◆  ◆  ◆



 一行が海へと到着するまでには、それから更に四日もの時間を要した。

 へとへとに疲れ切った彼らの前にようやく現れたのは、白い砂浜、エメラルドグリーンの海原────お決まりとも言える美しい浜辺。
 空が曇っていることが唯一の難点だ。快晴であれば、最高の景色となったことだろうに。

 しかし空模様など子供達は気に留めない。馬車から身を乗り出し、広がる海に目を輝かせた。

 砂浜へ入る手前で馬車を止める。花那は駆け出したい気持ちを抑え、ソワソワしながら遊ぶ許可が出るのを待った。蒼太は泳ぐつもりなのか、ストレッチをし始めている。誠司は湖での一件をまだ気にしているのか、遊びたい気持ちは抱きつつも抑え込んでいた。

 そして──テイルモンは海を見るのが初めてだったようで、手鞠と共に、その美しい光景に目を奪われていた。

「……ねえ、 チューモン ・・・・・ 。……お城から出られて、よかったね」
「…………ああ、そうだね」

 フェレスモンの城では、ダークエリアでは、一生見ることの叶わなかった景色。
 ──命懸けの旅はうんざりだが、これが見られるなら悪くない。そんなことさえ思ってしまう。

「……手鞠の世界も、こんなに綺麗な場所があるの?」
「うーん、おうちの近くには無いかな……。あ、沖縄に行けば見られるかも!」
「オキナワ?」
「あとは南の国とかかな……飛行機、一緒に乗れるかなあ」

 真面目に悩む手鞠を、テイルモンは不思議そうに見上げていた。


 周辺に熱源も観測されず、毒に汚れた様子もない。美しい海辺は、ひとまず安全だと判断される。遠くへ行かないこと、遊泳しないことを条件に、ウィッチモン達より浜辺で遊ぶことを許された。
 子供達は元気よく駆け出す。裸足になって、少しだけ温かな砂の感触を楽しむ。波打ち際を走って、冷たい海水に声を上げる。

『はしゃぐのはいいけど、服は濡らしちゃだめだよー』

 柚子は年上らしく注意してみるが、聞く耳はあまり持たれていない。少年達は早速、服を海水で濡らし尽くしていた。少女達はユキアグモンとテイルモンを連れ、砂の城づくりに奮闘している。
 呆れながらも微笑ましく、その様子を画面越しに見守った。

『いいなー、アタシもセクシー水着で泳ぎたいのに!』

 みちるが横から顔を寄せ、画面を覗いてくる。真横で泳ぎのジェスチャーをされ、柚子は両手で掴んで押しのけた。

『お? 手押し相撲ってやつ? 受けて立つ!』
『しません! 隣で平泳ぎされて鬱陶しくない人がいますか!』
『ならバタフライでどうだい?』
『もっと嫌です。それに暑いです! 狭い部屋に人が密集して、その上パソコンの排熱だってあるんですよ。こんな場所で激しい運動したら倒れますからね』
『おやおやインドアちゃんめ。みちる姉さんを見習って魅惑のマーメイドになってごらん!』

 みちるのわざとらしいセクシーポーズを冷ややかに見つめ、「なんとかしてください」と対応をワトソンに投げた。

 楽しそうな二人のやり取りを見つめ、ワトソンは「元気になってよかった」と呟く。
 しかしウィッチモンは、歯痒くて見ていられないと────目をそらし、画面だけを見つめていた。



「海、本当に綺麗だ」

 はしゃぐ子供達を、コロナモンはガルルモンと共に、優しく目を細めて見守る。

「不思議だよね。周りはこんなに毒まみれなのに」

 海からは、やわらかな風が吹いている。
 湿気と潮のにおいが混ざる。あたたかくて、不快さは微塵も感じられない。ガルルモンは「そうだね」と、少し間をあけて答えた。

 それは束の間の平和なひと時。
 楽しそうな声。穏やかな波の音。

 どこか懐かしさを感じるような、ちょっとした胸騒ぎを覚えながら────二人は、どこまでも広がる海を遠く見つめていた。



◆  ◆  ◆



 豪勢な砂の城が完成する頃になっても、周囲にデジモンの熱源は観測されなかった。
 想定していなかったわけではなかったが、収穫がなかったことは残念だ。ウィッチモンは肩を落として、モニターを監視しながらも両腕を伸ばす。

