◆ ◆ ◆
車窓越しの風景が変わった。
期待とは程遠い、薄暗いホームが姿を見せる。
陰鬱としていて気が引けたが、結局、ここで降りてみる事にした。
ドアが開く。
乗車する人はいない。降車する人もいない。誰もいない。
カノンはベルゼブモンの腕を引き、ホームへ降りる。ベルゼブモンは虚ろな顔で、しかし少女に従っていた。
男は自分を拒絶しない。その事実は、少女とって数少ない救いだった。
けれどそれは、単に男が感情らしい感情を持っていないから。──わかっている。
所詮は死に損ない同士、ただ行動を共にするだけの関係性だ。──それも、わかっている。
駅のコンコースには誰もいない。二つの足音と、機械仕掛けの音声だけが反響する。
券売機の非常ボタンを見つけた。押してみたが、誰も来なかった。
公衆電話を見つけた。受話器を外してみたが、音は鳴らなかった。
自動券売機を見つけた。食べ物は無いが、水らしきものが売られていた。
「……!」
ようやく見つけたそれに、カノンは駆け寄る。──が、小銭など、それもこの世界の金銭など、彼女が持っているはずもない。
点滅するライトが、飲料サンプルを意地悪く照らす。目の前に水があるのに、飲むことができないなんて──思わず項垂れた。
諦めが付かず、握りしめた手で筐体を叩く。当然、そんな事をしても動きはしない。
悔しくて泣きそうになりながら離れ、諦めるしかないと背を向ける。
少女はそのまま去ろうとした。
──その時、「カチ」と。覚えのある金属音を聞いた気がした。
振り向いた瞬間、耳を穿つような音が響く。
ベルゼブモンが自販機に銃弾を撃ち込んだのだ。見事にロックが破壊されたのか、破損した前面扉が力無く開く。──中からペットボトルがいくつも落下した。一部は銃弾によって破れ、水が漏れ出していた。
「……ベルゼブモン?」
「……」
男は地面に漏れた水を眺めていて、それ以上は動かなかった。
──彼の行動に大した意味は無い、ただ、少女が手を上げたから──目の前の筐体を「攻撃対象」と認識しただけだ。
カノンも、何となくそれを感じていた。
自分の意図が汲み取られたわけでなく、運良くそうなったのだろう、と。
さて、普通に考えればこれは器物損壊であり、自身の足元に転がる飲み物を拾えば窃盗になる。
少女は罪悪感に苛まれたが──それよりも生存欲求が勝った。
散らばるペットボトルを手に取り、喉を潤していく。……水を飲んだのはいつ振りだろう。こんなにも美味しく感じるなんて。
地面を見つめたままのベルゼブモンにも、水を飲ませてみた。
大人しく口にしたが、黒い血と共に吐き出された。
地上へと続く階段を見つけ、二人は外に出た。
薄暗い日差しが石造りの広場を照らす。
ぬるく湿った風が、枯れた噴水を通り抜けていく。
過去には憩いの場所だったであろう場所。
今は誰もいない。自分達以外は誰もいない。真っ当な命の気配など感じない。
どうしようもないほど寂しくて、笑ってしまいそうなくらい静かだった。
カノンは空を仰ぐ。なんとなく、両手を広げた。
灰色の空。最初の街から随分離れた筈なのに、どこまで行っても同じ色。
街も灰色だ。退廃に至り、朽ちて消えるのを待つだけの虚ろ。
こんな場所ではカラスさえ、ネズミだって生きていけないだろう。
ああ、もしかしたらこの先も、ずっと同じ景色なのかもしれない。カノンはそんな錯覚をした。
植物も無く、食べ物もなく、水さえいつかは無くなって、荒野で男に喰われた生き物もいなくなって。
──そうしてきっと、世界には自分達しかいなくなる。
「……」
そうなったら、どうなるだろう。
前を行く男の背を見つめた。大きくて逞しく、弱々しくて儚い背中。捕食する為のデジモンがいなくなれば、彼は容易く崩れていくだろう。
彼が怯えながら言った、「何か」に喰われて。
彼が死んだら、自分も死ぬ。
物理的に無理だ。こんな世界でたった一人、生きていけるわけがない。
野垂れ死ぬか。誰かに襲われて死ぬか。それとも、彼の最後の食事になるか。
「……いつまで生きていられるかしら」
いつまでだろう。いつまで、こうして生き延びられるだろう。
彷徨って、獲物を探すだけの、素晴らしく単調な日々。モノクロの日々。
この放浪の生活は、何故だかあまり長く続かない気がした。なんとなく、ではあるが。
死期を悟るとは、ひょっとするとこういう事なのかもしれない。──しかし不思議と悲しくなかった。絶望もしていなかった。
