◆ ◆ ◆
「ああ……あああっ……!!」
カノンは叫びながら走り出す。
そんな少女の姿を、胸を裂かれたアスタモンが見つめていた。
倒れたベルゼブモンに視線を落とす。
「……ありがとう。……君のおかげで、私はまた……美しいものを、見られたよ」
そう言って、動かなくなった黒い男に──アスタモンは獣のマスクを外すと、胸に当てて頭を下げた。そしてまた、自身の血にまみれたマスクを深く被る。
「君と、戦えた事を……生涯で何より、誇りに思う……。
…………約束は、守るとも。……私の命も、どれだけ続くか分からないが……」
命を懸けて戦ってくれた彼に、賞賛と敬意を。
だからこそ、約束は守るべきなのだ。
アスタモンは少女を探す。
駆けて行った彼女は、もう視界の中にいなかった。……何処へ行ってしまったのだろう。彼が死ぬ様を見ていられなくなったのだろうか。──だが、見つけなければ。
改めて周囲を見回す。……眩暈を起こす。
目を閉じる。頭が回る。
「……」
ああ、身体が熱い。
受けた傷が痛い。
命を懸けた代償が苦しい。
また、生き残ってしまった事も苦しい。
けれどこれが代償ならば。痛みも苦しみも総て、この身で受け入れなくてはならないのだと──アスタモンは思った。
────直後。
体内に広がる苦痛の中、アスタモンは異変に気付く。
「……何だ。これは……」
酷く、酷く。自らの内に違和感を覚えた。
「……? ……──ッ!? ぁ────」
それは
ベルゼブモンの爪痕から侵食する。
ベルゼブモンの血溜まりから侵食する。
ベルゼブモンに触れた部分から、自分の中に、何かが。
「……──あぁ……何て事だ。まさか……そんな、」
銀の髪の男。アスタモン。
彼の世代は完全体。魔人型のウイルス種。
ウイルス種であるが故に、彼は────決してベルゼブモンの肉体に、血液に、直接触れてはいけなかった。
「……ぐ、ぅ、がぁ、ああああっ……!」
眩暈が酷くなる。頭が割れるように痛む。
「ァぁあ……き、君は……ベルゼブモン、君は、毒……を、受けて……いたのに……なのに、君は、どうして」
どうして、そんなにも意思を持って、自我を持って────誰かを守る為に、戦えていたのか。
「駄目だ……毒は駄目だ! だめだ駄目だダメだ……!! あの姿で生き延びるくらいなら! 私は!!」
慟哭する。拒絶する。あれはただの死体だ。ただ動いて、意味もなく他者を喰うだけのデータの塊だ!!
そんな状態で命を続けるというのなら────嗚呼、ベルゼブモン。きっと私は、君の様には成れないから────。
「────聞け! 人間の娘!!」
姿を消した少女に向けて、叫ぶ。
「悪いが約束は守れない!」
傷が熱くなる。胸が苦しくなる。頭痛はより一層、酷くなる。
「許せ……! だ、だが……きっと、き、君を! 見つける、者がいる! だから、それまで……そ、それ、ま、ままで……ッ!」
生き残れ。──たった一言、その言葉さえ口に出来ない。
もう限界だ。
消えた少女に自分の意志を伝えきれなかった。その事だけを悔いながら────アスタモンは自身のマシンガンを取り、銃口を顔に向ける。
これで終わりだ。大丈夫。まだ間に合う。
────最期に、自分の願いが叶って良かった。
アスタモンは、穏やかな顔で引き金を引いた。
マシンガンは、既に弾切れを起こしていた。
◆ ◆ ◆
金属がコンクリートに落下し、耳をつんざくような音を立てた。
銀の男の全身に冷や汗が湧き出る。
呼吸が荒くなる。
慌てて、自らが手にかけた男を起こそうとする。
返事はない。
黒い男が投げつけてきたショットガンを拾う。改めて、口腔に突き立てる。
トリガーを引く。
軽い金属音が響いた。銃弾は、出てこなかった。
「────、」
アスタモンは膝をついた。
自身の中へ侵食していく『何か』を確かに感じながら、痙攣する両手を呆然と見つめていた。
「……。……そうか……あ、あぁ、そう、だな。と、当然だ」
これは報いだ。
全てを見捨てて生き残った自分への、罰なのだろう。
そう言い聞かせる。
絶望の中で、残された自我の中で、記憶の中で────かつて共に笑い合った、仲間達の姿を思い出して────。
────────誰もいなくなったステージに、乾いた銃声が響くのを聞いた。
◆ ◆ ◆
銃声が響く。
硝煙は砂塵に混ざり、空へ昇る。
アスタモンは、ゆっくりと振り向いた。
「────」
