◆ ◆ ◆
「そっ、それ、何!? 何の動物!?」
「わからない……。でも、さっきの声はこいつのだったんだ」
蒼太に抱かれた、謎の──赤い毛並みと金色の胸毛を持った、幼児ほどの大きさの獣。
眠るように目を閉じながら、蒼太の手を握りしめている。
「ドアのとこ、倒れてて……。部屋から出ようとしてたのかな……」
「……こんな動物、私、図鑑でも見たことないよ」
「俺もだよ。なんでこんな所にいるかわからないけど、とりあえず何とかしないと……! あんな大きな声でうなされてたんだ。きっとどこか悪いんだよ」
「怪我してるのかな……それか病気とか……!? 待ってて、うちの犬が通ってた動物病院の連絡先、調べるから──」
言いかけて顔を上げた、花那の表情が固まった。つられて蒼太も目を向け────驚愕に言葉を失う。
先程まで、よく見えなかった部屋の隅。そこには、狼の様な動物がうつ伏せて倒れていた。こちらも初めて見る生き物だ。狼にしては、あまりに大きい。
生きているのか死んでいるのか、わからない。そんな狼“もどき”に、花那が心配そうに駆け寄った。
「そ、そいつは……どう? 大丈夫!?」
「息はしてるけど、でも、凄く苦しそうで……。どうしよう、その子よりずっと酷い……!」
花那は心配そうに狼の背中に手を触れた────瞬間。声を上げ、咄嗟に手を離す。
「花那!? どうしたの!?」
「び、びっくりした……! こんな時期に静電気とか何……!?」
「静電気……?」
小さな獣に目線を落とす。──部屋に入った時、自分に向けて伸ばされていた手。掴んだ瞬間、その手から強い静電気のような衝撃が走った事を思い出す。
その時は驚いて手を離したが、慌てて獣を体ごと抱え上げた。触れた瞬間、今度は少しだけ弱い静電気が走った。
──苦しそうに呻いていた獣が、徐々に呼吸を落ち着かせていったのだ。
「……」
触れている部分には、今でもピリピリとした感触が走る。何故だろう。触れただけで、何かが起こるわけもないだろうに。
花那は心配そうに狼の背中を何度も撫で続けている。しばらくその様子をじっと見つめ──蒼太はやがて、狼の変化を目の当たりにした。
あんなに苦しそうだった狼の表情は、次第に落ち着いたものになり──荒かった呼吸も安定していく。そのことに、少し遅れて花那も気付いた。
「……あれ? この子、さっきより……」
「は、離さないで、続けてやって!」
「え、え? なんで?」
「もしかしたら、触ってるのが良いのかも……」
「……この子が治るってこと? そんなことあるわけないよ! 病院に連絡……」
「俺だってワケわかんないけど……でも、そんな気がするんだ! この小さいのだって、俺が触ったら落ち着いたんだ! そいつだって今、花那が……」
その時。
「…………う、」
蒼太の腕の中の獣が、もぞもぞと動き出す。
まるで眠りから覚めるように、うっすらと目蓋を開けた。
大きく開かれた蒼太の瞳と、獣のエメラルド色の瞳が合う。
赤毛の獣は驚いたような顔で蒼太を見つめている。蒼太は何も言えず、ただ見つめ返す。
「……──に」
獣はやがて、その瞳を蒼太以上に大きく開き、
「──人間……」
感動の再会を果たした様な顔で、そう言った。
「人間……! 人間だ! リアルワールドに来れたんだ……!」
────人間の言葉。
よく、動物番組やインターネットで、人語に近い鳴き声を出す動物が取り上げられることがある。──だがこれは、そんなレベルの話ではない。
空耳でも真似でもない。明瞭な発声と発音。コミュニケーションの手段として言語を用いている。霊長類ですらない、謎の生き物が。
信じ難いことだった。こんなこと、漫画やゲームの中でしか起きないことだと思っていた筈なのに。
二人は顔を見合わせる。
