◆ ◆ ◆
先程までピヨモンがいた場所を、指先で撫でる。
もう温かさは残っていない。砂と埃のざらつきだけがそこに在った。
ピヨモンが言っていたように──あのまま隠れていても、彼は果てたのだろう。けれど、自ら身を差し出すなんて。
「……わからないわ。食べられるって、怖いことじゃないの」
その行動も、見せた笑顔も、少女には理解できなかった。
「食べられたくないから、あなただって……一生懸命、デジモンを食べてるのに」
「……」
「……わからない。……私は……最後まで生きていたい……」
どんなに足掻いても、ずるくても、汚くても。守ってくれている者に、命を奪う責任を負わせてでも。
動揺するカノンに対し、ベルゼブモンは特に何かを言うことも、表情を変えることもない。
ただ、ピヨモンに触れた自身の手を見つめていた。彼が直接デジモンに触れたのはブギーモン以来で、手に残る肉の感触は久しぶりだった。
肉のオブジェクトの表面に張り巡らされた、テクスチャの皮膚。
少女のそれとは明らかに異なる感触。その違いに、少しだけ驚いていた。
「……」
目の前で、少女は床に座り込んだまま動かない。
男にはその理由が分からず──それよりもまだ空腹なので、彼は再び食糧を求めて動き出した。
もっと食べなければ。
せめて、あと少し。
────気付けば少女は家の中にひとり。男の姿はなくなっていた。
また、デジモンを探しに行ったのだろう。彼はいつになったら、「お腹いっぱい」になる事ができるのか。
拙く打ち付けられた窓から、外を覗く。
心がもどかしくて、抑えきれなくて──手をかけていた薄い板を、力任せに引っ張った。
軋む音がした。けれど差し込む光量は変わらない。──改めて、自分の無力さを思い知る。
もはや感傷に浸る気力さえ無くなり、少女は呆然と外に出た。
ベルゼブモンは、どこにも見当たらなかった。
(ああ)
(ひとりに、なってしまった)
少し慌て、小走りで周囲を探す。──誰もいない。
先程の家に戻ってみる。焦燥感が募る中、どうすればいいかを考える。
そしてまた、歩き出す。周囲を探しては、家に戻ってを繰り返す。
離れた所から銃声が聞こえた。
狩りの音だ。カノンは銃声を頼りに、ベルゼブモンを追いかけた。
◆ ◆ ◆
扉を叩く。
耳を澄ます。
銃を構えて、放つ。
ベルゼブモンは繰り返す。
体内の毒に、自らを喰われない為。まだ毒に侵されていない生命を求めていく。
男は本能のまま肉体を動かした。捕食する為だけに、その手段を学習していた。
何度も何度も扉を叩き、耳を澄まし、気配を探す。それでもなかなか見つけられずに彷徨い続けて──それから、三度ほど銃を放っただろうか。
無心に獲物を探していた彼だったが──突然、ぴたりと足を止めた。
「……っ、が、……」
本人の意思に反し、突然。体から力が抜けていく。銃が滑り落ちそうになった。慌てて掴んで、ホルダーへと戻す。
どこも光っていないのに、目の前がチカチカと点滅して眩しい。頭が痛くなって、片手で顔を押さえた。
……眩暈がする。汗が滲み、呼吸の数が増えていく。
「は、──ァ、……ハッ……、はぁ、──……、……」
しばらくして、ようやく頭痛が緩和した頃。
ベルゼブモンの中に、ある変化が訪れていた。
自身の意識が明瞭になっている。自身の思考を認識できる。
一定以上のデジモンを一度に捕食した事で、一時的に『食』への渇望が薄れた瞬間だった。
「……」
ベルゼブモンは周囲を見回す。慌てて、どうにか自身の状況を把握しようとした。
──ああ、まただ。また知らない場所だ。どうしてここにいるのだろう。自分は何をしていたのだろう。
「……──?」
ふと、あの少女が見当たらない事に気付く。
いつからいなくなったのか、思い出そうとした。
記憶を辿る。辿ろうとする度に、痛みが強く拍動する。
「……。……白、い……」
……そうだ。白い、何かの空間。そこにいた事までは、覚えている。
その先は──どうだっただろうか。この見知らぬ場所でも、どこかまでは、いたような気がするのだが。……そう、どこかまでは。
自身の食事の、途中までは。
「……」
──本能に駆られている間、彼の記憶は酷く曖昧だ。断片的にしか残らない。
いつからひとりになったのか、思い出せなかった。
「カ、ノン」
名前を呼んでみる。
声は倒壊した家屋に反射し、少しだけ響いた。
自分が来たであろう道を振り返る。
自分はアレを、途中で置いてきたのかもしれない。──そんな考えが浮かぶ。
探すべきか、それとも下手に動かず留まるべきか、悩んだ。
「……」
ベルゼブモンにとって、少女は「よくわからない」存在だ。
デジモンではない、食糧にさえ成り得ない何か。それでもどういうわけか、自分と行動を共にしている。
──気付いた時から隣にいたせいか、ひとりの状態はどこか落ち着かない。「食事」の間はそんなこと、微塵も感じなかったのに。
しばらく考えて、男はその場に留まることを選んだ。少女が自分を追ってくる確証など何ひとつ無いまま。
