◆ ◆ ◆
礼拝堂を出ると、壁沿いに小さな扉を見つけた。
念の為に、調べてみる事にする。ベルゼブモンが中に誰もいないことを確認すると、二人は扉の中へ入った。
そこは女王の私室のようだった。他の部屋より一層華やかで、装飾も気品があって、とても可愛らしい部屋──。
────だったのだろう。
天井の美しい彫刻には黒い液体が飛び散っている。
シャンデリアは粉々に砕け落ちている。
アクセサリーを成していたであろう宝石が散らばっている。化粧品のような小瓶が散乱している。誰もが目を輝かせそうな、インテリアグッズが割れている。
──デジモンらしい生き物のぬいぐるみが落ちている。カノンはそれを拾って、埃をはたいて、明かりが入る窓際に置いた。
「……何かあるわ」
女が吐いた液体で染まった、天蓋付きの豪奢なベッド。
その枕元に、ノートのような文具が置かれている。
印刷されたものではなく、おそらくはインクで書かれた手記。所々はインクが滲んで読めなくなっている。
それ以前に、記された文字列は知らない言語だった。幾何学模様のようなそれは、少女には読むどころか、憶測さえ出来ない。
「……見せて、みろ」
「あなた、読めるの?」
「……形、だけは……覚えて、いる」
ベルゼブモンは記憶を失っている──が、あくまでエピソード記憶の範疇でだ。
女のデジモンがあの状態で言葉を発したように、本能に準ずる行動や言語などの意味記憶は残されている。
「……読む、か?」
「お願い。……でも少し待って。メモを取りたいの」
ひとつひとつの文字も、並べて見れば文と成る。そうして初めて、手記の内容を理解することができるだろう。
幸い、何枚か紙を見つけた。ペンは殆ど折れていたが、デッサン用の太い鉛筆があった。三分割ほどされていたが、先端部は使えそうだ。
「いいわ。始めて」
「……これは……『わ』だ」
「……」
「次が、『た』だ。次が……」
「ベルゼブモン。……ひとつずつじゃなくて、続けて言ってくれると嬉しいのだけど……」
「……そうか」
気を取り直して、女が遺した手記を読み解く。
ベルゼブモンは、文字の羅列を発音していった。
◆ ◆ ◆
以下、少女がまとめた手記の内容である。
◆ ◆ ◆
『──私達は、人間という生き物の可能性を信じている。
いずれ訪れる厄災から、我々を救う鍵となるのだと。
■月八日。
フェレ■■ンとの人間の研究が、遂に始まること■なっ■。私達が生き残る為の■■■可能性だ。
■月九日
リアルワールドから人間を調達しなくては。ゲート接続には、かつて■ェレスモンが■った神聖の■を■■■する事になった。
しかし彼は近い未来、大規模■ゲート開放を計画■ているら■■。元が神聖とは言え可能なのだろうか?
■月十六日。
■■の準備が整った。しかしゲート越えの影響が未知数■ある。
成長期と成熟期、四体ずつ部下を送る事にした。
■月■八日。
部下が帰還した。成長期はゲート越え■全滅■■い■。今後は成熟期以上■■調達が妥当だ■う。
用意した人間の年齢は、六、■、■、十、十二、十九。
六と十九では身体構造が大きく異なる。実に不思議だ。回路の保有数に違いは■るのだろうか。
■月■日。
人間の飼育はフェレ■モンの■で行う事になった。一日二回、全員に同量の水とパンを与える。(直接触れぬよう、必ず遮蔽■■を用いる)
■月■日。
接触実験を開始。
■月十■■日。
実験終了。生存したサンプルに限り、リアルワールドへ送り返す。
■月二■日。
新たに人間を調達。年齢は十、■、十八、二十五。
回路の保有数を確認し■後、実験を開始。
■月■■日。
実験終了。
回路■保有数に関■る考察。
六は回路が生成途中で未発達。
十八、十九は回路の数が減少、二十五では完全に消滅していた。
保有数が最も大きいサンプルは■■、■が■■に続いた。(もっと人間を集めて再実験する必要がある!)