花那が何か言おうとして口ごもり、蒼太は花那から獣へ、獣から花那へと何度も視線を移動させた。
「……こ、これ、夢……じゃ、ない……よな……!?」
「信じられないけど、でも……!」
手と腕から感じる確かな温かさ。これは現実であると、互いに思い知らされる。
驚きと感動に震える二人をよそに、赤毛の獣はきょろきょろと部屋の中を見回している。
エメラルド色の瞳に、まだ意識の戻らない狼の姿が映った。……嬉しそうだった表情が、一転する。
「……っ!」
「あ! お、おい、暴れるなよ……!」
「が……ガルル……っ!」
赤毛の獣は、倒れた狼に向けて必死に手を伸ばしていた。力が出ないのか、蒼太の腕から抜け出すことは出来なかった。
それに気が付いた蒼太は、腕の中の獣を見つめ──立ち上がり、そのまま狼のそばへと向かう。
「ねえ蒼太、その子……」
蒼太は狼の顔の前でしゃがむ。小さな獣は手を伸ばし、その顔にそっと触れた。
「……ガルルモン……ガルルモン……っ!」
呼びかけられた狼は動かない。
「俺だよ……コロナモンだよ……。見て、ちゃんと、リアルワールドに……」
「そ、その……大丈夫だよ。多分……そいつ、寝てるみたいだから……」
「……」
獣は狼から手を離した。
「ありがとう……」
二人に向けられた声は、掠れていた。
「ありがとう。助けてくれてありがとう……」
そして、今にも泣きだしそうな──それでいて心から安堵したような顔で、二人に笑いかける。
思わず言葉に詰まる。『どういたしまして』以外にも、言いたいことや聞きたいことが沢山あった。
「……うん……」
なのに、それしか言葉は出てこなかった。笑い返すことすら出来なかった。
──だが、大きな安心感が自分の中にある。そのことを、蒼太と花那は確かに感じていた。
◆ ◆ ◆
蒸し暑い夏の夕暮れ。
小さな獅子と大きな狼。同じ数の人間の子供。
必然ではなかった。彼らが出会ったのはただの偶然でしかない。
しかしそれは、あまりにも奇跡的で、運命的な出会いだった。
赤毛の獣は彼らに、“コロナモン”と、そう名乗った。
◆ ◆ ◆
「……あの、コロナモン」
赤毛の名を呼ぶ花那の声には、まだ緊張の色があった。
「何? えっと……」
「花那だよ。……その、この子の名前は?」
「ガルルモン。ガルルモンだ。……俺の……家族で、友達なんだ」
少しずつ回復しているのか、コロナモンの口調はだいぶ、流暢になっていた。
蒼太の腕から離れ、狼擬き──ガルルモンの傍らに座ると、寂しげに微笑む。
「足が速くて、鼻がよく効いて、強くて優しいんだ」
「……病院、本当に連れて行かなくていいの?」
「うん。……今は落ち着いてるみたいだし、それに……俺たちは、この世界の動物とは、きっと構造が違うから……」
「そっか……」
「……なあ。二人とも見た目、全然違うけど……同じ生き物なの?」
「あ、それ気になった。……えっと、このガルルモンって子も、コロナモンみたいに言葉を話すの?」
蒼太は床に座り、花那はガルルモンにもたれかかっている。
「そうだよ。俺たちデジモンには色んな姿の奴がいて、大体はこうして喋れるんだ」
「……デジモン?」
聞き返す蒼太に、コロナモンは頷いた。
「君達が『人間』なのと一緒で、俺たちは『デジモン』。正式にはデジタルモンスターって言うんだけど、長いからね」
「……それ、どこがどうデジタルなのさ」
「それはよくわからないけど……。とにかく俺たちはデジモンで、俺たちの世界はデジタルワールドなんだよ」
「へえ。なんか変わってるな」
「……デジタルワールド……」
その言葉を何度か小さく復唱すると、花那は蒼太の服の裾をちょいちょいと引っ張り、顔を近づけた。
「……って、どこ?」
「し、知らないよ。俺に聞かないでよ」
「でもさ、絶対この近くじゃないよね。外国って感じでもないし」
