◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
繰り返し見る夢。
浮遊する意識と沈む肉体。
そこは寒い水の中。そこは黒い泥の中。
コールタールに似た液体に身体の自由は奪われて、ただ、重力に身を任せる。
藻掻いても、仰いでも、その先に光は見えない。どちらが水面なのか、水底なのかも分からない。果たして自分は浮いているのだろうか。沈んでいるのだろうか。
────これが、夢であることは分かっていた。
けれど身を襲う恐怖は、痛みは、寒さはどれも本物で、気が狂いそうになる。
「 」
声は届かない。
沈んで、沈んで、身体の中にも液体が満ちて。溶けて混ざって、「彼」という存在は消えていく。
そこでようやく栓が抜かれて、液体がゆっくり漏れ出して、「彼」も一緒に流されていく。
そのまま何処へ向かうのか、行く先は分からない。何故なら夢は、必ずそこで終わるからだ。
自身の消失を見届けると同時に、目を覚ます。それからすぐ空腹に襲われ、本能に駆られ、衝動のままに活動を始める。
安寧の時間は与えられない。狩って、喰らって、意識を失う。赦された行為はそれだけだった。
繰り返し、くりかえし。
同じ夢を見て、夢に起こされ、彼はまた、夢を見る。
ああ、今日もまた栓が抜かれた。
ほんの一瞬。彼の意識は、黒の世界から解放されていく。
*The End of Prayers*
第十七話
「モノクロームの世界で」
◆ ◆ ◆
──開かれた瞼の隙間に、蛍光灯の白い光が突き刺さる。
網膜が焼かれるような錯覚。ベルゼブモンは嘔気と頭痛を覚え、思わず片手で口を押さえた。
身体が痛い。動かす度に軋む。──頭痛も止まない。呼吸を必死に整える。俯いて、何度か咳込んだ。
「……?」
違和感を覚える。
いつもなら目覚めと共に吐き出す液体が、喉の奥から出てこなかったのだ。
「……」
違和感を覚える。
そんな感覚さえ、そもそも初めてだった。
そんなものに回せる程、彼の思考に自由は無かった。
なのに──何故だか今は、意識がやたらと鮮明で。
だからこそ戸惑った。違和感も戸惑いも、何もかもが初めて抱く感情だ。
ベルゼブモンは顔を上げる。見覚えのない場所が視界に広がっていく。
此処は何処なのか。自分は今まで、何処で何をしていたのか。
そもそも自分は何だったのか。──思い出せない。認識ができない。
「…………ぅ、……ぁ」
頭痛で頭が割れそうになり、両手で顔を覆った。
荒く浅い呼吸の中、指の隙間から臨む風景。自分のいる空間は白く、とても眩しい。
白い壁には、黒く塗り潰された四角の穴が並んでいた。
目を凝らしてみると、穴の先には誰かがいるようだった。
知らない誰かだった。
「────誰、だ」
焼けた喉を動かして、掠れた声を絞り出す。
「お前、は……誰だ」
すると。穴の中の誰かも、同じように口を動かす。
男がそれに驚くと、穴の中の誰かも目を見開いた。
なんて気持ちが悪いのだろう。思った途端、全身に冷や汗が噴き出して、鼓動が一気に速くなる。
──どうして、
「……──違う……」
こんな姿は知らない。こんな誰かは知らない。
自身のこれまでの姿など、微塵も記憶に無い筈なのに──それでも「違う」と分かるのだ。分かるから、理解できてしまった。
それは、変わり果てた己の姿。
理解した途端──拒絶の感情が、為す術のない虚無感が、底知れぬ恐怖が混ざり合って押し寄せる。
逃げるように視線を逸らせば、どこまでも伸びる白い床。
足元に、自身が吐いたらしい黒い何かが飛び散っていた。
視界のどこにも逃げ場は無かった。
「……」
気が狂いそうなモノクロの世界。
どうして、こんな場所にいるのだろう。
目線を戻す。たくさんの黒い穴が出迎える。知らない誰かがこちらを睨んでいる。
吐き気がする。嫌悪が湧く。止まらない。止まらない。止まらない。
しかし──そんな見知らぬ男の隣に、ひとり。
ベルゼブモンは、小さな「誰か」がいる事に気が付いた。
見覚えがあった。何故かは、分からないけれど。
これもモノクロだ。白い肌と黒い髪。自分よりもずっと小さな何か。
その姿がどこかぼやけて見えるのは、少女の白さが周囲に溶け込んでいるからか、
それとも彼の視力が低下しているからか──どちらに依るのかは定かでない。
男の意識に再び疑問が湧く。この存在は、いつから此処にいたのだろうか?
