ガラス戸を失った窓から、差し込む夕陽がやけに眩しい。
空は濁った橙赤色。その果ては藍色に染まりかけている。
光の道の先に辿り着いた場所。……此処は何処だろう。コロナモンは目だけを動かし辺りを探る。
暗くて広い石造りの部屋。長い間使われていないのか、酷く埃の匂いがした。
──自分とは少し離れた所では、ガルルモンがうつ伏せになって倒れている。
「……ガルルモン」
呼びかけても返事は無く、苦しそうな呼吸音だけが聞こえてきた。
どこか、痛むのだろうか。ガルルモンの傍へ行こうと身体を動かす。
その瞬間。激しい痛みの雨が、コロナモンの全身を貫いた。
*The End of Prayers*
第二話
「廃墟での遭遇」
◆ ◆ ◆
連日降り続いていた雨が止み、その日は昼過ぎから良い天気になった。
なかなか外で遊べず憂鬱だった子供達は、放課後になると一斉に校庭へ飛び出していく。
ランドセルを放り、掃除道具を放り、教室や体育館の遊びでは物足りないと言わんばかりに、乾ききっていない地面を駆け回る。
矢車蒼太も、そんな子供達の一人だった。
いつもよりも早く掃除を終わらせると、ランドセルを片手に廊下へ駆け出す。ふと、階段の踊り場で足を止めた。窓から顔を出し、晴れた空と校庭を見渡す。
校外へ走っていく二人の生徒が目に留まった。女子生徒が男子生徒を追いかけているようだ。男子が誰かは分からなかったが──女子は足の速さから察するに、自分の幼馴染みだろう。
男子生徒はあっという間に追いつかれ、職員室の方へ連れて行かれる。おおかた彼が悪い事でもしたのだろうと思いながら、蒼太は階段を下りて行った。
校庭で友人達と久しぶりのサッカーを楽しむ。──その途中、蒼太は校門付近に再び幼馴染の姿を見つけた。赤紫のランドセルを揺らして急ぐ彼女の隣には、背中ががらんと空いた女子生徒の姿があった。
下校するのにどうしてランドセルを背負っていないのだろう。そう不思議に思ったが──友人からの呼び声に、蒼太の意識はすぐボールへと戻って行った。
◆ ◆ ◆
校門が閉められるギリギリの時間まで遊び尽くし、泥まみれの靴で帰路に着く。
友人と別れ、自宅がある住宅街の一画へ。──自宅の前で見知った顔が待っており、蒼太は思わず「あ」と声を上げた。
「花那。こんなとこで何してるの?」
呼びかけられた幼馴染み──村崎花那が振り返る。
「蒼太に話があって来たんだけど、誰もいないみたいだったから」
「ああ、今日ふたりとも仕事なんだった。連絡くれればよかったのに」
「だって蒼太、あんまケータイ見ないじゃん」
夕方とは言え、今の時期は陽も高いし気温も高い。急いで鍵を取り出し、花那と共に自宅へ入る。……家の中は閉め切っていた分、外よりもずっと蒸し暑かった。
「それで、話って?」
冷房が効いてくる頃。麦茶で喉を潤しながら、蒼太が切り出した。
「実はね、一緒に探して欲しいものがあって」
「探し物? 別にいいけど……何探すの?」
「……それが……ランドセル、なんだけど……」
それを聞いた蒼太の表情が固まる。
「……ランドセル?」
「そう。ランドセル」
「え、何。なくしたの? あんなものを!? 今日もってたのに!?」
「まさか! なくしたんじゃなくて、取られちゃったの。……手鞠のが」
「…………あー」
呟くように言われた名前を聞いて、蒼太はある程度、事の経緯を理解した。
手鞠というのは花那のクラスメイトである。蒼太は彼女とあまり接点はない──が、彼女がクラスの男子生徒から、よくいじめられているという話は知っていた。
「……ちなみに誰が」
「安永。と、今森」
「え、今森って俺のクラスじゃん。掃除サボってると思ったら……」
「安永がね、クラス内だと女子の守りがあってやりづらいからって、今森にやるよう頼んだんだって。……掃除から戻ったら、手鞠のランドセルとリコーダーと給食袋が……」
「……そんな沢山、よく盗む時にバレなかったね」
