◆  ◆  ◆




 天井には美しいステンドグラス。外の薄明りが七色に差し込む。
 石の床にはたくさんの水溜まり。壁を彩っていた筈の硝子が、砕けて黒い海に煌めく。
 祈りを捧げるための長椅子も、全て木屑と化していた。

 中央には赤いカーペット。何かが這った痕が、奥の祭壇へ続いている。

 祭壇の前に誰かがいた。
 泣いている誰か。響いていた声の主。そこには女の姿があった。

 ────厳密には、女の形をしたデジモンである。

 女は全身が黒かった。元からなのか、それとも黒い液体によるものなのか、少女には分からない。長い銀色の毛髪が、女の周囲にたくさん浮いていた。
 女は口から、鼻から、そして皮膚の亀裂から、コールタールのような液体を溢れ出させている。
 水溜まりは女から生まれているようであった。女は祈るような姿勢で、自身の液体に溺れながら泣いていた。

 ────その姿が、出会ったばかりのベルゼブモンと、ひどく重なる。

「……」

 思わず男の様子を伺う。
 女を見下ろすベルゼブモンは、驚くほど無表情だった。……どんな気持ちで見ているのだろう。

 恐らくは彼女が──ピヨモンが、そして地下室の魚が言っていた「女王様」だとカノンは察する。
 毒に侵され、城のデジモンを襲い、そして街を崩壊させた元凶。ベルゼブモンは彼女を「同じ存在」と言っていた。毒に侵された同類という事だろうか。

 ……何故、彼らはこんな目に合わなければならなかったのか。

 ベルゼブモンは変わらず無表情のまま。目の前の女性は間違いなくデジモンであるのだが、補食しようとする素振りは見せない。

「…………あなたも最初はこうだったのよ」
「……」
「覚えて、ないと思うけど……」
「……」
「……この人は……この人も、あなたみたいになれるのかしら。少しでも元気に……」

 男は答えなかった。カノンは、黒い水溜まりに足を踏み入れた。
 粘りけのある水が跳ねる。もう一歩、前に出る。ベルゼブモンはただ見つめている。
 ゆっくりと、女に近付いていく。

「……──あの」

 少し距離をとった状態で、声をかける。
 女が顔を上げた。ぐるりと首を回して、声の出所を探していた。


「──あら?」


 綺麗な声がした。

「誰かしら?」

 カノンの姿には気付いていない。目が、見えていないのだろうか。
 それよりも──思った以上に、きちんとした返事があったことに驚いた。

「……勝手に……お邪魔して、ごめんなさい」
「誰かしら?」
「私は……」
「誰? 誰? あら、あら、誰」
「……あの……」
「だれ、だれ、だれ、だれ」
「…………」

「誰!!!!!!!」

 叫ぶ。

「うううぅぅぅぅぅうぅ」
「…………私の、名前は」
「ぅぅぅうわわわわわわたし、こ、どもたち、わたし、わたしの」
「……。……あなたは、『女王様』……ですか」
「わたしのこども、たち、どこに、いるの」
「……子供?」
「み、みつけ、て、くれた?」
「…………いいえ」
「わたしわたしわたしの……わたしがつくった、おしろ、こどもたちは、どこ」
「……」
「……あ……ああ、お、もい、だした、──た、たべた、たべたわ、たべる、たべ、たったべ、たべな、いと、もっと、たべ」

 ────やっぱり、こうなるのか。
 彼女もきっと、空腹に囚われているのだ。ベルゼブモンのように。

「……どうして……」
「違う!! わたしは食べてないわたしはたべてないたくさんたべたの」
「あなたも、ベルゼブモンも……ねえ、何に食べられるって、いうの」
「せっかく! ここまで! つくった! おぉ、おしろ、こどもたち、わたしの、りょうち……ど、どうして、どうして、わたし、ぜんぶ、たべた、の」
「……どうして、そんなことに……」
「……ちがう」
「……」
「わたしは、わるくない……」
「…………ええ。そうね。……そうね……」

 出会った時のベルゼブモンとは、あまりにも異なる状態。
 少女は、女との意思の疎通は図れないと悟る。

「ぅうぅぅぁぅ」

 女は額を床に擦りつけている。

 カノンは女の傍に寄る。女は気付かない。危害を加える様子もない。
 すぐ目の前まで来て、しゃがむ。女を見つめる。女は泣いていた。唸っていた。カノンは、自身の膝に顔をうずめた。

