◆ ◆ ◆
返してくれ。
帰してくれ。
兄弟をかえしてくれ。
あの子をかえしてくれ。
お願いだから、神様。
────どれだけ願っても、祈っても。その果てには何もない。
◆ ◆ ◆
──それは、選ばれし子供たち一行が、海の底の神殿へ招かれるよりずっと前のこと。
灰色の空の下に広がる海辺は、まるで冬の海の様。
微妙な透明度の海水に潜り、秘密の花園への道を探る。
そして容易く発見した、空気が満ちる海中トンネル。
やわらかな風を受けながら、軽やかな足取りで進んで行く。
透明な壁の向こうは、鮮やかな珊瑚礁の森。
明度を変えていく青の世界。やがて深い藍色の道を抜け────その“先客”は、海の底の神殿へと辿り着いた。
まるで道場破りかのような意気込みで、扉の前に仁王立ち。
しばらく扉を見上げると、自身の頬を両手で軽く叩いた。
……潮の流れのような風に、服と髪がゆらゆらと揺れる。
髪を束ねていたヘアゴムを外す。左右の三つ編みをほどいて、少しだけ傷んだ毛先を自由にさせる。
雑なポンパドールを作っていた前髪も下ろした。目にかかって、少し邪魔だ。
高鳴る鼓動をなんとか抑えて、深呼吸。
満を持して、胸を張って────春風みちるは扉を叩いた。
「たのもー!」
少々の静寂の後、扉が開かれる。
誰が来たのか、と。宮殿に一人佇むネプトゥーンモンは、敵意を持って顔を上げた。
そんな彼に、みちるはひらひらと手を振ってみせるのだ。
「やっほーネプちん。久しぶり」
いつも通りの笑顔で。
──その姿を見て、ネプトゥーンモンは途端に表情を変えた。
「────何故だ」
搾り上げられたような声が漏れた。
「……本物か?」
彼は狼狽えながら玉座を立つ。
両手を、その身を震わせて────佇む少女と距離を狭めていく。
「……生きて……いるのか……!?」
みちるは迎えるように両手を広げた。
ネプトゥーンモンは宙を泳ぎ、手を伸ばし、少女の手を掴む。
そして大きな胸板に、みちるを勢い良く引き寄せた。
抱き締められる力があまりに強いものだから、みちるは思わず笑ってしまった。手のひらで何度かネプトゥーンモンの背を叩く。
「あはは! 痛いってば! つぶれちゃうよ」
「ああ……ああぁ……! 生きてた……生きていてくれたのか……っ!」
「そうだねえ、今のところはなんとかねぇ」
「どこにいたんだ!! あの時ずっと……探したんだぞ……!」
荒く悲痛な声だった。
ネプトゥーンモンは涙を流し、嗚咽していた。みちるは、宥めるように背をさする。
「そりゃあだって。デジタルワールドに、ずっとは居られなかったから」
ネプトゥーンモンは少女の存在を確かめるように、両手でしっかりと彼女の肩を押さえた。
「……何故、どうして、どうやって此処に」
「ここまでの道は覚えてるからね」
「今まで何処にいたんだ……! 生きているならどうして教えてくれなかった!? お前も、兄弟達も……皆、死んだと思っていた……」
「…………うん。そうだよね。ごめんね」
「……いや……すまない。大きな声を出した。……ああ、生きていてくれたなら、それだけで良いんだ」
そして気を取り直すかのように、誇らしげに口にした。
「一目でわかったぞ。大きくなったな、■■■」
────その言葉に、みちるは満面の笑みで答える。
「ネプちんは変わらないねえ」
そしてネプトゥーンモンの手を取り、くるくると踊ってみせた。
「ここも、変わらないねー」
「ああ、そうだろう。あの時からずっと同じだ」
「そっかー。……敢えて、変えてないのか」
ぴたりと足を止める。
「また、“私”が戻ってきても、私が驚かないように」
「……ああ、そうだとも」
「奇跡が起きていたら、 兄弟達 が、迷わず帰って来られるように」
「…………ああ。……変わらなければ、きっと……真っ直ぐに、帰って来られる」
手を離す。
「律儀だねえ」
悲しげに微笑んだ。
「馬鹿だと思うか」
「うん。馬鹿だなーって思う」
「私も、そう思うよ」
「なんだ。自覚、あるんじゃない」