ただ、ひたすらに空しいけれど。
「…………俺、は……」
語り掛けてみるものの、男の様子はいつも通り。
だからこれは返答ではない。多分、ひとり言だ。
「腹……が、減った」
ほら、やっぱり。
「……で、ジも、ん、……は、……どこに──」
いつも通り、自身の本能を口にする。
「わかってるわ。ベルゼブモン」
自分達がすべき事。するしかない事。それが何かはわかっている。
どこに行っても変わらない。ただ生きていく為──命を求めて彷徨う男に、少女はついて行くだけだ。
◆ ◆ ◆
誰もいない大通りを往く。
西洋の街並みを思わせる景色。以前の工場都市とは、街の印象がだいぶ異なる。
街の至る所には黒い水溜りが点在していた。何故か見覚えのある液体だった。
家屋は軒並み壊されている。若しくは、形を保っていても締め切られていた。……時間をかけて朽ちたと言うには、どこか不自然な光景だ。
しかし──誰かひとりくらい、いないだろうか。建物の中に隠れたりしていないだろうか。
周囲を見回して、まだ機能していそうな建物を探す。……あれはどうだろう、と。カノンは閉ざされた家屋のひとつに向かった。
「すみません」
扉を叩く。
「誰か、いませんか」
返事はない。
扉に耳をくっつけてみるが、特に何も聞こえない。やはり誰もいないのだろうか。カノンは踵を返し、男のもとに戻ろうとした。
「……──え?」
ベルゼブモンが、こちらに銃口を向けていた。
照準を一定に、ゆっくりと歩み寄る。──カノンは動かなかった。動けないまま、じっと男の顔を見つめた。
ベルゼブモンは少女の目の前に立つと、彼女の腕を掴み扉から引き離す。力が強かったのか、カノンは地面に膝を打った。
そして、銃が放たれる。
木製の扉は銃声と共に砕け散った。……十数秒後、家の中から光の粒子が流れ出す。
男は無言でそれを体内に取り込んだ。一度だけ咳込んで、そのまま家屋を後にした。
カノンは起き上がり、慌てて屋内を覗き込む。
散らばった扉。けれど鍵をかけた形跡があった。
扉の内側に積まれた、木箱や砂袋も崩れていた。
家の奥には血痕の残る毛布。散乱した空の缶詰。
そこには────誰かが、生きようとした痕跡があった。
死にたくなくて、生きる事を願って、必死に身を潜めていた。
そんな誰かが、さっきまでここに居たのだ。
「……」
少女の胸に痛みが走る。──どうしてだろう。そんな事、今まで思わなかったのに。
ベルゼブモンがデジモンを食べていても、何も感じなかったのに。
生きる為に当然だと、補食の為の狩りなのだと、割り切れていたのに。
さっきだって、そう思ったのに。
なのにどうして──屋内の光景から、目が離せない。
「何を」
男の声がする。
「して、いる」
驚いて、振り向いた。どうしてこんな時に限って、自分から話しかけたりしてくるの。
「……なんでもない」
少女は言葉を絞り出した。別に、そんなことをする必要はなかったのだが。
「これで……また、生きられるわね」
あなたが。そして、私が。
そう言って笑顔を作ろうとした。
少女の顔の筋肉は、ちっとも動いてくれなかった。
◆ ◆ ◆
こうして、この街における男の捕食劇が幕を開けた。
男は食糧を探し求める。
隠れていたデジモン達が、喰われていく。
ベルゼブモンは、少女の行動を見て学習していた。デジモンを探し当てる方法を。
家屋を見つける度に扉を叩いた。僅かでも物音を聞けば銃を放つ。そうでなければ立ち去っていく。──それを繰り返す。
時折、扉の中から声が聞こえた。
扉の音に驚く声。
あるいは、誰が来たのかを尋ねる声。
外のベルゼブモンに助けを乞う声。
扉を叩く前から、痛みを訴える声もあった。
ベルゼブモンは、平等にそれらを撃ち消していく。
平等に喰らい、また次の獲物を探す。
カノンはそれを傍観する。彼の行動を止める事も、否定する事もしない。彼もまたそうであるように。
銃声が響いた。中から粒子が煌めいた。
ベルゼブモンは、次の家へ。
彼が街のデジモンを狩り続けることに対し、カノンが罪悪感の他に感情を持つとすれば──それは危機感であった。
カノンはこの街の事も、この世界の事も何も知らない。少しでいいから誰かに話を聞きたかった。事情を知りたかった。それで、何ができるわけでもないのだが。
けれどベルゼブモンの食欲は止まらない。生き残っている数など、決して多くはないだろうに。
彼はいずれ街を食いつくすだろう。