「こ、こんな、はず、じゃな、ななか、ったの」
「……わかってます」
「わたしはわ、たし、いつか、ぜんぶのじょおう、に、なるはずだっだのに! なんで! わだじ! ぜんぶ! だべでるの?」
「……あなたも、ベルゼブモンも……きっと、何も悪くないから……」
「…………ぢがう……だべでない……わだじ……わだじがだべだんじゃない……」
「……」

 嘆きは懺悔のように思えた。
 もう、取り返しがつかない事態への。毒に侵された自身が犯した現実への。二度と戻らない日常への。

「…………わかってます……」

 そう成らないと、生きていけなかった事も。
 本当はそれを望んでいたわけではなかった事も。
 けれど──それでも「生きたい」と、思ったのだという事も。

 わかっている。……つもりでいる。
 列車の中で見たベルゼブモンの表情が、嘆きが、女のそれとまた重なった。だから分かったつもりになった。そうでもしないと寄り添う事すらできない。ただの人間の少女には、それが精一杯だったのだから。

 ベルゼブモンは何も言わない。近付く素振りも見せない。

「……ねえ、ベルゼブモン」

 女の泣き声が響く。

「あなたは、いつまで仲間を食べないといけないの」
「……」
「あなた達は……いつまでこんな思い、しなきゃいけないの」
「……」
「……私は……私に、何ができるか、わからないの」
「……」
「ずっと、わからないの……」
「…………俺達は」

 女の呻き声が響く。

「生きているのが、終わるまで」
「……、……ご飯って、本当はもっと、楽しいことのはずなのに」
「……お前は……ほとんど、食べない」
「食べるわ。本当は毎日ちゃんと、一日に三回も。他の命を食べて生きているわ。私がただ……もう、おかしくなってるだけで」

 女の懺悔が響く。

「おかしく……なっている、のか」
「……そう、思うわ」
「……それは……俺達、と、似ている」
「…………そうね」

「お前が、言った……これと、同じ──」

 顔を上げると──ベルゼブモンが自身のスカーフに触れていた。カノンは泣き出したい気持ちになった。

「……ええ……きっと、おそろい……」

 また、顔をうずめる。
 腕と髪の隙間から女を見つめる。女は、両手で顔を覆って泣いている。

「…………この女の人も、食べるの?」
「……」

 女の声に混ざり、水が跳ねる音がした。
 音は段々大きくなって、やがてカノンの近くで消える。カノンは、顔を上げなかった。

 女の笑い声が響く。

「────これは」

 女の叫び声が響く。

「これは、喰わない」

 銃声が響いた。


 女の声が消えた。



◆  ◆  ◆



 硝煙のにおいがする。

 カノンは顔をうずめたまま、動こうとしない。
 ベルゼブモンは、女が光を帯びて消えていくのを、黙って最後まで見つめていた。

 周囲には黒い水溜まりだけが残っている。

「──食べないなら、どうして撃ったの」

 今までこんな事しなかったのに。
 食べる為、生きる為にしか、銃を構えなかったのに。
 
「もう、喰えない」

 食べないのではなく、食べられないのだと。

「どうして、食べられないの」
「……もう……溶けて、終わる。……からだ」
「……」

 カノンは顔を上げた。女がいた場所に咲く、黒い水溜まりを眺める。

「────あなた達、最期は溶けて消えるのね」

 飢えと捕食を繰り返して、生きようともがいても。
 それでも最期は、自身の内から溢れる液体に溶けて、消えていくのか。

 ベルゼブモンはきっと、その事を「喰われる」と称したのだろう。

 捕食の間の記憶は酷く曖昧だと男は語った。けれどそれが、毒に侵された全てのデジモンに共通するとは言い切れない。
 彼女はどうだったのだろうと、少女は詮索する。女の言葉を思い返して──もしも “最中”に自我があったのなら、それはなんて悲惨だろうと思った。

「……この人は、──」

 泣く姿が、こびりつく。

「お前は」

 ベルゼブモンはカノンのすぐ側で、ぼんやりとそれを眺めている。 

「……俺達に、何を思う」
「……」

 そんな問いかけを、されるとは思わなかった。

「……私は、……何て思ったらいいのかも、わからない。でも……あなたには、生きていて欲しい」
「……」
「色んなもの、食べられるようになって。元気になって……。……それで、いつか」

 未来の事を考えて、描こうとして、答えを出せなかった。

 カノンは座り込んだまま、足元に落ちていた瓦礫を拾う。硝子の破片を拾う。先程まで女がいた、黒い水溜まりの中に置いた。
 ひとつ。またひとつ。拾っては並べていく。女がここに居た証を、何かの形で残したかった。

