◆  ◆  ◆



 夜の湖畔はひどく静かだ。
 水の音、草の音、風の音。皆が眠る音。

 そんな様々な音に耳を傾けながら、ユキアグモンは仲間達を見守っていた。意思のない使い魔と共に。
 先程まで同様に見張りをしていたテイルモンは、彼と交代して眠りについている。また時間が来ればユキアグモンは彼女を起こし、代わりに彼が眠るのだ。

 日中、戦力になるのはコロナモンとガルルモンだ。だから彼らは休ませなくてはならない。

「……」

 黄金の腕輪を空に掲げる。星明かりを映して、きらきらと輝いている。

 綺麗だと思う。
 だが、それだけだ。
 綺麗なだけで、結局、自分ではこの腕輪を使えていない。

「…………おで、ごごにいでもいいのがなぁ」

 なんて、呟いてしまう。
 自己肯定感が揺らぐ。原因は、自分にある。
 未だ成長期の自分。皆はもっと強くなっているのに。チューモンは腕輪を着けただけで、個人の素質から成熟期へ進化できたというのに。

 今の自分ができる事なんて、馬車を氷で覆うことぐらいだ。こうして見張りをする程度だ。戦闘になれば、きっと役に立たないだろう。
 ……フーガモンと戦った時だって、チューモンとウィッチモンの力がなければ到底、勝てなかった。

「……」

 でも、選ばれたじゃないか。
 デジヴァイスに。紋章に。都市の誰もが憧れた、選ばれし子供達のパートナーに。

「ぢがう」

 選ばれたのは誠司がいたから。
 誠司が自分を選んでくれたから。

 わかっている。
 ただ運が良かっただけの成長期。強くなければ素質もない。聖なる力も持っていない。

「……」

 ──自分にも、出来ることがあると思っていた。

 だから友達に協力してもらった。都市の幼い天使に黄金の腕輪(ホーリーリング)を貰って、夢と期待と不安を抱いて、リアルワールドを目指したのだ。

 けれど、胸をときめかせ足を踏み入れたゲートの中は、とてもとても痛かった。
 気付けば声が上手く出せなくなっていた。こんなはずじゃなかったと思った。
 それでも希望は捨てなかった。きっと誰かに見つけてもらえると、生きて、生き延びて、弱い自分でも皆の助けになれると信じた。そうして────

「ユキアグモン」

 誠司の声がした。
 振り返る。目を細目ながら、髪をボサボサにした少年が顔を出す。

「せーじ、起きでだの?」
「ううん。おしっこ」

 誠司はよろめきながらワゴンを降りる。ユキアグモンは慌てて手を貸した。

「気をづげで」
「うーん」

 そのまま手を繋いで、馬車を離れる。近くの茂みへと誠司を連れていく。

「見ちゃやだよ」
「ぎい。見ないよ」
「……」
「……」
「……」
「……せーじ」
「なあに?」
「おで、皆の役に立てでるがな」
「……え、どうしたの急に」
「おでだげ弱いがら、皆の足、引っ張っでないがなって」

 茂みから戻った誠司は、両手を少し上げたまま怪訝な顔をする。

「ユキアグモン、元気ないの?」
「うん」
「らしくないじゃない」
「……うん」
「そっかー。まあ、夜中に起きちゃってるとさ、色々考えちゃうもんな。オレ夜中に起きてたことないけど」

 もちろん、地下牢の生活は時間の感覚を失っていたので、ノーカウントではあるのだが。

「オレ、ユキアグモンが足ひっぱってるなんて思ってないよ。きっと皆も思ってない」
「……」

 ユキアグモンは俯く。

「おで、自分で自分に、自身が持でないんだ」
「レオモンに修行もしてもらってたじゃんか」
「……しでもらっだ」
「でしょ? だから大丈夫だよ。それにヒーローって、後からかっこよく登場するんだよ」
「……」
「そもそもオレたち皆、強いとか弱いとかで友達になったわけじゃないだろ?」
「……ぎぃ」
「そんなこと言ったら、オレたちはユキアグモンたちの邪魔してることになっちゃうしさ。うん。そこは何とかしたいとは思ってるんだけどね。
 それにオレは、楽しいからユキアグモンと一緒にいるんだよ」