「……」
その場に立ち尽くし、少女を待つ。
周囲を見回す。耳を澄ましてみる。
空を見上げる。耳を澄ましてみる。
周囲を見回す。記憶を辿ろうとする。
集中できなくて、また周囲に目を凝らす。
そうして時間を潰してみるが、少女の姿はなく、足音も聞こえない。それでも、待ってみる。
だが、立つだけでも、意外と体力を消費すること気付いた。近くにベンチを見つけたので、腰をかけて待つことにする。
「……」
静かだ。と、思う。
静かなのに、何故だか頭の中がうるさく感じた。
本能がまた騒いでいるのか。
喰ってきたデジモン達のデータが騒いでいるのか。
うるさくて、うるさくて、耳を塞ごうとして、自身の両手を見て────ああ、こんな手じゃ、なかったはずなのに。
一度、握り締める。そのまま額に当てて耳を覆った。
それでも音は止まない。止むはずもない。わかっては、いるのだが。
塞ぐ手に力を込めて、背を丸めて俯いて。
目は閉じなかった。閉じればまたあの悪夢が、自身を襲うと分かっていたからだ。
だからそのまま、じっと地面を睨み付けて──瞬きさえろくにせず、耐えていく。
乾燥で溢れる涙は濁っていた。零れて落ちて、地面に散らばる砂を固める。
あんなにも食べたのに、まだ足りない。
そう、どこかで感じる自分がいた。それに気付いてはいけないと、自制する自分がいた。
早くしなければ。また食欲に飲まれてしまう。ああ、早くしなければ。
でも、何を早くしなくてはならないのだろう。何を求めているのだろう。わからない。それでも早く、早く、早く。
ああ、うるさい。頭の中がうるさい。うるさい煩い五月蝿いウルサイ。頭の──
「具合、また悪くなったの」
──頭の外から、声が聞こえた。
ベルゼブモンは頭部から手を離し、ゆっくりと顔を上げる。
少女が居た。男の前に、立っていた。
カノンは黙ってベンチに座る。ベルゼブモンから、一人分ほど空けた位置に。
「……目立つ場所で、休んでくれてたから」
「……」
「だから……見つけられて、よかったわ」
「……。……ああ」
「……デジモン、追わなくていいの?」
「…………今、は……」
「──」
カノンは驚く。
「珍しいのね」
彼がデジモンを求めない事に。
そして、彼からの返事が続いた事に。
「……カノ、ン」
また、名前を呼んでくれた事に。
「なあに」
「…………も、どって……きた、のか」
「……ええ」
「……。……どう、して、……」
「…………」
純粋な疑問だ。決して他意は無い。
だが、カノンは口ごもる。自分が男に同行する理由はあまりに利己的だと、負い目を感じていたからだ。
「私は……。……戦えないから」
正直に、伝えた。
「……ひとりで、生きられないから……」
目を伏せつつ、ベルゼブモンの顔色を窺う。
男の目線はどこか遠くを見つめていた。表情に変化はなく、ただ一言「そうか」と呟く。
「……どうして急に、こんなに話してくれるようになったの?」
「……」
「今までは、返事だって……あまり、してくれなかったのに」
「……──気が……付いた、ら……」
言葉はまだ覚束ないが、それでも意識は鮮明だ。彼自身、己の変化には驚いている。
鮮明だからこそ、次々と疑問が湧いて出た。自身の事も、少女の事も、周囲の事も。
しかしどうしても、自分では思い出せないのだ。
「……。……俺は……」
それでも。目の前の少女は──自分という何かを知る、この生き物なら。
自分がここにいる理由も、何があったのかも、知っているのではないか。
「俺は……ここ、で、……どれだけ、喰った」
「……。……どうかしら。でも、たくさん撃っていたわ」
「……──そうか」
「食べるのは、苦しい?」
「………」
男は変わり果てた両手を見つめる。
「吐き気、が……する、くらいに」
「……そう」
「それ、でも……俺は、喰いたい、と……」
「……嫌な話ね」
「……だが、今……だけ、だ。……すぐに、忘れる。……また……腹が、減れば……」
「……いつものあなたに、戻るの」
「……──ああ」
自分の意志で動ける時間。あとどれだけ残っているのだろう。
飢えに襲われるまで、本能に支配されるまでの、限られた時間の中で。
「……ここは、どこ、だ」
男は、少しだけ焦っていた。今のうちに、少女から何かを聞き出さねばと。
刻み込んだ記憶が、引き継がれるとは限らないのに。
「わからないわ。私達、ただ、デジモンを探してるだけだもの」
「……それは、……俺が、喰う……」
「ええ。でも、やっぱり覚えてないのね」
「……。……どこか、から、──お前が……いた、……ことは、覚えて、……」
「────」
その言葉が、カノンには少しだけ嬉しかった。
「……あなたと、ちゃんと話せて嬉しい」
「…………すま、ない」
「……謝らないで。変な感じがするもの」
「……そうか」
だが、とベルゼブモンは続ける。
「……きっと、長く、は……もたない」
「……うん」