「……それでも……変えられなかったんだ。此処には家族と、お前の笑顔で溢れていたから」
彼が一度だけ向けた目線の先。伏せられた写真立て。
少女は手に取り、懐かしそうにそれを眺めた。──そしてまた、そっと伏せる。
「……デジタルワールドじゃたくさん時間が経ったでしょ。ひとりで隠居して、ずっと待ってたんだね」
「待っていたわけじゃない」
ネプトゥーンモンは首を振った。
「あの雨の日から……もう誰も、戻らないとは分かっていた。ただ、私の世界が変わって欲しくなかっただけだ」
家族もパートナーも、誰も彼もいなくなって、海の底にひとり。
思い出をそのままに、必死にしがみついて──ただひとり。
「地上は、変わっていたか?」
「……変わってたよ。すっかり。また毒まみれだけどね」
「ははっ。やはりか。どうりで最近、上が騒がしいと思っていた」
ネプトゥーンモンは心底おかしそうに笑う。
「これじゃあまるで、あの時と同じじゃないか」
「やったねネプちん! 昔が帰ってきた!」
「ははは! ……ああ、でも……帰ってきたのは……■■■だけだな。お前だけでも帰ってきてくれた」
ネプトゥーンモンは少女の頬を優しく撫でた。みちるは、少しだけ目を伏せる。
「……教えてくれ。あの時お前に、子供達に何があったのか。どうして……兄弟達は、戻ってこなかったのか」
ずっと気になっていた事を問う。
みちるも聞かれると想定していた。だから驚く様子もなく、淡々と答えるのだ。
「それは言えない。思い出したくないから言いたくない」
「…………そうか。……お前以外の、他の子らは」
「死んだよ」
はっきりと口にする。
ネプトゥーンモンは項垂れた。頭を抱えて、床に崩れ落ちそうになるほど力が抜けた。
「せっかくデジタルワールド、平和に戻ってたのにね。また毒まみれになっちゃって、ネプちん可哀想ー」
「…………何もかも知らぬまま、消えてしまえれば……それも幸せだったのかもしれないな」
「隠居しまくりだもんねえ。ちゃっかり海が無事なのは無意識なの?」
「……それも、昔のままだ」
「わあ、守りっぱなしだったわけか。ディープセイバーズの皆はラッキーだったね。
でもさ、ずっと昔に拘ってるくせに……昔みたいに戦う事は、しないんだね」
ああ、とネプトゥーンモンは即答する。
「私はもう戦わない。もう、何もしないと決めている」
「……何もしないと死んじゃうよ」
「それでまた彼らに会えるなら、願ってもない事だ」
「…………まだ、生まれてきてない兄弟だっているんでしょ。その為にデジタルワールド、残してあげてもいいんじゃないの?」
「こんな毒まみれの世界、残したところで」
それを聞いて、みちるは「確かにー」と笑う。
「……いっそ本当に、世界が全部生まれ変わるなら。そこでまた家族に会いたい。……そんな事さえ思うようになったよ」
「やだあ、らしくない。……でも、“私”は世界に残ってもらって欲しいなあ。思い出がたくさんあるもの」
「……」
ネプトゥーンモンは大きな両手で、みちるの小さな両肩を包んだ。
彼の記憶の中にある肩より、少しだけ広く、高くなったそれを──慈しむように見つめる。
「……。……大きくなったな。本当に」
「そうでしょ? もう立派なレディーだよ」
「……はは、そうか。……なら、もう私と一緒には戦えないな」
「うん。回路は、無いから。皆とは戦えない」
「……。……どうして……今になって、会いに来てくれたんだ。それも、こんな時に」
「そうだねー。“あの時”は色々あって、ネプちんとお話しできなかったから」
指で頬をかきながら、はにかんだ。
「ちゃんと伝えたかったの。お別れ」
ネプトゥーンモンは表情を歪めた。
とても、悲しそうに。
「…………そんなことで……身の危険を侵してまで、こんな場所に?」
「あとね、お願いがあって! ネプちんなら聞いてくれるかなって期待してきたの」
みちるは慌ててピースマークを作る。
それを見たネプトゥーンモンは思わず苦笑した。指で自身の涙を拭う。