 にっこりと笑って、ユキアグモンに手を伸ばそうとして──

「あっオレまだ手、洗ってない」

 大事なことを思い出す。はにかみながら両手を揺らした。

「あっちの方、行ってみようよ。散歩だ散歩! オレ、今日はたくさん座ってたから歩きたいんだ」
「でも、見張りじないど」
「おねーさんの猫がいるから大丈夫だよ。へーきへーき。ユキアグモンにも元気になって欲しいし」

 誠司は馬車からどんどん離れ、茂みに入り水際を目指す。ユキアグモンが後を追う。

 二人はどんどん進んでいく。
 やがて姿も見えなくなる。
 彼らが居なくなったことに、誰も気付かない。

『────』

 馬車に残された黒猫から、機械音声が流れ出した。


『────三時方向、二キロ先デ熱源反応ヲ観測。及ビ接近を確認。迅速ナ対処ニ備エテ下サイ。繰リ返シマス。三時方向────』



◆  ◆  ◆



「ほんと綺麗だなあ。オレたちがいつも見てた星と、同じなのかなあ」

 こんな綺麗な星空は、山に登ったって、田舎に行ってみたってなかなか見られない。誠司は目を輝かせて手を伸ばす。

「父ちゃんも母ちゃんも見れたらいいのになあ」
「……おうぢ、帰りだい?」
「全部が終わったらね。そしたら一緒に帰ろうよ。ちゃんと紹介したいからさ。
 せめてカメラ持ってればなー。あっケータイ馬車に置いてきた」
「……」
「大丈夫だよユキアグモン。なんとかなるって。この世界だって、オレん家いくのだって、きっとなんとかなるよ。オレたちたくさん頑張ってるじゃないか」

 誠司は水際に膝を付き、屈んで手を洗う。

「……オレもさ、ユキアグモン。オレも宮古さんも……まあ宮古さんがどう思ってるかわかんないけど……。
 フェレスモンさんに捕まって、そーちゃんと村崎さんが助けに来てくれて。オレたちは何も知らなくて、ただ驚いてばっかで……助けてもらってばっかりだった。二人のがオレらよりデジモンのこと早く知ってたし、わかってた。だから少し寂しかったんだ。オレたちだけ、後ろを走ってるみたいな感じがしてさ。
 でも今は、やっと一緒に並べたような気がするんだよ」

 両手から水滴を垂らしながら、誠司は振り返る。

「だからユキアグモンの気持ちも、少しだけわかるよ」

 手の水滴が水面に落ちる。水面に波紋が広がり、消えた。

「でもきっと……ユキアグモンも、皆と一緒なんだってちゃんと、自信もって言える時が来るよ。俺は今でも……」

 手の水滴は水際へ落ちる。水面に波紋が広がり、

「ユキアグモンに、そう思って欲しいなって──」

 ────揺れた水面から突如、白い触手が伸びた。

「え?」

 それは誠司の胴体に巻き付いて、彼を水中へと引きずり込んだ。



◆  ◆  ◆




「あっ」


 ひとこと、ユキアグモンは声を上げた。

 目の前でパートナーが姿を消す。
 掴もうと、手を伸ばす。

「あ──」

 その手は届かなくて。
 水が跳ねる音がして。
 空を切った腕輪は、ただ綺麗で。

「────」

 潰れた喉から声は出ない。
 けれど体は先に動いた。考えるよりも先に動いてくれた。
 誠司を水中から救い出す為に、湖へと駆け出し────。

 ──飛び込もうとしたその時、白い触手の本体が水中から現れた。

「……! せーじ!」

 真っ白な胴体。大きな口。多数の触手。
 そのうち触腕の一本は誠司に巻き付き、彼を宙へと掲げていた。ユキアグモンに見せつけるかのように。

 誠司は苦しそうに咳き込んでいた。水をたくさん吐き出していた。
 誠司の命が無事であることに安堵しつつも──ユキアグモンは目の前の敵が、意思と悪意を持ってこの行動をしているのだと察する。

