◆  ◆  ◆



 街から外れるにつれ、水溜まりは数を増していく。

 道いっぱいに広がった黒い水を前に、カノンは足を止めた。
 ベルゼブモンの様子を伺う。──毒に侵された彼が、果たして渡って良いものだろうか。

 そんな少女の気も知らず、ベルゼブモンは構わず進もうとするので、カノンは慌てて腕を掴んだ。
 何だ、と言いたげにベルゼブモンは振り向く。

「……あまり、触らない方がいいと、思って」

 ベルゼブモンは毒の道に視線を戻す。

「────もう、遅い」

 そう言って、歩み出した。
 カノンも後に続く。踏み出すと、びしゃりと音が立った。靴の裏に僅かな粘着を感じる。不快な感触だ。

 いつの間にか、周りの景色も随分と姿を変えていた。
 街の中心部はある程度、建物はそれらしい形を残していたが──ここはもう瓦礫の山だ。瓦礫も、壁の名残も、どれも黒い水で染められていた。……ピヨモンが恐れていた街の光景とは、この事だったのかもしれない。

「具合は?」
「…………、……まだ……」
「……良かった」

 途中。瓦礫の隙間に、ゼリー状になった黒い塊を見つける。
 不均等に散らばるそれが何なのか、カノンにはわからなかった。

 毒の道は小高い丘へ続いていた。
 なだらかな丘には寂れた庭園が広がっていた。
 庭園の中央には石造りの豪邸。二階建てだが広い古城だ。
 様式も風格も、街の建造物との違いは明らかで、カノンは此処が「女王様」のいた場所だと推察する。

 派手すぎない造りの庭園を進む。もしも今、空が青く、この場所に花が咲いていたら──なんてロマンチックだったろう。少女の胸がどれほど、ときめいたことだろう。
 けれど曇り空の下、庭園に咲くのは黒い血痕。静けさが恐ろしくて、カノンは男の腕を両手で掴んだ。

 ベルゼブモンは平然と、特に反応は示さなかった。──彼の空腹がまた襲ってくる前に、早く、何か食べさせてあげなければ。

 城の正面玄関は崩されていて、入る事ができなかった。
 壁沿いを進んで裏口を見つける。ベルゼブモンがドアノブ部分を撃ち壊す。衝撃で蝶番も砕け、扉は音を立てて倒れた。
 舞い上がる埃にカノンは咽る。その間に、ベルゼブモンが中へと入って行く。
 中には薄暗い廊下が広がっていた。ベルゼブモンのブーツが、硝子の破片を砕く音が響いていた。カノンは離れてしまわないよう、男のジャケットの裾を掴んだ。

 ──城内は薄暗く、荒れていた。
 ソファーの足は折れ、飾り棚は砕け、シャンデリアは落ちて、窓も割れていた。
 時間の経過が変貌させたわけではない。此処で何かが──混乱と暴動が起きたのだと、凄惨さが物語っていた。

 その証拠に、シャンデリアの欠片は埃を纏うことなく輝いている。少女が、思わず見とれてしまう程。

「……怖いけど、綺麗ね」
「……」

 さて、食べ物はどこにあるだろう。
 これだけ広いのだ。たくさんの人に食事を用意していたなら、キッチンやパントリーも大きいに違いない。食料の備蓄だって多少はある筈だ。
 カノンはそう目星を付ける。しかし間取り図も案内図も此処には無い為、一部屋ずつ順に調べていかなければ。

 裏口の付近には、私室のような小さな部屋ばかり。いずれも内部の損壊が酷い。
 デジモンの気配は感じないのか、ベルゼブモンの反応もない。彼は黙ったまま、カノンが部屋の内部を見回して、戻ってくるのを待っていた。

 少し進んだ先に階段を見つける。
 質素な造りの、地下へと続く階段だ。

 日本で暮らす少女には、地下室というものにあまり馴染みがない。だから思考を巡らせた。
 デパートや駅の地下……そう言えば、食品売り場は地下に多い。ワインセラーもそうだ。理由は分からないけれど。