そして、また次の「レストラン」を探すことになる。
「……」
それではいけない、と思った。
良心なんて大層な理由ではなく──誰かと話をしなければと焦ったのだ。
その為にはベルゼブモンより先に、デジモンを見つける必要がある。
カノンはベルゼブモンと、少しずつ距離を取っていく。
ベルゼブモンは食糧探しに気を取られ、少女が離れていくことに気付かない。
慎重に、男が見落とした家屋を探す。そっと近寄って、銃が放たれるのを待つ。
銃声に紛れて扉を引いた。家財が砕ける音と共に、屋内へと入り込んだ。
「────」
扉の内側には、小さな家具がバリケードのように並べられていた。
少女はそれらを跨いで渡る。中は薄暗く、家具の他にも色々なものが散乱していた。
「……すみません」
奥へ進む。散らばった空缶を蹴飛ばしそうになる。
「誰か、いませんか」
転ばないよう気を付けながら、尋ねる声は震えていた。
中には誰かいるかもしれないし、誰もいないかもしれない。
生き物がいたとして、それが必ずしも友好的とは限らない。
危険が及んだとして、叫び声を挙げたとして──ベルゼブモンが助けに来てくれるとは限らない。
「……」
ああ、本当に。助けてくれる保証なんて微塵も無いのだ。そう考えてみると、少しだけ寂しかった。
──とにかく、早くしなければ。彼に気付かれてしまう。気付かれたら食べられてしまう。物音で気付かれてしまう。気付かれて、扉ごと撃たれてはたまらない。
「…………──だ、」
その時。
「だ、だれ……」
奥に倒れた家具の裏から、か細い声が聞こえてきた。
「誰か、いるの。……だ、誰が」
声がした事に──そして、その声が想像以上に幼かった事に、カノンはひどく驚いた。
「…………この家の……デジモン、ですか」
家具越しに問いかける。
「は、話せる、の? 君は、なんとも、なってないの?」
「……私は……、……ええ、何も……」
久しぶりのまともな会話に、カノンは少し緊張した。
「……この街のことで、話を聞きたくて……」
「駄目だよ。扉を開けないで。毒が入ってきちゃう」
「……──毒?」
幼さを感じさせる声は、そんな聞き慣れない単語を口にした。
毒。毒とは、何だろう。入ってくるという事は、ここには無くて、外には溢れているという事だ。けれどそんなものはどこにも──
街には、そう。黒い水溜まりぐらいしか。
「────」
「はやく、はやく閉めて。毒が来ちゃうよ」
「……どうして、そんなものが」
「だって、だって、だって女王様が、毒のせいで、皆食べちゃったから、だから皆が街まで来て、ぼくらのことも食べに来て、だから」
「……」
「だから早く閉めないと。食べられた皆が、今度こそぼくを見つけちゃう」
──何だ、それは。
まるで、ホラー映画のあらすじのような話。このデジモンは、それがこの街で起きていたのだと言う。
あまりに非現実すぎて──普通であれば、苦笑しながら聞き流すのだろう。
けれど────
「──そう」
カノンは信じた。自分でも驚くほど疑わなかった。すんなりと、胸の中に入ってきたのだ。
「でも……外には、誰もいないわ」
「そ、そうなんだ。じゃあ皆、食べ終わって出ていったんだ」
「街から逃げないの?」
「逃げられないよ。家の外は毒まみれだから」
「……毒があったら、どうなるの」
「死ぬんだよ」
幼い声は「当たり前じゃないか」と驚く。
「毒で死ぬのは嫌なんだ。痛くて、痛くて、とても痛いって、皆そうやって消えたんだ。
だからせめて、自分の家でね、ゆっくり待つことにしたんだよ」
──それは、何を待っているのか。言われなくても、分かってしまう自分に嫌気がさす。
「それより君は、街の外から来たんでしょう。よく毒で死ななかったね。天使のデジモンなの?」
「……そんなものじゃないわ」
「じゃあ、じゃあ、もしかして、街には、そんなに毒が広がってないの? 外に出ても、平気なのかな」
幼い声は期待混じりに問う。
──街には黒い水溜まりが至る所に見受けられた。自分達には問題なくとも、きっと彼にとっては「毒」なのだろう。
ベルゼブモンの吐瀉物と同じ、粘度がある黒い液体──
……そういえば。あれから銃声が聞こえない。
嫌な予感がした。カノンは咄嗟に背後を向く。
「────」
閉めた筈の扉が開いていた。
ベルゼブモンが、銃を手に握って、立っている。
「……、ベルゼブモン……」
いつから、そこに居たのか。