「いつ……戻らなく、なる、か……わから、ない」
「……うん」
「……どう、したら……いいか、……わ、からない、が」
今のうちだ。──そこまで言って、咳込んだ。こんなに長い時間、声を出すことには慣れていない。男の爛れた声帯が痛みを放つ。
口元を押さえた手に、黒い液体が付着した。カノンは、それを見逃さなかった。
────ああ、やっぱり、あれがいけないんだ。
男が吐き出す黒い液体。街に広がる水溜り。ピヨモンが言っていた、同胞を喰らう毒の存在。
彼の体内には、きっと同じものが溢れている。
あれのせいで、ベルゼブモンが苦しんでいるんだ。苦しみながら、食べているんだ。
「……あなたの中の、……毒を」
何とかしなければ。──しかし、ただの女学生が毒の処置など知る筈もない。
自分の無力さが悔しい。自分はこんなにも守ってもらっているのに。それが、彼の意志でなかったとしても。
それでも必死に考えた。少しでも毒を抜く方法──そうでなくても、少しでも彼が元気になれる方法を。
「何か、別のものを食べられたらいいんだけど」
「……別、の」
「デジモンを探してる間、あなた、何度も倒れたわ。そのうち、探してる間に死んじゃいそうで……」
「……」
「……だから、他のものが食べれたらいいのにって思うの。なんでもたくさん食べたら、きっと体力だってできるから」
ピヨモンは缶詰を食べて生き永らえていた。自販機には水だって売っていた。つまり本来デジモンは、そういった食事で生きていける生き物なのだ。
彼だってデジモンだ。その姿形が変わり果てようと、生物としての根底は変わらない。
もし、彼が普通の食べ物を摂る事ができたなら。
それはきっと、彼が本当の意味で『元に戻る』第一歩になるだろう。そう、カノンは思っていた。
──だが、出来るのは今だけだ。
彼が『元』に戻ってしまえば、デジモン以外を口にするなどという手段自体、選べなくなる。
「……だから、今のうちに。……あなたに少しでも、元気になって欲しい」
言ってから、カノンは少し俯いた。
ベルゼブモンは遠く空を眺めていた。しばらく少女の言葉について、拙い思考の中で咀嚼する。
「……わか、った」
そう言って、ベルゼブモンは立ち上がった。
「……それ、を……探す」
「他の食べ物を?」
「……ああ」
──初めて、デジモン以外の食糧を求めた。
果たして、彼の中のタイムリミットに間に合うかは分からないが。
「どこ、に……」
「……缶詰とかが、残っていれば……」
しかしこの街ではもう、ほとんどの食糧は食べ尽くされているだろう。
食べ尽くして、それでも生きたくて、ピヨモン達は飢えながら隠れていたのだから。
──“だって女王様が、毒のせいで、皆食べちゃったから、だから皆が街まで来て”──
「……」
小鳥が遺した言葉を、思い出す。
「──女王様は、どこにいたのかしら」
女王が毒に侵されて、ベルゼブモンのようにデジモン達を喰らったのなら。
「その『皆』は、どこから……」
カノンは立ち上がり、辺りを見回した。
地図は見当たらない。今度は遠くを見回した。少しでも高い建物を探して。
街の事情を知らないベルゼブモンは、少女の行動を不思議そうに眺めていた。
「……ベルゼブモン。行ってみたい場所があるのだけど」
「……」
「ねえ、見える? あの建物。ひとつだけ大きいの」
指を差す。街から離れた場所にある、少しだけ豪奢な建築物。
ベルゼブモンは立ち上がって、カノンの差す方向へ歩き出した。
だが、少しだけ歩くと足を止め──振り返る。
「どこ、だ」
そして、少女に向けて腕を伸ばす。
「遠い、もの、は……よく、見えない」
「……」
カノンはベルゼブモンに駆け寄った。
少しだけ頬を緩めながら──伸ばされた腕を掴んだ。
「大丈夫よ」
そしていつもと同じように、彼の腕を引いて歩く。
◆ ◆ ◆
「俺は」
本能の衝動が穏やかな間も、ベルゼブモンは、常に家屋の中を気にしていた。
「また……腹が、減って……。デジモン、を……探す。……だが」
片手は銃にかけられ、いつでも自身のタイムリミットに備えている。男の目にはずっと、不安の色が見て取れた。
「……その時、俺は……きっと、……思い、出せない」
「それは……今のことを?」
「……お前、も……」
「……そう」
腕を握る小さな手。腕から手首に、少しだけ動かしていく。
「──なら、私が、覚えてるから」
「…………ああ」
ベルゼブモンは少しだけ腕を上げて、少女の手の高さに合わせた。
「お前、は────腹が、減らない、から」
「……」
「だか、ら……大丈夫、だろう」
カノンの表情が固まる。
ベルゼブモンはそれに気付かない。少女の歩幅が乱れて、少しだけ、早足になった。
「──ええ、そうね」
ベルゼブモンがそう思うのも無理はない。
カノンはデジタルワールドに来て以来、水以外を口にしていないのだから。
◆ ◆ ◆
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