「……まぁ、多分」
「……もしかして、別の世界とか?」
「まさか流石にそれは……」
二人はコロナモンに顔を向けた。ひそひそと話す二人の様子に、コロナモンは苦笑している。
「──簡単には、信じられないよね、色々……」
「……その、確かに俺たちに的には……フィクションっぽい話だけど……。でも実際、現実なわけだしさ」
「ねえ、デジタルワールドって本当に、別の世界みたいな感じなの?」
「……俺たちは、この世界のことを『リアルワールド』って呼んでるんだ。デジタルに対するリアルだから、きっと反対の世界なんだろうね」
「うーん、でもやっぱり……」
難しい、と蒼太は眉をひそめた。花那もうんうんと頷く。
それから、未だ眠るガルルモンに目をやった。
「……ねえ、ガルルモン、起きないね」
蒼太とコロナモンよりもずっと長い間触れ合っているのに、ガルルモンにはまだ起きる気配がない。
「ここに来る前たくさん怪我したから、多分……次元越えのダメージが大きいんだ。そのせいかもしれない」
「じ、次元か……スケールが……」
「……ねえ、ガルルモン。大丈夫? 私たちのことわかる? まだ起きない?」
花那はガルルモンを抱くような体勢で、頭を撫で始めた。
「しばらく起きないのかな」
「……わからない。……けど、俺より傷が深い筈だから……すぐには起きないと思う」
「……そっか……」
「その……ガルルモンも動けないし、俺たち、この世界で行く当ても無いんだ。……良ければ、ここに、泊まっても……」
段々と小さくなるコロナモンの声。きっと申し訳なく思っているのだろうと、蒼太と花那は思ったが──そもそも此処は二人の家ではない。
「……──多分。あんま人、来ないだろうし……」
「で、でも蒼太。バレたらまずいよ。このビル、一応は誰かの持ち物なんでしょ?」
「……君たちの家じゃないの?」
「……えっ。いや、まさか! 違う違う」
「こんな暗くて怖い場所、絶対住めない……!」
「……? じゃあ、二人はどうしてここに? 家でもないのに、こんな夜に……」
「それは手鞠のランドセルを探しに……──あっ」
花那は当初の目的を思い出した。
「そ、そ、蒼太! ランドセル忘れてた!」
「あの、ちょっと待ってて! 探してくるから」
慌てて懐中電灯を手に立ち上がり、蒼太は部屋の中を歩き回り出す。その様子を、コロナモンはとても不思議そうな顔で見ていた。
◆ ◆ ◆
ランドセルは案外、早く見つけることが出来た。
部屋の隅に、無造作に置かれていた赤いランドセル。蓋の裏側にはきちんと名前が書かれている。
花那は蒼太に何度も礼を言うと、念の為に中身を確認した。幸い、教科書や筆記用具は隠されていないようだった。
「……それが『ランドセル』?」
「そう! ほんとよかったー見つかって!」
「よかったね。探し物、見つかって」
「うん!」
「花那。それ、宮古の家もってくの?」
「ううん。私が持って帰って、明日とりかえっこする! だから今は、もっとコロナモンたちの世界の話────」
言いかけたその時、花那のスカートから大きな電子音が響いた。
それを携帯電話の着信音だと知らないコロナモンは、驚いて辺りを見回す。
「えっとこれは……も、もしもし! あ、ママ!?」
電話の向こう側から、「どこに行ってるの!」と大きな声が響く。娘の帰りが遅いことに心配をした母親の声だ。
気付けばとっくに、小学生が外で遊ぶべきでない時間となっていた。
蒼太は慌てて外を見る。辺りはすっかり暗くなっていた。自分たちのいるこの場所も、懐中電灯とコロナモンの炎でようやく明かりを得ている状態だ。
母親に何と説明すれば良いのかわからず、混乱している花那。蒼太も弁明しようと電話に出る。
「……そっか。もう、夜になってたんだね」
焦る二人とは反対に、コロナモンは落ち着いた様子で空を眺めた。
