◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
────男は今日も銃を手に取る。
*The End of Prayers*
第二十三話
「ライフ・オブ・ガンスリンガー」
◆ ◆ ◆
銃声が響く。
硝煙が風に乗り、流れていく。
弾丸を浴びた獲物は容易く分解され、捕食者の中へと取り込まれた。
「────」
食事を終えると、ベルゼブモンは灰色の空を仰ぐ。
そのまま目を閉じる。必死に空気を身体に取り入れていく。──しばらくの間、そうして立ち止まっていた。
「……」
──頭痛がする。
ぐるぐると、ぐるぐると、目が回る。
存在しない浮遊感。落ちていく錯覚。沈んでいく錯覚。
水の底から見上げる無数の眼球。喰い殺した命。殺していく命。無数に伸びる腕。────幻覚。
食べなければ。
食べなければ。
こんなにも食べているのに。
意識が、自分という存在が、どうしようもなく引き摺り込まれそうになって。
────ふと、我に返る。
「……! ……っ」
目を見開いた。焦燥感が押し寄せ、慌てて周囲を見回した。
「……────」
自身の手の中。感じる温もりに気付き、安堵する。
「大丈夫。ベルゼブモン」
男を見上げ、少女が言った。
「ここにいるわ」
「……」
そして──また、歩き出す。
────安寧の館を離れ、二人は再びデジタルワールドを放浪していた。
生活するには問題なかったであろう城を、離れた理由はいくつかある。
ひとつは、毒に侵された男を、毒で侵された場所に置いておくのは危険だろうという事。
ふたつは、館には自分達だけで、もう他のデジモンはいなかった事。ベルゼブモンを長い間、空腹にしておけなかった。通常の食事を摂取できたとしても、彼の自我を保つ為にはデジモンを捕食しなければならない。
……持ち出せるものは持ち出した。調べられる事も調べた。あとは生きる為に、あの場所を手放したのだ。
ベルゼブモンの自我には、相変わらず波があった。
彼の自我が奪われている間、離れてしまわないように──カノンはずっとベルゼブモンの手を掴み続けていた。
自我がある時も、無い時も。彼が片手で銃を構え、獲物を撃つ瞬間も。
少女は相変わらず男の捕食対象ではなく、ただ無益な同行者のまま。それでも男は少女を側に置き続けた。
自我を得ている間の男の思考は、カノンには分からない。会話だって最低限の言葉だけ。──それでも構わないと、思う。
男の歩幅は以前よりも広くなっていた。
少女は少しだけ、急ぎ足で歩くようになった。
「次はどこに行くの?」
男はカノンに目線を向ける。
「どこだったら、逃げたまま生きていけるかしら」
人間である自分が、狙われずに生きられる場所へ。
────人間がデジモンに捕らえられ、利用されていた事を知った。
あの女性は亡くなったが、他にも、人間を狙うデジモンはいるだろう。
だから逃げなくてはならない。だが、同時に獲物としてのデジモンも探さなければならない。
矛盾している。それはカノンも理解していた。
「……俺は……どこでも、構わない」
少し遅れて、男が答えた。
「私は構うわ」
「……そうか」
「次もあなたが、あなたでいられる場所じゃないと」
あとは、できればお風呂があると嬉しいのだけど。……そんな贅沢なことも、少しだけ考えた。
「……ベルゼブモン、見て」
カノンは手を引っ張った。真っ直ぐに続く、朽ちた道の脇を指す。
そこに在ったのは、大きな直方体のガラスケース。土埃で汚れていたが、中に緑色の電話機がかけられているのが見えた。
「公衆電話……」
「……」
「どうしてこんな場所に」
繋いでいた手を離し、カノンは電話ボックスの中へ。
蒸し暑い密閉空間。錆びた金属のにおいと、土のにおいが混ざって鼻をつく。
かけられている電話機は、どこか懐かしさを覚える緑の端末だ。受話器を上げると、モニターに文字が薄く表示された。
ベルゼブモンはその仕草を見つめながら、「それは何だ」と問う。
「……。……遠くにいる人と、話ができるのよ」
少女は答えて、受話器を耳に当てた。
「番号を繋いで、話したい人の声を聞くの」
銀色のボタンを、白い指でそっと撫でる。
そして、ひとつずつ押していく。
「……カノンは……」
ボタンを押してみたところで──そもそもお金を入れていないので、接続すらされないのだが。
「……誰の、声を聞く」
「…………私は……。……──お母さんの、声が聞きたい」
それでも押したダイヤルは、母親の電話番号。
小さい頃にたくさんかけた、今はもう存在しない数字列。
「……。よく、……その名前を、呼んでいる」
「……そういえば、そうかもしれないわ」
カノンは思わず苦笑した。
「もう会えないけど、私の大事な人だったのよ」
「……」
ベルゼブモンは、少しだけ顔をしかめた。
「……それの……声は、聞こえたか」
「……ううん。聞こえない」
「遠く、でも……話せるんだろう」
「話せないわ。離れすぎちゃったの」
馬鹿みたいだ。──わかっている。こんな事は母の死後、数日もしてやらなくなったのに。いつもの世界では絶対に、もう二度と行わないであろう行為だ。
けれど……色々なものがあべこべな、この世界でなら────もしかしたら何かの間違いで、聞こえるのではないか。そう思ってしまう自分がいた。
そう、わかっていたのに。
「付き合わせてごめんね」
受話器を戻す。ガチャリと鳴った音が虚しい。