 まあ、海を見つけたことで、そこへと繋がる川の存在もいくらか確認できた。それをせめてもの成果としよう。ファイラモンに空からの様子を見てもらいながら、海と川の位置を記した地図を作ってもいいだろう。────そんなことを考えながら、ウィッチモンは短い夏休みの終了をアナウンスしようとした。

 ……その時だった。

 波打ち際で遊んでいたユキアグモンが、ふと海の異変に気付く。

「…………?」

 シードラモンへの進化を遂げたことで、水の様子といったものには敏感になった。その感覚が今まさに働いたのだ。
 じっと海を睨む。少し潜って海中を覗いてみる。──異常はない。ウィッチモンの言っている通り、デジモンの気配もない。

 だが、何かがおかしい。おかしいのは────

「……波?」

 そう、波だ。
 波の様子がおかしい。何故だか小刻みに揺れている。地面には少しの揺れも起こっていないというのに。

 慌てて周囲を見回す。
 子供達は皆、海から離れて休んでいる。海に近い位置にあるのは、さっき一緒に作った砂の城だけだ。

 ユキアグモンは急いで砂の城まで走る。海を相手に両手を広げて仁王立ちする。
 突然の彼の行動に、「どうしたの?」と、花那と手鞠が駆け寄ろうとして──

「ぎ、来ぢゃだめ!」

 ────ユキアグモンの声とほぼ同時に、海一帯に地鳴りが響いた。

 直後、海が揺れる。
 誰もが地震かと思った。しかし、動いているのは海原だけだ。浜辺は一切揺れていない。

 子供達が不安の色を浮かべる中、今度は急に海面の高さを増す。同時に波の動きが止まる。
 海は非常に不自然な動きをした。ある一点を起点に、左右の海面だけが膨れ上がったのだ。
 逆に起点となった場所は水嵩が減っていき────やがて、白い海底が露わになる。

 その光景に誰もが目を疑い、息を呑んだ。
 海は左右に分かれ、中央に海底の道が一本続く。それはまさに────旧約聖書の中に見る、海割りの現象そのものであった。

「────」

 これが人為的な事象なのか、それとも来訪者に対し自然と発生するものなのか────罠なのか、導きなのか、誰もが確信を持てずにいた。

『これ、どうするの?』

 ワトソンが口を開く。

『呼ばれてるようにも見えるけど』

 時間が経過しても、海底の道は消える素振りを見せず、一行の前に在り続けている。

『……で、でも、誰が呼ぶんですか?』
『うーん。誰だろうね。少なくとも近くには居なさそうだ』

 感知されないということは、最低でも半径三キロ以上の距離がある。
 そこから自分達の存在に気付いたのか?
 行ってみなければわからない。だが、罠だった場合は命取りだ。

 ウィッチモンは頭を抱える。
 海底の一本道は、緩やかに傾斜している。つまり、段々と深くなっているのだ。水深が深い場所で、道が海に飲まれれば命は無い。

『可能性は五分五分……』
「おで、シードラモンになって行っでみるよ」
『ええ。それは勿論、お願いしたいのデスが……』

 ウィッチモンは悩みに悩み抜く。この道が作られた意味を問う。
 自動感知なら、彼らが海に着いた時点で発動していた筈だ。
 しかし発動したのは今更になってから。自分達が帰ろうという所で、まるで引き留めるかのように。

 ……可能性としては。
 アンドロモン、フェレスモン、そしてホーリーエンジェモン。ある特定の地域を治める領主達。選ばれし彼らを、利用せんとするデジモン達。────それに類似する新たな存在か。