焼けるような痛みを伴い思考した。けれど、覚えていない。思い出せない。
それでも、何故か──この何かは、気付いた時には自分の側に在ったような気がする。
「……」
小さな呼吸。穏やかな寝顔。それは儚く、触れれば途端に消えてしまいそうな程。
男はそれに、理由も無く触れてみたくなった。恐る恐る手を伸ばして、白い頬に──変わり果てた黒い掌を、そっと当てた。
やわらかな温もりがに広がる。
「────」
その時、少女が目を覚ました。長い睫毛の隙間から一粒の雫が零れた。
男は咄嗟に手を離す。少女はそのまま、呆然と前を眺めていた。男はその横顔を、特に意味もなく見つめていた。やがて少女が振り向き──男と目が合う。
ベルゼブモンは困惑した。何を言えばいいのか分からなかった。
……そもそも、これの名前は何と言っただろう。
呼び方があった筈だ。どこかで聞いたのだ。これを、何と呼ぶのか。
傍らの、あたたかい何かの、名前。
「────か……」
泥にまみれた記憶を辿る。頭の中で激痛が走る。
崖に咲く花に、必死に手を伸ばすように──
「……ノ、……ん」
言葉を紡ぐ。
「────どうしたの、ベルゼブモン」
透き通る声が、返ってきた。
◆ ◆ ◆
夢を見ていた。
おかあさんの夢を、見ていた。
イチョウ並木のトンネル。晴れた日の午後。
木漏れ日の道。品のある一軒家が群れを成す。
辺りに響くたくさんの声。親の手を引く子供達。
その中に自分がいた。幼い頃の私。まだ母と二人で歩いていた頃の。
自分よりも大きな手を引きながら、幼い私は楽しそうに帰路につく。
────ああ、そんなことも、あったな。
なんて思いながら、『今』の私が窓から二人を眺めている。
広い部屋の中。窓際にもたれかかって、ひとり。
乳白色のカーテンが日差しを反射する。
眩しさに目を細めながら、ぼんやり外を眺め──窓硝子に額を当て、瞼を閉じた。
窓の外が静かになる。
私は部屋を後にする。母がくれた音楽プレイヤーを手に、思い出の公園へ向かうのだ。
落ち葉が散らばるベンチに座って、母が好きだった音楽を聴いて。
そうして、注がれていた愛情を思い出そうとする。
いつのまにか木々は落葉しきっていて、辺りに誰もいなくなって。
流れてくる音楽だけが、私の世界に満ちていた。
──そんな自分を、客観的に見ているだけの夢。
母親に執着する自分の姿を見る夢だ。夢でも現実でも、別に変わりはしないのに。
そして。
気が付けば、私の側にはお母さんが立っていた。
公園も落ち葉も、ベンチに座る自分さえ消えていて。
昔のように、一生懸命に彼女を見上げる私がいた。
「おかあさん」
と、呼ぶ。
すると彼女は、私がよく知った笑顔で、私の頬を撫でるのだ。
あたたかな手。自分のそれよりもずっと、大きな掌。
ああ、安心する。これは夢の中なのに──。
懐かしくて愛おしい温もり。戻らない日々の追憶。
少女の夢は、そこで終わった。
「────」
目を覚ます。
意識が切り替わるのと同時に、心臓の動きが一瞬、早くなる。
カノンは顔を上げた。白い空間の中、窓の向こうで黒い景色が流れていく。
振動の少ない車体は、それでもガタガタと走行音を立てていた。
──その様に現実を思い出す。思い知って、悲しくなって、可笑しくなる。
やけに頭の中がすっきりしているのは、短くともきちんと眠れたからだろうか。
自分はあの黒い街で、男に救われた。
それから街を出て──ふたり、幾つの夜と朝を迎えただろう。
何日も、何日も。正確ではないが、最低でも七つの夜を越え今に至る。
野ざらしの荒野と比較すれば、少しだけ安全だろう電車の中。未だ生き永らえている男と共に。
黒い窓に反射する、自分の隣にはベルゼブモンがいた。
先に目を覚ましていたのか、窓の中の彼はこちらを見ているようだった。
振り向くと、珍しく視線が合う。少女はそれに驚いて、彼の名前を呼ぼうとして、
「────か……ノ、ん……」
それより先に、男の声が自分の名前を呼ぶ。
「…………」
まさか、呼ばれると思わなかった。呼んでくれると思わなかった。
カノンは、熱くなった喉を震わせる。
「どうしたの、ベルゼブモン」
名前を呼んだ。男はそれに反応した。──男の表情が曇った事には、気付かなかった。
「……それ、は……」
返事が続く。待ち望んでいた会話らしい会話。少女の心はまた、高揚した。
だが、現実はそんなに甘くない。そこから男の返答は無くなり、すぐに静寂が訪れる。
「…………それは……。……」
「……え?」
「……──俺……の、……名前……」
窓に映る知らない誰かが、自分と同じ口の動きをする。
──白い床に目線を落とす。吐き出した黒い水溜りに、僅かに映る自身の姿。
「…………違う。……俺は」
揺れる瞳が少女を捉える。彼の頬を冷や汗が伝う。
「あれじゃ、なかった」
ベルゼブモンは背中を丸めて、両手で顔を覆った。窓を、見てしまわないように。
「……でも、自分が『ベルゼブモン』だって……」
「…………俺は……俺は……そうだ。……ぁ……──違う、違う、違う……。──俺じゃない……」