 もしかしたら──と。カノンは期待を胸に階段を下り始めた。暗がりの中、踏み外さないよう慎重に。
 ベルゼブモンは躊躇っているのか動かなかった。確かに、今の彼がこの段差を下りるのは難しいだろう。

「あなたは、待っていて良いのよ」
「……」

 下りる程に光は消え、視界がみるみる悪くなる。

 携帯電話の電池はとっくに切れており、かつての工場都市のようには照らせない。……こんなに真っ暗で、暮らしていたデジモン達はどうしていたのだろう。

 街や城の造りは、昔のヨーロッパのそれとよく似ている。
 しかし別の場所には都市があり、地下鉄だって走っていた。この城だけが松明を灯していたなんて、あるだろうか。

 ざらついた壁を手探っていると、突然硬い何かに触れた。……プラスチックのような素材。どこか覚えのある感触。
 指でなぞり、確かめる。──それは、毎日のように触れていたものとよく似ていた。自宅に帰って、玄関に入って、最初に押すスイッチと同じもの。

 押してみる。パチン、という音と共に、地下室に明かりが灯った。

「……」

 ──照らされた場所は、自宅とあまりにかけ離れていて、少しだけ寂しくなった。

 一直線の廊下。舗装された土の壁には不均等にランプが並び、奥の部屋へと誘っている。
 導かれるように進む。壊れた扉の中が、見えてきた。

「……あった……」

 目指していた厨房を見つけた。
 中はそこそこに広い。調理台があって、石釜もオーブンも、水を汲む為のポンプだってある。目立った損壊も無く、きちんと使えそうだ。
 ……ああ、予想した通りだ。この城が本当に、街を崩壊させた原因なら──ここのデジモン達には、籠城して生き延びる余裕などなかった。食糧を持ち出す余裕も、食い潰す時間も無かったのだ。

 カノンはすぐに物色を始めた。調理棚の中を、オーブンの中を、釜戸の中を探していく。見つけたものは手当たり次第、水汲み用の木のバケツへ放り込んでいった。果たして衛生面は大丈夫なのか、そんなことは二の次であった。

「……あとは……この中は……」

 流し台の下の、扉を開けてみる。

「……──魚?」

 中に入っていた魚。
 それと、目が合った。

「────」

 違う。
 これ、魚じゃない。

「……っ!」

 気付いた時にはもう遅い。棚の中の魚は少女に飛び掛かる。
 馬乗りになり、ヒレの先の鉤爪を構え、恐怖と憎悪に満ちた瞳で少女を睨みつけた。

「……ご……」

 少女は謝ろうとした。城に勝手に入ったこと、厨房を物色して、食糧を取ろうとしたことを。

「人間が!」

 けれど魚──シーラモンは、上擦った声で少女に叫ぶ。

「よくも! よくも毒を!!」
「……え……」
「俺たちを! 殺したな!!」

 突然何を言い出すのだろう。この魚は何を言っているのだろう。同じ言語のはずなのに、その一切が理解できない。

「どうして俺たちは殺されなきゃならなかったんだ!」
「……何の、こと……」
「とぼけるな! お前ら部外者のせいで皆が死んだ!」
「……わ、私……さっき来た、ばかりで、何も……」
「女王様はずっと! 人間のことを調べてた! それから全部おかしくなったんだ! お前ら人間さえいなきゃ……!」
「…………私は……」

 シーラモンは泣き叫ぶ。昂った感情を、理不尽にぶつけているようにも見えた。

「何も、知らない……」

 鍵爪が、カノンの首に当てられる。

「……何も……」
「俺が仇を!」
「……」
「レディーデビモン様の!!」
「…………」

 鉤爪が食い込む。
 けれど少女は叫び声ひとつ上げず────その目線は、シーラモンより、もっと上へ。

 ああ、このデジモンが何を言っていたのか、私には分からないけれど。
 そんなに大きな声を出したら──すぐ、気付かれてしまうのに。

「……」

 そんなことを、思いながら。
 音もなく厨房へ入ってきたベルゼブモンに、シーラモンが片手で掴み上げられるのを────滲む視界の中、カノンは無言で見つめていた。




「ぎあっ。──あ、あっ」

 魚の声が真上から聞こえる。
 生臭い血液が、目の前に滴り落ちる。

 男の爪がシーラモンの頭部に食い込んでいく。シーラモンは痙攣しながら必死に抵抗し、鍵爪でベルゼブモンの腕を削ろうとしている。
 しかしベルゼブモンは表情ひとつ変えず、じっとカノンを見下ろしていた。