『……いいでショウ。……このままでは埒が明かないこともわかッテいる。
 皆様、全員でこの道を渡りまショウ。ただし我々が細心の注意と警戒を。水の壁の状態を常にこちらでモニタリングし、僅かでも変化があれば離脱してもらいマス』
「離脱っつっても海の中じゃどうしようもないじゃないの。ウチ泳げないんだけど」

 テイルモンは非常に嫌そうに顔を歪めた。

『ガルルモンとシードラモンはそれぞれ先頭、後方にて、四方を常に氷で覆いながら進んで下サイ。万が一異変を感知した場合は、その時点で氷の空間をワタクシの亜空間として分離しマス。その後はテイルモンのホーリーリングで都市へと転送して下サイ。
 但し、亜空間の形成は四方面全てが氷で覆われていることが条件となりマスので、進行方向以外は必ず凍結させるように』

 リスクは高く、不安要素は残るが────それでも進むべきだと判断する。
 テイルモンを除く全員が、その案に対し首を縦に振った。



◆  ◆  ◆



 氷越しに見る海中の光景は、水族館の水槽を眺めた時のそれとよく似ていた。

 澄んだ海と鮮やかな魚達。
 群生する珊瑚礁のトンネル。
 いずれも現実のものではない。海を泳ぐ生物は皆、デジタルワールドが作り出した模造品に過ぎず────そのどれもが、リアルワールドに存在するどの種族とも一致しない。

 進む度に海は色を変えていく。
 淡い緑色から藍色へ。水深と共に、段々暗くなっていった。
 コロナモンが炎を灯す。明かりは氷に反射して、通路を優しく照らした。
 どこからか、やわらかな風が吹き込んでいるのがわかった。

「空が見えなくなってる」

 蒼太が見上げる氷の天井は、周囲と同様の深い藍色。
 海が深いせいなのか、それとも別の場所に来ているのか──氷で覆っているせいでよくわからない。

 ふと、先頭を歩くガルルモンとコロナモンが足を止めた。

『どうしまシタか?』
「……いや……道のにおいが……」

 正しくは風のにおい。進むにつれ、どんどん濃くなっている。
 二人は顔を見合わせる。────すると、コロナモンがひとり走り出した。氷の無い場所まで進み、何度も周囲を見回す。

 突然、どうしたのだろう。子供達は心配そうに見守っていた。
 コロナモンは、境目がわからない透明な壁にそっと触れる。それから両手で撫でて、じっと向こう側を見つめる。

「……っ」

 ──少しだけ眩暈がして、目を閉じた。

 瞼の裏が白く光る感覚。
 真っ白なスクリーンに映し出されたのは────此処ではない何処か。

 黄昏の荒野と滲む夕陽。
 ガルルモンと出会った、あの日の風景。

 目を開けると、視界は再び深い青に染まった。

「────」

 どうして急に。……困惑し、壁から離れる。

「コロナモン、大丈夫か?」

 ガルルモンがコロナモンの顔を覗いた。コロナモンは「何でもない」と言って、薄暗い道の先を見つめる。
 辿り着く先には何が在るのだろう。何が待っているのだろう。
 不思議と警戒心は湧かない。進むことに恐怖もない。だって──肌を撫でる風は、こんなにも優しい。

「……先を急ごう」

 コロナモンは躊躇うことなく進んでいく。
 何も問わず、ガルルモンも続いた。──往く道を氷で覆うことは、もうしなかった。

 それを見たシードラモンは慌てて氷を張る。「どうしてそんな危険なことを」と、突然の二人の行動に戸惑いながら呼び止めた。

「根拠はないんだけど」

 コロナモンは振り返らずに答える。

「きっと、大丈夫だから」

 シードラモンは答えに納得できなかった。念入りに周囲を氷付けにし、二人を追う。使い魔も子供達の側に寄って守り、テイルモンは青い顔で天井を仰いでいた。

「ね、ねえ、行っちゃった。その……大丈夫、なのかな……」
「もうダメだウチは生きて帰れないんだ。どうすんのさ。氷も無しで進むとか、何考えてんのマジで」
『シードラモン……すみまセンが、ガルルモンの分まで彼らをお願いしマス。流石に無防備のままこの子達を行かせる訳には……』

