が流れる。
 それから数十秒。少女は、男が線路に倒れないか心配しながら電車を待った。──遠くから振動音が聞こえてくる。古めかしい造りの車体が、スピードを落としながらホームへ入る。

 列車が止まった。扉が開く。ベルゼブモンを引っ張って、中に入る。
 やたらと明るい車内。他に乗客はいなかった。自分達だけしかいない空間だった。

 左右に並ぶロングシートは、人間のものとは思えない程大きい。カノンは「座って」と男の背を押し、何とか角の席へ座らせた。
 ──隣に自分も座る。大きなクッションに収まる様は、まるで新幹線のクロスシートに乗せられた幼子だ。久しぶりの柔らかな感触に、思わず泣きそうになってしまった。

 二人が席に着き、しばらくすると車体が発進する。

「……」

 ごとん、ごとん。車体が揺れる。

 流れていく景色は黒い。地下鉄なのだから当然だ。
 向かいの窓には自分達の姿が反射していて、カノンはまじまじとそれを見つめた。
 改めて見ると凄い体格差だ。大きな男と小さな自分。身長差は八十センチ以上、あるだろうか。

 それにしても──自分の顔や服が、思ったより汚れている事に驚いた。埃に土に煤。血液。思い当たる節は沢山ある。
 ……洗濯をしてお風呂に入りたい、そう、切に思った。

『本日は、メトロポリス鉄道をご利用頂きありがとうございます』

 突然響いた音声に、カノンはびくりと身体を震わせる。車内アナウンスは、ホームで聞いたものと同じ機械の音色で案内を続けた。

『本線はダークエリア境界の東西を自動運行致します。北部、南部エリアには停車致しませんのでご注意ください……』

 不思議な名前の地名だと思った。自分達はどこから乗ったのだろう。駅の名前を確認していなかった。
 ……大丈夫。折り返しになる前に降りれば問題ない。取り敢えず、整備された内観の駅で降りてみよう。そうすればきっと──

「……。……ベルゼブモン?」

 ふと隣を見ると、ベルゼブモンは俯き瞼を閉じていた。──やはり疲れていたのだろう。座席が柔らかいからか、今までより寝つきが良さそうだ。
 男の寝顔を眺めるうちに、自分にも睡魔がやって来る。思えば、落ちついて休めるのはこれが初めてだ。
 あんなにも怖くて眠れなかったのに、今は不思議とその恐怖がない。此処なら男はいなくならないだろうという安堵感か。閉鎖的な人工物の中にいるからか。あの街と違って、きちんと電気が通っているからだろうか──。明るい場所にお化けは出ないという、小さな子供の先入観に似ているのかもしれない。

 少しだけ考えてみて、それから、そんなことはどうでもいいかと思った。
 今はただ、休みたかった。

 カノンは半ば倒れるように、ベルゼブモンの腕に寄りかかる。
 あたたかさを感じながら目を閉じる。少女は、ようやく深い眠りにつくことができた。




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