「今森はさ、盗んでそのまま隠しに行っちゃったから捕まえられなかったんだけど……。ていうか聞いてよ! わざわざ隠しに行く為に自転車用意してたんだよアイツ! ……で、とりあえず安永だけ捕まえて、今森が行った場所を聞き出したって感じで」
「じゃあ放課後に追っかけてたの、安永だったんだ。ほら、校庭で……」
「なんだ、見てたの? そうそう」
花那は大きくため息をついた。
「その、当の宮古はどうしたのさ」
「リコーダーと給食袋を見つけたから、とりあえず帰ったよ」
「帰った!?」
「だって、門限すごく厳しいんだよ。手鞠の家」
「……PTAの人だっけ、お母さん」
「そう。厳しくて過保護! 塾とかもあるんだって。大変だよねー」
「過保護って……そんなの、ランドセル無しで帰ったら『どうしたの!』って怒られんじゃないの?」
「私のランドセル貸してあげたから大丈夫! そっちは通学路の公園にあったから、門限にもなんとか間に合ったの。ヒヤヒヤしたけどね」
「……そっか。宮古が外に出られないから、花那がランドセル探すことになったんだな。……ちなみに場所は?」
「えっ」
「ランドセルの。……あれ、場所わかってるんじゃないの?」
「……う、うん。わかってる、んだけど」
花那は苦い顔をしながら顔を逸らす。
「その、場所っていうのがね……」
小さな声で言われた場所。彼女が何故、蒼太に助けを求めたのか──彼はすぐに察しがついた。
◆ ◆ ◆
通学路とは反対の道をしばらく歩くと、その雑居ビルは見えてくる。
鉄骨造りの四階建て。小さなアパートと駐車場との間に建つビルは、もう長いこと使われていない。取り壊されないまま放置され、すっかり廃墟と化してしまった。
裏口扉には鍵がかかっておらず、立ち入るのは容易な状態だ。しかし不思議と、不良も浮浪者も訪れない。蒼太や花那の小学校では「おばけビル」と呼ばれている。
「……嫌だなあ。絶対暗いよ、この中」
花那は裏口の前で立ち止まる。
「花那、暗い場所とかおばけとか、大嫌いだもんね」
「ほんっと信じらんない。こんな所に隠すなんてさ! ……最初はママについて来てもらおうかと思ったけど、ママも怖いの苦手だし。パパ仕事だし」
「そして俺はお化け屋敷とか平気だし」
「だからもう、蒼太しかいないと思って」
蒼太はウエストポーチから懐中電灯を二本取り出し、一つを花那に渡す。
東の空は橙色から青紫色に変わりつつあった。夕方の今でさえ、ビルの中はほぼ真っ暗であることは外からでも見てわかった。空が暗くなっていくにつれ、探索の危険度は増す。
早く行こう、そう花那を促したが、花那は懐中電灯をじっと見つめたまま動かない。
「花那。早くしないと夜になっちゃうよ」
「……ねえ蒼太」
花那は滑りの悪い機械のようにゆっくりと顔を蒼太に向け、「私、やっぱり入りたくない……」と今更なことを口にした。
「……俺だけで行ってこようか?」
「だ、だめ、だめ。頼んだのは私だもん。ちゃんと行く。それに、こんな場所で一人待つのも嫌だし」
「なら、ほら、行こう。真っ暗になったら危ないし、もっと怖くなるよ」
「あああ待って! 今でも怖いんだよ……」
ドアノブに手をかける蒼太の服を、慌てて掴む。
おばけが出たらどうしよう……なんて思いながら、花那は今から忍び込む廃墟を見上げ、
「……? !? って、ぎゃーッ!!」
思い切り叫び声を上げた。
「ば、ばか! いきなりでかい声出すなよ!」
「そそっ……蒼太、あれ! おばけ……!」
「は!?」
花那は顔面蒼白だ。蒼太の背中にしがみつき、しきりにどこかを指差している。
蒼太は半ば呆れがちにその方向を見た。
「怖がりすぎだって。何かの見間違いに……」
廃墟の四階。
右端に位置する部屋が、電気をつけたように明るく光っている。
「ね! ね! いるでしょ!? ホントにいるでしょ!?」
「……ここ、電気なんか通ってないのに……」
眺めていると、光は徐々に小さくなり消えてしまった。
「……あれ、消えた」
「でも、でも、まだ中にいるかもしれないよ」