 ウィッチモンの言葉を遮るように、今度は蒼太が走り出した。止める声も聞かずに追いかけて──氷の壁の外に出て、コロナモンの手を掴む。

 コロナモンは驚いて顔を上げる。蒼太は「一緒に行くよ」と笑いかけた。
 お前がそう言うなら大丈夫だと──そう、眼差しで伝えて。

 花那は少しムッとした表情で、負けじとガルルモンの側まで走る。

「蒼太、自分だけずるい。私だってガルルモンのこと信じてるんだから!」

 ガルルモンは嬉しそうに苦笑して、膝を落とす。花那は満足げに背中に乗る。
 高くなった目線から、花那は改めて周囲を見回した。

 氷を通さずに眺める海の世界。
 気付けば誰もいなくなった、美しい青の世界。
 花那は思わず見惚れる。──なんて神秘的だろう。いつもならこんな暗い場所、怖いはずなのに。この海は不思議と怖くない。

 四人は先へと進んでいく。誠司と手鞠達とは、いつの間にか距離が離れてしまっていた。
 後でウィッチモン達に怒られるだろうか。怒られるだろうな。そんなことを思う。

 道を往く途中、ガルルモンに乗っていた花那が、壁の向こうで何かとすれ違ったことに気付いた。
 慌ててガルルモンを呼び止める。蒼太とコロナモンが壁に顔を近付け、目を凝らした。

「……わあ。コロナモン、何だアレ……」

 深い藍の闇に紛れるように、ぼんやりと姿を見せたのは────石で造られた大きな円柱。
 それは等間隔に規則正しく、道に沿って立ち並んでいた。
 まるで、彼らを道の先へと導くように。



◆  ◆  ◆



 厳かな列柱に見守られながら、コロナモンとガルルモン達は、海底の道の終着点へと辿り着いた。

 彼らを迎えたのは、列柱と上部を繋げた半円アーチの石門。
 風はここから吹きこんでいるのだろうか。ガルルモンは門の向こうに、穏やかな空気の流れを感じ取る。

 門の向こうには、ただ青い闇が広がっているだけの様に見えた。
 しかし、そうではないことを彼らは察する。躊躇うことなく、アーチの下を潜り抜けた。


 ────潜り抜けた途端、辺りを満たす空気が変わった。


 其処には、門の外からでは見られなかった世界が在った。
 彼らが今いるのは、巨大な球状の空気の層だ。外界との境界面はターコイズブルーに彩られ、陽光に揺れる南国の浅瀬の様に美しかった。

 入口となった石門からは更に道が続いており、彼らを中心部まで導く。
 視界を遮るものはなく、自分達がどこに導かれるのかが目に見えて分かった。

 あれは────そう、神殿だ。
 荘重な大理石で造られた、ドーリア式を思わせる構造の建築物。

 足取りが速くなった。急ぐ必要はないと分かっているのに。
 海流の代わりに流れる優しい風を、正面から受けて、段々と小走りになって──神殿へと辿り着く。白い列柱廊を通り抜け、奥に待つ巨大な扉を前に、立ち止まった。

 薄貝で彩られた扉。思わず見惚れてしまう真珠層の輝き。
 蒼太が触れようとした──その直前に、扉は自ら子供達を受け入れた。

「……」

 四人は、そっと神殿の内部を覗き込む。
 外と比較して、中は随分と薄暗い。
 扉を開けたまま中へと入る。彼らを感知したかのように、周囲の燭台に自然と炎が灯った。

 長方形の主室はとても広く、数多くの大理石柱が四周を成して天井を支えている。
 奥の柱の手前には玉座が設けられていた。


 揺れる炎の影の中、その玉座に鎮座している“誰か”が────彼らを見つめながら、立ち上がった。



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