いつもと変わらない表情。ただ獲物を探している時の、お腹を空かせた彼の表情。
獲物を撃って、自販機を撃って、扉を撃った時と同じ表情。
「────」
いつもと同じ筈なのに、何故かとても怖く感じた。
すぐに動く事が出来なかった。動いて良いのかも分からなかった。
「……待って」
デジモンを視認されている以上、彼女ごと銃で撃ち抜く可能性は──決して無いとは言い切れない。捕食の為、彼がいつ行動を起こしてもおかしくはない。
「……まだ……食べないで。話が、終わってないのよ」
家主がいるであろう家具の前に、カノンは少しずつ移動する。そして、庇うように両手を広げた。
「ベルゼブモン……」
「どうしたの? また誰か来たの?」
「……────デジ、モン、……が」
「ええ。いるわ。ここに居る」
「…………俺、は……」
「わかってるわ。食べないと、いけないことだって。……わかってる。そうしないとあなたが」
「君は、ぼくをロードしたいんだね」
──また、聞き慣れない言葉だった。
「そっか。うん、仕方ないよね」
「……仕方ないって、何が──」
「でもせめて、外に毒があるのかだけ、教えてほしいなあ」
背後から乞われる。
どうしてそんなにも明るい声が出せるのだろう。自身の状況が分かっていないわけではないだろうに。
──いや。分かっているからこそ、自分にそれを聞いてきたのか。
「……──外は……」
両手を広げて、空を仰ぎながら歩けてしまう程には、綺麗だったけれど。
「……黒い水溜まりで、いっぱいだったわ」
「……ああ。やっぱりそうなんだ。よかったあ」
自身の選択は間違っていなかったと。声の主は、ひどく安心した様子だった。
「そこの君も、一緒に旅をしてるんだね」
家具の裏から物音がして、声の主が現れた。
幼い声色によく似合う、小鳥のような、とても可愛らしい外見。
──しかし酷く痩せている。体の肉は無くなり、ほとんど骨と皮だけだった。
少女は改めて、床に散乱した缶詰に目をやった。大量の乾いた空き缶。一体どれほどの間、この家に隠れていたのだろう。
家主は自ら、ベルゼブモンの前へと進んでいく。棒切れのように細くなった足を引き摺っていく。
ベルゼブモンはそれを眺めていた。銃弾を放つこと無く、小鳥のデジモンの接近を許した。
「つ、強くならないと、旅、できないよね。ぼく、弱いけど……で、でも足しになるなら、連れて行ってよ。美味しく、ないかもしれないけど。──できたら、痛くしないで欲しいなあ」
その言動の一切を、少女は理解できなかった。
これからされる事を、わかっているような口振りだった。
わからない。どうして。生きたくて、隠れていたんじゃないのか。
「ああ、君は、デジモンじゃなかったんだね」
少女の前を通りすぎる、小鳥は可笑しそうに笑った。
「……どうして」
「隠れるのも……そろそろね、限界だから」
「生きたいって……思ってたんじゃ、ないの」
「生きていたかったよ。でも、ぼくたちはデジモンだから」
自分に言い聞かせるように。小鳥のデジモンは言葉を並べていく。
「弱いぼくらは、強い誰かに食べられる。それでいいんだ。それがいいんだ。毒で溶けるくらいなら」
「……」
ベルゼブモンはゆっくりと近付いて来る。少女を横切り、小鳥のデジモンの目の前へと立つ。
床に膝をつくと、ベルゼブモンは銃を収めた。両手の鋭い爪を小鳥に向ける。
「あなたの」
もう、結末を変えることは出来ない。
それでも──死への時間を僅かでも稼ぐように、少女は言葉を割り込ませる。
「名前、なんて言うの……」
せめて、それだけでも。
名も知らないまま悪魔に殺された、女学生の姿が浮かぶ。ああ、せめて名前だけでも連れて行くから。
「ぼくね、ピヨモンっていうんだよ」
少女に名乗った、ピヨモンは笑顔だった。それが堪らなく、少女の胸を締め付けた。
「…………さようなら。ピヨモン」
「ありがとう。誰かと話せて、嬉しかった」
その、言葉の後。
小さな肉体は光を帯びた。男の指先が触れた瞬間、分解が始まったのだ。
それは毒によるものではなかった。──時間切れだ。飢餓と衰弱。緊張の糸が切れると共に、小さな体は限界を迎えたのだろう。
男は無表情のまま、光の粒子を体内へと取り入れる。
目を閉じたピヨモンの顔は、最後まで穏やかだった。
◆ ◆ ◆
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