少女は外に出ようとした。しかし、ベルゼブモンが扉の前から動かない。
「ベルゼブモン?」
男は受話器に手を伸ばした。そのまま、カノンが行ったのと同じように、耳の部分に当ててみせた。
「……」
「……。……何か聞こえるの?」
「…………いいや」
つまらなそうに受話器を戻す。
「あなたは、誰の声が聞きたかったの?」
「……」
「誰かのこと、思い出せた?」
「……。……──カノンの、声は……」
「え?」
「この機械から、聞こえなかった」
少女は目を丸くする。
公衆電話の役割を、ベルゼブモンはそもそも知らないのだ。それに──
「当たり前よ。私、ここにいるもの」
「でも、言っただろう」
話したい人の声を聞くと。
────そんな事を、真面目な顔で言うものだから。
「……ばかね。話したいなら、たくさん話してくれればいいのに」
久しぶりに、本当に久しぶりに、少女は可笑しそうに目を細めて笑った。
◆ ◆ ◆
銃声が響く。
硝煙が砂塵に混ざり、流れていく。
乾いた地面に黒い液体が飛び散る。
それを踏まないよう、“彼”は慎重に飛び越えた。
弾丸を浴びた獲物は、データの塵となって飛散する。
その光は彼に取り込まれる事なく──風に乗って、銀色の長い髪をすり抜けて──消えていった。
獣の頭部を模ったマスク越しに、彼は周囲に誰もいない事を確認する。
赤黒い染みがこびり付いたマシンガンを抱え、襤褸切れのようになったオーバーコートを翻し、次の場所を目指して進む。
────そんな彼もまた、デジタルワールドを生きるデジモンの一人だ。
名を、アスタモンという。
完全体である彼は、かつてダークエリアの一角を治める領主として君臨していた。
しかし今はひとり。
目的地もなく、毒が蔓延るデジタルワールドを彷徨っている。
「……デジモンは……だいぶ減ったな」
小さな独り言は、風の音で掻き消えた。
「いつか、私だけになるのだろうか」
誰に届くこともない声が、風の中に消えていった。
────完全体のデジモン達で協力し、ダークエリアを統治して以来。流れていく日々は穏やかで、まさに、平和と呼ぶに相応しいものだった。
土地柄、外部に比べ卑劣な生存競争は多かったが……それでも昔よりは幾分もマシだろう。
家臣にも恵まれた平穏な生活。少々の物足りなさはあったが、領主である身分を考えれば仕方のないことだ。
だが。
『────アスタモン様!』
『■■が仲間を喰い始めました! アスタモン様!』
長い時間をかけて築き上げた日々は、ものの一瞬で崩れ去ってしまった。
『助けて! 痛い!』
『やめろ来るな! 食べないでくれ頼む!』
毒に汚染された一体の家臣が、次々と他の家臣を喰い荒らしていった。
喰われた家臣は起き上がり、また他の家臣を喰っていく。
地獄のような連鎖。
私はそれが、かつて同胞達との話に出た、ウイルス種に特異な反応を示す毒だとすぐ理解した。
家臣は自分に助けを求めた。
領主であればこの事態を収めてくれると。自分達の事を、救ってくれると。
そして私は────ああ、何ということだろう。その手を取らなかったのだ。
私は玉座でただ見ていた。
家臣が、城が、領地が滅んでいく様を。
悲しくはなかった。己の無慈悲さに、驚きはしたが。
『もうここは駄目だ!』
『おい待て! 逃げるなよ! 戦って城を守れ!』
『アスタモン様! 貴方も早く逃げてください!』
何故自分は、彼らの手を取らなかったのだろう。見捨ててしまったのだろう。
……そう自分に問うが、答えは清々しいほど明白だった。
美しかったのだ。
生きようとして殺し合い、飲まれていく彼らの姿は────本来在るべきダークエリアの姿、そのものに見えたから。つい、見惚れてしまったのだ。
誰かが生きようとする姿は、こんなにも美しいのだと!
『アスタモン様……いつかまた、我らを見つけて下さったなら……次も、お側で仕えさせて下さい』
『────ああ、そうだね。また会おう』
そうして、愚かなアスタモンはひとりになった。
全てを見捨てて、襲い来る家臣を一人残らず撃ち滅ぼして、ひとりになった。
後悔が無いと言えば嘘になる。罪悪感が無いと言えば嘘になる。
しかしそれ以上に、私の心には「失望」が渦巻いていた。
私は外の世界で──あの城の惨劇と同等以上の、美しいものが見られると期待していたのだ。誰もが生を求め、もがき合う姿を。
けれど、デジタルワールドは想像以上に毒に侵され……多くのデジモン達は生き延びる事さえ諦めていた。生き延びたデジモン達も、なるべく戦わず争わず、ひっそりと生き抜く事を選んだ。
そうして世界には、戦えるデジモンは殆どいなくなってしまって。
自分に立ち向かってくるのも、毒に自我を奪われたウイルス種ぐらい。
もう美しいものは見られない。
ならば生きていく理由もない、とさえ思う。
にも関わらず、思った以上に────毒と相性が悪い筈の自分は、不思議と生き残ってしまっている。
まだ死ねないと、まだ生きろと、私の中の本能が叫ぶ。
やり残すな。あと一度だけ。そう叫んで、私を死なせてはくれないのだ。
────ああ、確かにその通りだ。
せめて、あともう一度。
滅びゆく世界の中で──あの美しい光景が、もう一度見られたなら。
それだけを願いながら。
アスタモンは今日も、デジタルワールドを生きていく。
◆ ◆ ◆
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