 ──彼は今、“どちら”なのだろう。
 先程までの彼なのか、それとも、空腹に身を委ねた時の彼なのか。

 ────どちらでもいいか、なんて思う。

 程無くして、ベルゼブモンはシーラモンを補食し始めた。
 絶叫が厨房に響く。硬いものを噛み砕く音。肉を引きちぎる音。なんて酷い音だろう。カノンは目を閉じ、けれど耳を傾けた。

 やがて、ガチンと歯が合わさる音がして──辺りはしんと静かになる。
 カノンは目を開けた。キラキラと光の粒子が漂っていて、綺麗だった。

「……」

 ベルゼブモンがこちらを見ている。捕食を終えた今、少女に何と声をかけることもなく。

「……ベルゼブモン」
「……」
「……。……私また、あなたに助けてもらえたわ」
「……」
「あなたが、デジモンを探すから……」
「……」
「デジモンに襲われる私は、あなたに助けてもらえるの」

 初めて会ったあの時も。そして、今だって。

「ありがとう」

 カノンは上半身を起こし、シーラモンに乗られた胸部に触れる。……誰かに乗られる事が、こんなにも怖くて不快だとは思わなかった。
 けれどあのデジモンは、決して下品な心情からその行動をした訳ではない。彼にあったのは、ただ深い憎悪だったのだから。

「……さっき……」

 私達のせいだと。
 毒も、こんな事になっているのも、私達のせいだと。そう言われたのだと──男に伝えようとした。

「……」

 ……できなかった。
 言ったら、もう一緒には居させてもらえない気がしたから。

「……なんでもない」
「……」
「ねえ。食べ物、いっぱいあったのよ。ほら」

 話をそらすように、バケツに集めた食糧を見せる。
 ベルゼブモンは手を伸ばした。その手はバケツを通り過ぎ、少女の顔の近くで止まる。

「ベルゼブモン……?」
「……」

 そして──少女の首元に残る爪痕を、指先で、そっと撫でた。

「──え?」

 彼の行動の意図が、カノンには理解できなかった。
 そして、知る事もなかった。……シーラモンに襲われていたあの時、ベルゼブモンが物音に気付いて────走れない筈の身体を駆り立て、駆け付けたのだという事を。