「……私にできる事なら、喜んで聞くとも。何でも言ってくれ。せめて……今回は、やり遂げるから」
みちるは腕を伸ばし、ネプトゥーンモンの脇に回す。
彼の胸に顔を当てて、柔らかな表情で目を閉じて────
「世界にまた、選ばれし子供たちが来るよ」
告げる。
「新しい子供達だ。世界のことなんて何も知らない。
そんな皆が────そう遠くない未来、必ず貴方を訪ねてくる」
ネプトゥーンモンは愕然とした。それから唇を噛み締め、声を詰まらせる。
「…………また、子供達を……」
悔しそうに、悲しそうに。
だが、その一方でみちるは笑っていた。
「また、と言うか、引き続き?」
「……。……その者達とお前に、どんな繋がりがあったのかは知らない。だが……何も、知らせてないんだな」
「うん。まだ隠してる!」
わりとここまで隠せてるのよ。なんて言いながら、自慢げに胸を張ってみせる。
「いやはや、タイミングが難しくてですね。早くに教えすぎたら皆怖がって帰っちゃうかもしれないし。パートナー達だって黙ってないでしょ?」
「……当然だ。すぐにでも彼らをリアルワールドへ帰すだろう。……私達が、間に合わなかった事だ」
ネプトゥーンモンはみちるの手を取り、頭を垂れる。
「もー。いいよー、いいんだよ。昔のことでしょ。……それに、私を守れなかったのはネプちんだけじゃないんだから。一人で背負っちゃダメだよ」
そう答えながらも、彼を見下ろす少女は無表情だった。
「まあ、そういう訳でね。うまくタイミングを見計らっていたのです。
あの子達が、『世界を救う』なんて覚悟を決めるまで」
皆はとてもいい子だから。
覚悟が決まれば、もう、きっと後には引けない。
──その言葉は流石に、口の中で転がすだけとした。
「……私は何をすればいいんだ。次の子供達に」
「昔話をしてあげてよ。教えてあげて欲しいんだ。あの時何があって、貴方が何を見たのか」
ネプトゥーンモンは頭を抱える。
「知らせて何かが変わるのか? その子供達だってきっと……お前の時のように姿を消してしまうなら、それこそ怖がらせるだけだろう」
「言ったでしょ? タイミングが大事だって。知りすぎもよくないけど、知らなすぎもダメなの! 進まなくなっちゃうから! だからこっちで手解きして、動かして、今度は生き残らせてあげないと」
「……。……私は……お前の事を話せば、──いや、子供達と出会えばきっと……彼らを止めるぞ」
お前と同じ目に遭わせたくないから──絶対に、彼らの道行きを止めるだろう。
しかし少女は、それを笑顔で肯定した。
「知ってるよ。全部話して、その上で送り出せるような性格じゃないよね」
「なら、何故」
「強いて言うなら、生き残った側の責任ってやつ?」
「……厳しいな。そういう役回りこそ、セラフィモンやオファニモン達が適任だろうに」
みちるは肩を上げて溜め息を吐く。「そういうわけにもいかないんだよ」と。
「だってさ、駄目なんだもの。
セラフィモンの後代はまともに記憶を継げなかった。不毛な行為しか繰り返せない。
転生したオファニモンは既に同じ道を辿ったし、ケルビモンは転生自体できなかった。
海の、空の、大地の戦友達は、とうの昔に役目を終えてる。──それに……貴方の兄弟達は、生け贄になったまま」
少女の言葉に、海神はただ目を見開いた。
それは過去の厄災以降、彼が終ぞ知り得なかった事実だった。
「────」
ネプトゥーンモンの顔が強張る。槍で胸を突かれたような錯覚を覚えた。
その衝撃に僅かな間、呼吸をする事さえ忘れてしまう程。
「……■■■、お前は何を……どうして、どこまで知ってるんだ」
「たくさん!」
「この数十年……どこで、何をしていた……?」
「やだなぁ、リアルワールドじゃそんなに経ってないよ! 施設を出たのもわりと最近だし」
「…………」
「というわけで、ネプちんが適役オンリーワンということなのです。本当なら私が教えてあげたいんだけどさ、なんか説得力ないし? 何より“ルール違反”になっちゃうからね。