……里を出た時は夜だった。
だが、ここに着いた時は夕方だった。二つの世界の時間の流れは違うのだろうか。
違うとするならば──今、故郷ではどれ程の時間が経っているのだろう。
「…………ダルクモンは……」
「あー、よかった。なんとかなったな」
なんとか言い逃れをし、電話を終えた蒼太達はため息をつく。
「ねえ、やっぱ帰らなきゃダメかなあ」
「おばさんに公園にいるって言っちゃったしな……うーん」
「……ガルルモンともお話したかったのに」
名残惜しそうに、花那はガルルモンの頭を撫でる。
「……さっき話してたのは、ふたりの家族?」
話の内容こそわからなかったが、察した。
聞かれて、花那が頷いた。
「……うん。なんか、急いで帰ってこいって」
「家族が、心配してるんだね」
「でも私、まだ少ししか話せてないのに……」
「夜は危険だから、心配して待ってるんだ」
花那を真っ直ぐに見つめるコロナモンは、どこか寂しそうだった。
「……うん。そうだね。帰る時間だ。夜は皆が、家に帰る時間だ。……探し物も見つけたんだし……君たちも家に帰った方がいいよ。
家族が、君たちの帰りを待ってるんだから」
◆ ◆ ◆
「……追い返されちゃったね」
「まあ、コロナモンの言う通りなんだけどな」
コロナモンに帰るよう促され、二人は渋々とビルから出た。
部屋を出ていく前に、蒼太はもう一度コロナモンと握手を交わし、花那はもう数回、ガルルモンの頭を抱くように撫でた。
「デジタルワールド……だっけ。どんな場所なのかな」
「てゆーか、なんで私たちの……世界? に来たのかも謎だよね。……そうだ。明日午前中しか学校ないしさ、ここでご飯とか食べて、いっぱいお話聞こうよ!」
「あ、いいねそれ。きっとあいつら腹減ってるだろうし……」
全員で昼食を食べる様子を思い浮かべながら、蒼太はビルを見上げた。
彼らのいる部屋は暗く、外からは何も見えない。
「……そうだ。今日のことさ、俺たち以外……皆には、内緒にしたほうがいいと思うんだけど」
「皆って、クラスの?」
「親にも先生にも、皆。知られたらきっと大騒ぎになって、大変なことになるかもしれないよ」
「確かにそうだねー。なんてったって未知の生物だし。……わかった。約束だね!」
「うん。約束だ。俺たちの」
そして、笑顔で指切りをする。
絶対の秘密ができたことに、そしてあまりに不思議な体験をしたことに、今になって心が躍る。
誰かに言ってしまいたい気持ちを互いにぶつけ合いながら、二人は夜の道を帰って行った。
◆ ◆ ◆
────誰かの声が聞こえる。
誰だろう。
耳がぼうっとして、誰の声なのか、何を言っているのか、わからない。
──誰かが、自分の頭を撫でている。
これは誰だろう。
手の感触、形、温度や大きさ。それらから、誰が撫でているのか思い浮かべる。
……少し小さいのが気になったが……自分が知っているこの手の持ち主は、一人しかいない。
だが、何故だろう。
何故、この温もりが、ここにあるのだろう。
あれは夢だったのか。ただの悪夢であって欲しいと願う。
それともこれが夢なのか。ただの錯覚なのか。……もう、わからない。
とにかく今は──この手の感触が嬉しくて、いとおしくて。
ふと気付いた時にはもう、手の感触はなくなっていた。
温もりを失い、どこか不安な気持ちになって。
だから、名前を呼んだ。
そして、目を開けた。
そこに願っていた人の姿はなく……けれど、とても会いたかった家族の姿があった。
彼は、「おはよう」と言って泣いた。
────どうして彼が泣いているのか、分からない。
気付けば、僕の目からもたくさんの涙が溢れていた。
第二話 終
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