◆  ◆  ◆



 様々な色彩の食器が、薄汚れた調理台の上に並ぶ。
 二人分の食事を用意するなんていつ振りだろう。カノンは少しだけ楽しそうに、調理台を食卓として整えていく。

「綺麗な色ね」
「……」
「あなたも、初めて見たでしょう」

 ベルゼブモンは怪訝そうに食器を眺めた。

「どうしたの?」
「……どこか……違う、のか」
「……そうね。興味がないと、どの食器も同じに見えて……」
「色、は──……どれも……同じ……」

 カノンは手を止める。

「──それは何色?」

 水色の皿を指差した。ベルゼブモンは少し考える素振りを見せて──「灰色」と答える。

「……じゃあ、これは……」

 カノンはセーラー服のスカーフを見せた。
 白地に映える、茜色のパータイ。けれどベルゼブモンには

「それ、も」

 濃い、灰色に見えていた。

 毒で焼け落ちた色彩。
 彼の目には全てが、白黒映画のように映っている。

「──本当、は……違う、のか」
「……何が本当かは、わからないけど」

 カノンは再び手を動かす。

「そもそも……私達は人間とデジモンで、違う生き物だもの。見え方が違っても変じゃないわ」
「……」
「でも……そうね。一つだけ……」

 そう言ってカノンは、セーラー服のスカーフを持って見せた。

「私のと、あなたの……よく見たら色、おそろいだわ」
「……?」
「同じような、濃い灰色に見えるでしょう」
「……同じ……」

 ベルゼブモンは、自身の左腕に巻かれたスカーフに目をやる。その存在にも気付いていなかったのだろう。カノンの胸元のスカーフと、何度も見比べていた。

 そんな様子を微笑ましげに見つめながら、カノンは食事の支度を進めていく。美味しそう、とは言い難い風貌の食材で、美しい皿の装飾を埋めた。
 集めた食材の一部。干し肉のようなものと、腸詰めのようなもの。固く焼かれたパンのようなもの。缶詰に入っていた穀物の寄せ集め。

「ご飯よ」

 呼びかける。──人生で初めて、この言葉を誰かに使った。

「いただきます」
「……」
「食べる前には、いただきますって言うの」
「…………」
「こっちが、あなたの分」

 少女の分よりもたくさん盛られた皿を、ベルゼブモンの前に寄せる。

「先に、私が食べてみるから」

 銀色に輝くフォークで、缶詰に入っていた豆のようなものを刺す。ゆっくりと口に運び、恐る恐る咀嚼する。……味は特にしなかった。食感は、グリーンピースのそれに近い。
 次に、干し肉のようなもの。何の肉なのかはわからない。フォークとナイフで丁寧に切り分け、口へ運んだ。──コンビニで売っているドライソーセージのような風味だ。塩漬けにされているのか、少ししょっぱい。

 だが、いずれも食べられるものだと判断した。根拠は──ただの勘だ。

「食べてみて」

 カノンは肉をベルゼブモンの口元へ。ベルゼブモンは口を開け、受け入れた。

「……おいしい?」

 噛んでいるのか、転がしているのか、口をもごもごとさせている。美味しいとも不味いとも言わず、そのまま飲み込んだ。
 ベルゼブモンは拒絶の反応を示すこともなく、次は自身でフォークを突き立てた。それを見て、カノンは少しだけ笑顔になった。

「誰かと食べるの、久しぶりだわ」

 懐かしい感覚だった。

「だから……少し、嬉しい」
「……」
「……それより良かった。あなたがちゃんとご飯、食べられて。……元に、戻る前に……」
「……、……」
「このまま、元気になれればいいのにね」
「…………ああ」

 二人は結局、運んできた食料のほとんどを食べ尽くしてしまった。
 ベルゼブモンの様子に変わりはない。吐き戻す事がなくて安心した。カノン自身も、久しぶりの食事が胃を通るか心配だったが──彼女も問題なく食事を終えられた。
 最後に、自販機から持ってきていた水を飲んで、一息つく。

「ごちそうさま」
「……」
「食べた後は、そう言うのよ」
「…………この、先は」
「……そうね。……他の場所も見て……休める場所や、役に立つものがあるか探したいわ」

 自分達はきっと、これからも放浪する事になるだろう。誰もいない荒れ果てた世界を。
 ならばキャンプ道具の一式でも、手に入れたいところではある。……それが無理なら、せめて鞄と枕くらいは。

「……そうか」

 ベルゼブモンは頷いた。そのまま厨房を出ようとして──ジャケットの裾をカノンに掴まれた。

「──」
「待って。食器を洗わないと」
「……?」

 それは、ありふれた日常の動作。
 忘れてはいけないルーティーン。少女が普通の生活を失わない為の。──場所も人も、随分と変わり果ててしまったけれど。

 少女は普段通り、食器を重ねて流し台へ向かう。袖をまくって、蛇口を捻って、水を出す。
 すると、自然と水が出てくることに驚いた。……電気が通っていることといい、この城のインフラはやたらと整っている。

 ──もし、ベルゼブモンがデジモンを食べなくても、生きて行けるのなら。
 ここで穏やかに暮らすことも、できるのだろうか。

 そんなことを考えてみる。
 馬鹿だなあ、と自嘲して、カノンは食器を丁寧に洗った。



◆  ◆  ◆





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