「お化け?」
「きっとここで死んじゃった人とかが……」
「誰か死んじゃったったって話は聞いたことないけど……何だろう、あれ」
消え方も電気のそれとは違うと、蒼太はすぐにわかった。
「……と、とにかく行こうよ。……その、あの部屋は最後でいいからさ」
何が光ったんだろう。その正体が何か、蒼太は気になって仕方がなかった。花那の手を掴み、懐中電灯をつける。
「や、や、やだ。やだーっ。は、入るけど……」
花那は涙目になりながら蒼太の腕を掴む。
「ひ、一人にしないで! 絶対に! 死ぬから!」
「わ、わかったよ。大丈夫だから……」
蒼太はドアノブを回し、扉を押し開ける。重い扉の隙間から、埃くさい熱気が漏れ出した。
◆ ◆ ◆
一階は広いロビーだ。思っていたよりもずっと暗い。
動かないエレベーターと階段、テナント募集と書かれた貼り紙が目に入る。
「どこの部屋に隠したかは知ってるの?」
「……ううん」
「じゃあ、順番に見ていこう」
懐中電灯で床を照らして回る。一通り見て回り、この階には無いと判断すると、そのまま階段で二階へと上がった。
ここに窓がある為か、二階は一階よりも明るかった。蒼太は通路に懐中電灯を向ける。真っ直ぐに伸びた一本の長い廊下、その右側に部屋が二つ。
部屋の数は階によって差異があっても、大まかな構造は同じだろう。
花那は怖くなったのか、蒼太の背中にしがみついた。
「歩きづらいよ」
「……承知の上です……」
「……なんか昔、一緒にお化け屋敷に行った時みたいだなあ」
背中に感じる物理的な重さに苦笑しながら、蒼太はそのまま進んで行った。
手前の部屋に入る。扉はガラス戸だったが、一面に茶色い紙が貼られており、中を見ることはできない。
開けて、入ってみる。部屋は広く、家具は当然何もない。窓には入口と同様、紙が雑に貼られていた。
部屋を照らして見回る。……が、どうやらこの部屋にも無いようだった。
廊下に出て、次の部屋へ。
──ここも同じ。似たような部屋の中に、ランドセルは見つからない。三階へと移動する。
「……ねえ、蒼太。何か聞こえない?」
「え? ……別に、聞こえないよ。気のせいじゃないの?」
「そ、そうかな。……そうだよね」
三階も二部屋。順に見て回る。相変わらず、部屋にはゴミと埃しか見られなかった。
奥の部屋から戻ろうとした時、「ねえ」と花那が蒼太の服を引っ張った。
「や、やっぱり何か聞こえるって……! う、上の方から……」
「上から?」
花那は何度も頷く。
「わっ、私に聞こえて、蒼太に聞こえないとか、ありえないもん絶対」
どれどれ、と蒼太は耳を澄ます。──すると花那の言う通り、微かに何かが聞こえてきた。何の音だろうか。
上ということは、四階だ。そしてこの部屋の上は……
「……あの部屋だ」
花那が目を見開き、階段へ戻ろうとする蒼太の服を勢いよく引っ張って引き止めた。
「うわっ」
「ま、待って、待って待って」
「あ、ごめん……怖いんだよね」
「……えっと……その、ゆっくり、慎重に」
言われた通り、ゆっくりと階段まで戻り、四階へ上がる。時間が経ったせいか、先程よりもずっと暗く感じられた。
階段を昇り切って廊下に出る。すると突然、聞こえてくる音が鮮明になった。
何かの声のようだった。
何かが呻いているような、そんな声だった。
花那は小さく悲鳴を上げて、蒼太の背にしがみついた。これまで平然としていた蒼太も、今度ばかりは息を呑んだ。
それは通路の奥から聞こえてきて──出所は間違いなく、あの不思議な光が見えた部屋だ。
一体何の音なのか。本当に誰かの声なのか。声だとすれば、誰のものなのか。
人間じゃないかもしれない。動物だろうか。蒼太は緊張に手を震わせながら、真っ直ぐに廊下の闇を見つめる。
「……よし」
怖くないと言えば、嘘になる。しかし恐怖心は、声の正体を見てみたいという好奇心によって潰されていた。
行こう、と蒼太は花那を促そうとした。……だが、完全に怯えきってしまった彼女の顔からは、血の気やら生気やらが消え失せてしまっている。