「お前、どうじで!」

 声をかける。相手に毒による汚染の様子はない。なら、対話もできるはず────

「せーじを放ぜ!」
「これはお前の獲物だな!? お前ら、このゲソモンの魚をよくも喰ってくれたな!」
「……ごほっ。うぇっ。ゆ、ゆきあ……。げほっ。ゆきあぐも……」
「ぜーじ!!」
「せっかく集めてたのに……一生懸命ここに集めて、非常食にして生きるつもりだったのに!
 なんてひどい奴らなんだ! 代わりにお前達の獲物を貰って何が悪いんだ!」
「ま、待っで! せーじは食べ物じゃない! 代わりの物なら集めでぐるがら!」

 懇願する。力ずくで取り返すことは────ああ、難しい。下手に動けば誠司が巻き込まれる。だが、動かなければ────

「残念ながら俺の魚を盗んだ時点で大罪だ。コレは食わせてもらうからな」
「ッ!!」

 その言葉に激昂する。ユキアグモンは感情のままに冷気を吐き出し、湖一面に氷を張った。ゲソモン目掛けて、その上を滑るように駆けて行った。

 だが──成長期のユキアグモンは、成熟期であるゲソモンの触手で簡単に凪ぎ払われる。
 ぶつかった衝撃で氷が割れる。氷の破片が体に刺さる。湖に落ちまいと、氷の割れ目に必死にしがみついた。そのままゲソモンにむけて、雹の塊を投げつけた。

 それも凪ぎ払われる。
 跳ね返された雹がユキアグモンの肩に当たる。

 氷が割れる。
 ユキアグモンは、湖の中へと落ちていった。



「ユキアグモン!」

 水の中。
 誠司の声が揺れて聞こえた。
 ああ、どうしよう。誠司が喰われてしまう。殺されてしまう。早く助けに行かなければ。

 自分が止めていればこんな事には。
 皆のそばにいれば、こんな事にならなかったのに。

 水面へと上がろうとする。
 だが、体が浮かばない。……なんて事だ。腕輪が自分の体を沈めている。
 早く上がらなければ。早く上がって助けにいかなければ。

(────)

 早く。早く。

 体が重い。腕が重い。腕輪が重い。
 自分が、夢と希望を抱いて大事にしてきた腕輪が、あまりに重い。

(────いらない)

 これがあったら誠司を助けに行けない。
 外さなければ。上に上がらなければ。

 外そうと試みても──体内の少ない酸素と薄れる意識では、落ちた握力では、腕輪を外すことができなかった。

(────いらない。いらない)

 意識が薄れる。
 音が急に遠くなる。
 もがく泡の音も、何もかも。

「……! ……!!」

 ふと、仲間の誰かの声が聞こえてきた。

「……!!」

 何と言っているのかはわからない。だが────ああ、よかった。駆け付けてくれたのか。誠司を助けに来てくれたのか。

 よかった。

 皆は自分より強いから、きっと助けてくれるだろう。

「──! ──!!」

 よかった。よかった。誠司が助かる。よかった。

(……違う……)

 自分がいなくても大丈夫。自分なんていなくても旅は続くし、きっと皆やり遂げてくれる。

(違う……!!)

 ──体が沈む。

(自分が行かないと!)

 力が抜けていく。

(自分が助けないと!!)

 視界が暗くなる。

(腕を切ってでも! 足を切ってでも!!)

 誠司の顔が浮かんだ。

(あの子は、自分にとっての希望なんだから────!!!)