だからお願い! ついでに私が来てネプちん煽ったことも秘密にしてて!」
両手を合わせ、祈るような仕草を取る。
ネプトゥーンモンはしばらくの間、呆気に取られていた。
少し驚かせすぎてしまったか、とみちるは思う。
────ここまでにしておこう。ちゃんと、お願いは伝えたのだし。
みちるは苦笑した。少しの間、目を閉じて────そして
「最後に」
……その単語に、ネプトゥーンモンはハッと顔を上げた。
少女は寂しそうに笑って、こちらに手を向けていた。
「あの時言えなかったお別れを」
出会った頃よりもずっと成長した──けれど自分と比べたら、相変わらず小さな手のひら。
「────」
「言ったでしょ。ちゃんと伝えたかったって」
「……ようやく会えたのに……これで、最後なのか?」
「うん。これで最後」
「…………新たな子供達と、デジタルワールドを救ってくれるなら……その後また、会いに来てくれればいいだろう……」
「えへへ。そうだよねえ。でも、色々と理由があって。だからごめんね」
「……。……そうか」
ネプトゥーンモンはみちるの手を取る。
強く握った。離したくなかった。そうするにはあまりに名残惜しかった。
けれど少女はそんなこともない様子で、既に満足気だった。……それが、少しだけ寂しい。
「うん、うん。良かった。お互い、悔いのないようにしておきたかったから」
そして──かつて自分達を満たしてくれた笑顔を、あの時と変わらぬ様相で向ける。「ありがとう」と、彼女は言った。
「皆と一緒にいられて、楽しかったよ」
「…………ああ。……私もだ」
「それと、ごめんね。本当は誰より一番、“私達”を心配してくれていたのに。あんな形になっちゃって」
「……いいんだ。……こうして、会えただけでも十分。ここまで生きてきて、生き延びて、良かったと思えたから」
「……。……お願い事、頼んだからね」
「できる所までやってみよう。わざわざ海の底まで伝えに来てくれたんだ、無駄にはしない」
「ネプちんなら大丈夫。とっても頭が良いの、知ってるんだから」
「……」
「長い間、海の底で寂しかったよね。でもきっと、本当に世界が救われたら……貴方の兄弟は、帰ってくるって信じてるから」
「…………そうだな。私も……それを願うとするよ」
そっと、手を離す。
「さようならネプトゥーンモン。
どうか貴方が、また空の光を見られますように」
最後は笑顔でお別れを。
それが一番幸せだと、自分も彼も、分かっているから。
「……どうか……お前も。……リアルワールドで……立派に大人になって……その人生を、幸せに生きていってくれ」
その願いに──少女はピースマークを作って、高く高く掲げてみせた。
くるりと背を向ける。女優のように赤い絨毯を真っ直ぐ進み、海の宮殿を後にする。
すると
「■■■。……最後に、ひとつだけ良いか?」
「なあに?」
引き留める声に、顔だけを向けて応えた。
ネプトゥーンモンは申し訳なさそうに、そして慰めるように、少女に伝える。
「 お前のせいじゃないよ 。────何も」
「────」
投げ掛けられた言葉に、みちるは飄々と歯を見せて応える。
ひらひらと手を振った。二度と振り返ることなく、神殿を後にした。
外に出る。
視界が明るくなる。
扉が閉まる。
深呼吸をする。
「────」
前髪を結ぶ。手が震えている。
後髪を編む。指が震えている。
また、深呼吸をする。
「────あれ」
気付くと、自身の両目から大粒の水が溢れていた。
それが理解できなかった。ひたすらに可笑しかった。
「えー、何これ。馬鹿みたい」
乱暴に拭う。
溢れてくる。
扉に背をもたれ、座り込む。
「……うーん、まずいな。やらかしたかな。……まあいっか。あーあ」
鮮やかに揺れる水面を見上げて、届かない手を伸ばした。
「ごめんね■■■。アタシ、嘘ばっかりなんだ」
第二十二話 終
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