 石や硝子の破片はやがて、歪な十字の形を描いた。

「……あの人、もう、泣いてないかしら」
「……」
「もう、食べなくていいのかしら」
「……」
「あの人は……」
「あれは、もう無い」
「…………そうね」
「……お前は、……何を、している」

 手を止める。

「生き残った人の為に」

 また並べようとして、もう周囲には、何も残っていと気付く。

「この人がここに居たんだって、目で見てわかるように」
「……」
「どうか……この人が、安らかでありますようにって。勝手に祈るの」

 ステンドグラス越しの光が、石と硝子の墓石を柔らかに照らす。
 赤に、青に、黄色に、鮮やかに色を混ぜながら。

「……──俺が、溶けた時は」
「……」
「俺にも、作るのか」
「……生きていて欲しいって、言ったばかりよ」
「…………気が、向いたらで……構わない」

 そんなこと、言わないで欲しかったのに。
 どうして今日は、こんなにもよく喋るのか。

「……。……そうしたら……景色が良くて、空も綺麗で……そんな場所に作って」
「……ああ」
「あなたには、あまり似合わないような……可愛い花を飾ってあげるわ」

「────」

 花。

「…………は、な」

 聞き覚えがある、言葉だった。

「……ああ……」

 遠い曇り空。
 廃棄物の山。
 モノクロームの夢。
 ノイズ混ざりの記憶。
 片手で頭を押さえる。誰かの声が聞こえる。

 ───“本で見たことがあるよ。あれは────”

「……『花』……」
「でも……こんな世界に、花なんてきっと咲いてない。だから」
「……──は……な……」
「え?」
「……は、花、……とい、う……も、のは、────ぃ、生き、て……いる……ら、しぃ……」

 頭の中が、掻き乱される。
 息が荒くなる。目の焦点がずれていく。背を丸めて、膝をついて、両手で頭部を掻き毟った。

 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。

「……白、い……」

 瓦礫に登る自分。それを呼び止める声。聞き覚えの無い名前で呼ばれる。
 振り切る自分。目の前の「それ」に、手を伸ばして。

「──痛……っ」

 気付けば、目の前の白い腕を掴んでいた。
 顔を上げる。少女の表情は痛みに歪んでいた。

「……ぁ……──か……のん」
「腕……お願い離して。痛い……」
「ぉ、お、俺は、……お前を、食べ、ない……」
「……わかってる。それは、わかってるの」

 ベルゼブモンは手を離した。細い腕に赤い痕が残った。大きな手は、震えていた。

「…………俺、は……。俺、俺も」
「……」
「……俺は……、俺は、俺は、俺はただ白い、俺は、ただ取り、たくて」
「ベルゼブモン」

 名前を呼んだ。少女が、震える男の手を握った。

「大丈夫よ」
「────」

 ──少女の白い肌にあてられた、自身の手に嫌気が差す。
 ステンドグラス越しの光が当たっても、彼の目に色は映らない。黒くて、暗くて、自身が吐き出す液体と同じ色をしていた。

 どうして自分は、こう成ってしまったのだろう。
 思い出せない。彼はもう、彼を思い出す事ができない。

 かつて自身を呼んだ誰かの声も。
 廃棄物の山で掴もうとした白い花も。
 その後、自身が喰い散らかした誰かのことも。
 もう、思い出せない。ひどく歪んで、壊れてしまった。

 彼が取り戻せる記憶は────地下でひとり、溶けていくのを待っていた、あの日々から。
 寒くて、暗くて、深い穴の底。
 泥の臭いがした。血の臭いがした。
 崩れたデータの欠片たちが、瓦礫の中に混ざっていた。

 そしてあの時は──何よりも、空腹で。

「…………」

 ベルゼブモンは思い出す。少女の肌に触れながら、思い出していく。
 
 ────ああ、それから。
 外に出た。歩くことができた。食べることができた。生きていられた。──今もまだ、生きている。

 この、あたたかさに触れたから。
 この生き物が、自分を連れ出してくれたから。

「……──カノン」
「……なあに、ベルゼブモン」
「お前は……、……あたたかい」
「……当たり前だわ。生きてるんだもの」

 だから、男の手だってあたたかいのだ。

「……外に出ましょう。此処には、毒が多すぎるから」

 カノンは手を放し、立ち上がる。
 歪な十字に目を伏せて、礼拝堂を後にする。

 ベルゼブモンも後を追った。──途中で足を止める。

 目線を落とす。足元に落ちている何かの欠片。
 男はそれを、少女が作った十字架の上に添えた。

「お前は────もう、食べなくていい」

 そして。
 静かになった礼拝堂には、小さな墓標だけが残された。
 きらきらと、光に照らされ、煌めいて。




◆  ◆  ◆





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