 身体は水底へと沈んだ。
 それでも、彼はその腕を伸ばし続けた。



◆  ◆  ◆



 使い魔からの電子音声に、まず気が付いたのはウィッチモン。続いてテイルモンであった。

 ウィッチモンは即座に熱源反応を解析。テイルモンはユキアグモンに交代を呼び掛けようとして──

「……!? コロナモン! ガルルモン起きろ! ユキアグモンがいない!!」

 二人が飛び起きる。騒ぎに子供達も目を覚ます。

「あいつ見張りサボってどこ行ったのさ!」
「誠司もいない……二人でどこか行ったんだ。ガルルモン、ウィッチモン、場所はわかる!?」
「においはそこまで遠くない。二人で一緒にいるならきっと大丈夫だ。僕らは向かってきてるデジモンを……」
『──いいえ……いいえ! 今すぐ三時方向へ移動して下サイ!
 接近中だった熱源反応が移動を停止。しかしユキアグモンもそちらに……!!』

 ウィッチモンの言葉に全員、青ざめる。

 ガルルモンが駆け出した。子供達も慌てて後を追う。コロナモンとテイルモンは彼らの側について走る。

 二人が星空を見上げた茂みを抜け、表面が氷った湖へ。
 その中央には────今まさに、誠司のことを食べようとしているゲソモンの姿があった。

 ガルルモンは咆哮する。ユキアグモンが残した氷を叩き割るように進み、ゲソモンに突進した。

「! 何だお前!?」

 ゲソモンは咄嗟に長い触腕を振り、ガルルモンに殴りかかる。ガルルモンは一度それを避け、噛み付いた────が、他の触手が一斉にガルルモンを攻撃する。ガルルモンは必死に食い付き離さない。そのまま炎を吐き出し、焼き抉った。

「ぎゃぁあ!」

 ゲソモンが叫ぶ。ガルルモンを殴る力が強くなる。衝撃でガルルモンは湖面に打ち付けられた。

 同時に、コロナモン達が到着する。

「──!! コロナモン、誠司が捕まって……!」
「わかってる! ウィッチモン、相手は!?」
『相手はゲソモン、成熟期ウイルス種! 毒の反応はありまセン!
 炎の攻撃ではセイジが巻き込まれマス。テイルモンと共に足を狙ッテ下サイ!』
「了解した! 蒼太、デジヴァイスを俺に向けて! 練習どおりに!」
「う、うん!」

 蒼太は急いでデジヴァイスを取り、コロナモンに向けて掲げる。
 デジヴァイスから光が放たれ、彼の体を包み込んだ。

「……コロナモン進化……ッ! ファイラモン!!」

 進化を遂げたファイラモンは、自身の背中にテイルモンを乗せる。
 翼をはためかせ、空へ。ゲソモンと対峙する。テイルモンはナイフを構える。

「ね、ねえ花那ちゃん、ユキアグモンは!? どこにもいないよ……!?」
「……嘘……そんな、まさかユキアグモン……」
『大丈夫、微弱デスが反応はありマス!』
『私たちが探すよ! 皆は湖から離れてて!』

 使い魔の猫が湖中に飛び込んだ。
 夜の湖。使い魔の瞳を発光させても、視界はほぼ見えない状態。モニターに写された反応だけを目指して進んだ。

『どこデス、ユキアグモン……ッ』
『! ウィッチモン見て! あれ、ユキアグモンの……』

 水底には、瞳からの光を僅かに反射する物が。

 黄金の腕輪。聖なる腕輪。それは白い身体を水底に沈める。

『……!!』

 使い魔が飛びつく。まだ生命があることを確認する。呼吸を必要としない猫は、必死にユキアグモンから腕輪を外そうとした。────だが、外れない。手首から先が閊えて動かない。
 外せない。そう判断したウィッチモンは────彼にとって大切な腕輪を、アクエリープレッシャーで切断した。彼の指を巻き添えにして。

 重りを失った白い身体は、浮力に従い水面を目指す。
 その途中──湖の闇に溶け、彼の姿は見えなくなった。

「ユキアグモン!!」

 水の上から、誠司の叫ぶ声が聞こえた。



◆  ◆  ◆




 水の上から声を聞いた。

 ユキアグモンの目が開かれた。




◆  ◆  ◆




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