接触実験について。
人間の皮膚と接する時間が長いほど励起効率が良い。
デヴァイスでも■■■可能だが、生身の皮膚の方が■■■■。
皮膚および回路のみを摘出■直接デジモンに接触させた。前者では効率が低く、後者では高く得られた。(残念ながら、摘出実験は■■への負担が大きく中止となった)
しかし、人間によるデジモンの強化、■■がどう厄災への対策になるというのか。何度も検討したが、良い答えは見つからない。研究を継続す■必要が■■。
(ページが黒く塗りつぶされている)
■■月■日。
毒に汚染された一体をコンテナに収容、■■■で捕獲。この城で飼育していた唯一の人間で実験を試みる。
■■レス■ンと連絡が取れない為、結果は事後報告とする。
■■月■■日。
フェレスモンと連絡が取れない。
■■月■■■■。
毒で変異したデータが■に変質していた。大きな発見だ。
フェレスモンにメッセージを送った。返事は来るだろうか。それとも既に■んだのだろうか。
サンプルは汚染個体に食われてしまった。可哀想なことをした。
次は私達の番だ 』
◆ ◆ ◆
手記はここで終わっていた。
◆ ◆ ◆
この世界では一体、何が起きているというのだろう。
少女は思わずメモを握り締める。
息が止まって、けれど鼓動は早くなって。
ああ、神様。お願いだからこれが、どうか作り話でありますように。
「…………」
でも、現実だ。現実に起こった事なのだ。
ベルゼブモンにとってのデジモンが補食対象であるように。
デジモンにとっての人間は「何か」の為の手段で、道具で。
人知れずに攫われて、使われて、ある者は命を落として。
そしてそれは──悪意で行われたものとは限らない。仲間を思うが故かもしれない。
だってあの女性は、泣いていた彼女は、きっと優しかったのだろうから。
けれどそれが、少女にはとても恐ろしかった。
「──おい」
ひどく怯えた様子の少女に、ベルゼブモンは声をかける。
それから、くしゃくしゃになったメモ用紙を奪い、ジャケットの中にしまった。
毒に焼かれた思考ではあるが──手記の内容は、彼にもある程度理解ができた。
少女が『人間』であるというだけで、デジモンから狙われる可能性がある事も。
「……私は……こんなことが、知りたかったんじゃ、ないのに」
デジモンの事。この世界の事。ベルゼブモンの事。毒の事。他にもたくさん、色々な事。あんなに知りたかった筈なのに。
蓋を開ければこの様だ。──今なら、自分がこの世界に連れて来られた理由が分かる気がする。
逃げなければと思った。ピヨモンの様に隠れなければとも。
──ああ、自分を攫った赤い悪魔の、下卑た声を思い出した。
思い出して、思い詰めて、震える白い手。今度は、男がそれを掴んだ。
「……ベルゼブモン」
「……これで……落ち着くと、言った。お前は……」
痛くは無かった。あたたかさの中に、小さな刺激感が走っていた。
──この刺激感が持つ意味を、二人は知らない。接触という行為がもたらす影響も。
だからこそ余計に、手記の内容が、真意が理解できなかった。
「……俺が、……また、戻って……全部が、わからなくなっても……」
手を握る力を、少しだけ強める。
「離れるな。カノン」
「……──ありがとう」
カノンは手を握り返す。
そう言ってもらえた事が嬉しくて、どこか切なくて。
最早、彼の存在だけが望みだと、縋るような思いで。
「……」
男は目を閉じた。
視界が黒くなる。不思議と恐怖は無くなっていた。
少女の透明な温もりだけが、彼の世界に広がっている。
────もし、自分が自分でなくなってしまったとしても。
自我を忘れ、記憶が隠され、また捕食するだけの存在に成ったとしても。
いずれは溶け逝くだけの未来だったとしても。
「……絶対に……」
この温もりを守る事だけは忘れるな。
ベルゼブモンは、そう自分に言い聞かせた。
◆ ◆ ◆
第十九話 終
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