「だ、大丈夫……?」
「…………っ」
こんな状態の花那を、これ以上連れていく訳にはいかない。蒼太は少しの間考え、やはり自分だけで行くしかないだろうと結論を出した。
「花那、ここで待ってなよ。俺だけで行ってくるから」
「…………うん」
花那は一人で待つことに反対することもなく、ゆっくりと蒼太から手を離し、その場にしゃがみこんだ。
「……ご、ごめん……」
泣きそうな声で呟くように謝罪をして、大きく息を吐く。蒼太は「すぐに戻るよ」と言い残して、一人で歩いて行った。
四階に上がるとすぐに、屋上に続いているであろう階段が目に入った。
太い鎖が何重にも巻かれており、先に進めないようになっている。──つまりランドセルは屋上ではなく、あるとすればこの四階。
そして────あろうことか、四階の間取りは一部屋のみだったのだ。あの謎の光が見えた部屋こそ、ランドセルの隠し場所なのだ。
「……マジかよ」
左右には壁が続いている。廊下の奥まで進まないと出入口は無いらしい。
──声は次第に大きくなっていく。やがて、懐中電灯の明かりが廊下の突き当たりを照らした。光源を左右に動かすと、扉らしきものが姿を見せた。
扉は他の部屋に比べて大きい。白い紙のようなものが、びっしりと貼られたガラス扉。
恐怖心と好奇心が渦巻く中、蒼太は恐る恐る、取っ手を掴む。
暗い廊下に、薄明かりが差し込んだ。
◆ ◆ ◆
────泥のにおいがする。
黒い水じゃない。ただの、泥のにおい。
俺たちが暮らしていた穴ぐらに、よく似ているにおいだ。
どうして、突然。
重くて痛い体を動かして、なんとか顔を上げる。
目を開けた。視界は暗くて、ぼやけていた。
……何かが。
……誰か、いるのか?
誰かいるならお願いだ。ガルルモンを助けてくれ。俺と違って、あいつは動けもしないんだ。
乞うように、手を伸ばした。
誰かが、その手を掴んだ。
────全身を、電気が流れるような衝撃が走った。
◆ ◆ ◆
花那は蒼太が戻って来るのを、固く目を閉じながら待っていた。
(……まだ、歩いてる……)
謎の声は聞くのは心の底から嫌だったが、蒼太の無事を確認したいと必死に耳を澄ませていた。
蒼太の足音が遠くなり、扉を開く音が聞こえてくる。思わず身を震わせた。
あの、声のようなものが聞こえてくるのが怖くて、耳を塞ぐ。落ち着こうと何度も深呼吸した。だけど蒼太は自分の代わりに頑張っているのだから、逃げ出したくても我慢しないと。
そうだ、と花那は思いつく。もっと根本的なことから考え直すことにしよう。あの部屋には──そう、怖いものなんていない。お化けとかそんなの絶対いない。きっと虫とか、犬とか、猫とか、そういうものに決まっている。
「……──な」
そうだったらいいな。それなら怖くない。
でも、もし捨て犬とかだったらどうしよう。放って帰るのは可哀想だし、飼うか、里親を見つけないと……。
「──花那!!」
「ひっ!?」
蒼太の大声が廊下中に響き渡った。花那は驚きのあまり飛び上がり、懐中電灯を放り投げんばかりの勢いで通路に向けた。
「そっそそそっ蒼太!? 何!? ねえ何!?」
「花那! すぐ来て!! 大変なんだよ!」
「な……な!?」
一体何があったのか。こんなに狼狽えた幼馴染みの声を、花那は今まで聞いたことがない。
「花那! 早く!」
「ま、待って! 今……」
震える足をなんとか動かし、よたよたと通路を進む。懐中電灯が開かれた扉を照らした。
恐る恐る近づき、部屋の中に明かりを向けると──
「──え……!?」
照らされた蒼太の姿を見て、また、声を上げる。
それは恐怖からではなく、驚愕によるものだった。
不安と焦り、そして困惑を混ぜたような蒼太の顔。
彼はその腕の中に────見たことのない、不思議な動物を抱えていた。
◆ ◆ ◆
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