カノンは困惑した。自分で名乗ったのに、それを否定する──記憶障害を起こしているのだろうか? あれだけの大怪我をしたなら無理はない。
「……ベルゼブモン……」
目覚めたら知らない誰かになっていたなんて、きっととても怖いだろう。
だが、励ましなんていう無責任な言葉を、投げつける事には抵抗があった。
男が抱く恐怖を理解するのは難しい。
──それでも、少女は男に伝えたい事があった。
「私、あなたに助けてもらったの」
「……」
「今のあなたが、助けてくれたの」
「……」
「ありがとう。あなたがいたから、私、生きていられるのよ」
「……。……──わ、……から、ない……。……俺は、それを──」
その言葉に、カノンは少しだけ、悲しくなる。
「……だ、だが……──どんな、生き物……だった」
「……あなたが?」
「…………今……今、今だけ、分かれば……。……俺は……」
以前の自分の姿を。今のうちに、意識が明瞭なうちに聞いておけば──自我を失った後も、自己が確立できるかもしれない。あの悪夢に飲まれないかもしれない。
ベルゼブモンはそんな事を思っていた。それができる器量なんて、欠片も持っていないというのに。
「……前のあなたは知らない。今のあなたも……私、あなたのこと、あまり知らないの」
正直、本当に名前程度しか知らないのだ。少女は男の事を何も知らない。
「……。……人間じゃないんでしょう?」
「…………」
「あなたが言ってた、デジモンって生き物は……」
「……──」
指の隙間から覗く、ベルゼブモンの表情が変わった。
「────それは」
いつもなら──その単語を聞いた瞬間、男は衝動に駆られるまま動き出す。狩りをして、捕食する為に。
なのに今回は違った。反応どころか表情さえ、何もかも違ったのだ。
まるで──ひとり取り残された、迷子の様だった。
「俺が、……食う……もの、だ」
「……知ってるわ」
ベルゼブモンは、「だが」と言葉を繋げる。
「俺も……。……──デジモンだ……」
「……。……そうね」
男の様子は、やはり明らかに普段と違う。突然、話すようになった事も、こんなに怯えている事も。
眠っている間に何かがあったのか。それとも彼が元々持つ一面なのか。
「……俺は……いつ、……から、──いつから……腹が、減って……たんだ。……俺は、いつから……」
「……最初に、会った時からよ」
「俺は……俺は、俺は、何で、何を、喰って──」
繰り返す自問。ベルゼブモンは唸りながら、鋭い爪で後頭部を掻き毟る。毟られた髪が皮膚ごと落ちていく。カノンは思わず、彼の腕を押さえ込んだ。
「やめて」
色素の薄い金の髪が、黒い水溜まりに浮かぶ。カノンは無性に悲しくなって、ベルゼブモンの腕に額をつけた。
「…………もっ、と……食べ、な、……いと……」
「……お腹が空いたなら、食べればいいの」
「……お、俺は、もっと」
「誰だって……誰かを食べて、生きてるんだから。私たちは……」
「もっと、もっと──もっと、俺は、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと俺は、もっと食べ、もっと」
「……ベルゼブモン」
硬直した男の腕を両手で握る。突然の変貌に心がついて行けず、ぼろぼろと涙がこぼれた。涙は男の腕を濡らして、指先まで垂れていった。
ベルゼブモンは必死に呼吸をしながら、また言葉を絞り出そうとしていた。
「もっと……た、食べ、て……食べ……な、いと──喰われる……」
──その言葉に、カノンの表情が固まった。
「誰に?」
食べなければ生き残れない。それは生き物の摂理である。
しかし──彼は何に怯えているのだろう。狩る側である彼を、一体、何が喰らうというの
だろう。
少女の問いに、ベルゼブモンは答えない。
言えないのか、それとも、わからないのか。
「────」
突然、ベルゼブモンの体から力が抜けた。腕も首も、だらりと垂れ下がる。
「……違う。……やめろ、違う……」
虚ろな表情のまま、言葉をこぼしていく。
「……俺は、……また……喰われるのか……」
そして──諦めを感じさせる眼差し。床に広がる水溜まりに、自身の毛髪が沈んでいく様を眺めていた。
「……ベルゼブモン」
投げ出された男の腕に、カノンはそっと手を置く。
「……大丈夫……」
「…………俺、は……」
「きっと、大丈夫だから」
「……」
「食べられたりしない。ちゃんと生きていける。だから、きっと大丈夫……」
自分にも、言い聞かせるように。
「…………ああ……」
気が付けば──ベルゼブモンの横顔は、いつもの虚ろなそれに戻っていた。
「……腹が……減った……」
また、静寂が訪れる。
ベルゼブモンは、光の無い眼差しで、窓に映る男を睨み続けていた。
少女は男の腕を掴んだまま。走行の振動に合わせて、表情を無くした白い頬に涙が伝う。
数分後、車内に無機質なアナウンスが響き渡る。
列車が、段々と減速を始めていった。
◆ ◆ ◆
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