逃げ去った筈の少女がいた。
座り込んで、みっともない程に泣きながら────あの時撃ち落としたショットガンを、両手にしっかりと握っていた。
銃口からは硝煙が上がっていた。
それを見て、気付く。
自分の胸に、大きな穴が開いていることを。
胸の穴から、美しい光の粒子が溢れている様を。
「……」
少女は相変わらず泣いていた。
アスタモンは、光溢れる自身の傷口をそっと撫でて、
「…………良い腕だ」
少女に優しく微笑みかける。
「お嬢さん、ありがとう」
そして────安心したように、目を閉じた。
銀の男の身体は、そのまま光に包まれ分解する。
毒に飲まれる事なく、彼はその生涯に幕を閉じた。
カノンは一人、静かになったステージを歩く。
震える足で、銃を握りしめたまま。大粒の涙をずっと零したまま、ベルゼブモンの元へ。
「…………ベルゼブモン」
倒れた姿は、まるで、地下で出会ったあの頃を思い出すようで
「ベルゼブモン……。……ベルゼブ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
辺りはとても静かだ。
自分の心臓の音が聞こえる。大きく、それだけが聞こえてくる。胃に重い違和感を覚える。
血のにおい。金属のにおい。硝煙のにおい。鼓動は跳ねるように大きく動く。
少女の口から漏れた息は震えていた。手も、ひどく震えていた。
ああ、あの頃と同じように、どうか。
どうか、神様。
「────お願い……」
生きていることを祈りながら、ベルゼブモンに手を伸ばした。
────白い指で、そっと、黒い男に触れていく。
金色の髪を撫でる。
頬を撫でる。
唇を撫でる。
白い太ももに、血まみれになった頭部を寝かせる。
「…………ベルゼブモン……」
──少女の手には確かに、男の体温が感じられた。
「……ねえ……あの時みたいに……」
まだ、生きてくれていた。
けれど腹部からの出血は止まず、足元に水溜りが広がっていく。
「……これで……元気になって、くれたら……」
此処には誰もいない。
助けは呼べない。呼ぶ手段もない。
このままでは彼が死んでしまう。
なのに──自分には何も出来ない。ただ触れるだけしか出来ない。
せっかく、生きていてくれたのに────。
「……」
ふと。
カノンは目の前に、光の粒子が浮遊していることに気付く。
────先程まで、アスタモンだったものの光。
「……!」
カノンは思わず顔を上げた。
煌めく光は風に舞って穏やかに───まるで意思でも持つかの様に、男の傷へ溶けていく。
────捕食とは本来、倒した対象のデータを取り込むことで経験値とし、自身のデータを強化していく事象である。
けれど今、彼に宿るのは完全体デジモンの莫大なデータ。洗練された強力なデータ。それらは捕食者の肉体を──内側から修復させていく。
ベルゼブモンの出血が止まった。
腹部の穴からの、内容物データの崩落も止まった。
致命傷はそのままに。──それでも、今この瞬間の命だけは、確かに繋がれたのだ。
そして、
「────」
男は意識を取り戻す。
「……ベルゼブモン……!」
ぼやけた視界。
少女が泣いている。
傷が酷く痛む。
自分は、どうして────
「……。……!」
────取り込んだアスタモンのデータ。カノンとの接触。
合わさったそれらが、ベルゼブモンの焼けた脳を改変させる。
男は理解した。此処で何が起きて──自分が今、どのような状態であるのかを。
「────」
ああ、生きている。
自分は生きている。
二人で、生き残った。
「……カ、……ノ、ン」
少女のあたたかい涙が零れ落ちて、男の頬を伝う。
黒い腕を必死に伸ばして、そっと、白い頬に手を当てた。
無理矢理に、起き上がる。傷口から少しだけ、彼のデータの粒子が零れた。
それでも構わない。
動く男を制止しようとする、少女の背中に手を回して、
「カノン……」
抱き寄せる。
強く、抱き締める。
少女は「痛いよ」と声を漏らした。
ベルゼブモンはそれでも離さなかった。
生きている証を、互いの体温を────求めるように、懸命に感じ続けた。
◆ ◆ ◆
夕暮れ。
灰色の空は、濁った橙色に染まる。
遊園地は影に覆われた。非常灯が起動し、園内をぼんやりと照らしていく。
ボロボロになったショーの広場は、ひどく暗いオレンジの空間。放課後の体育館のようで、非常灯の明かりは届かない。
遠くに葉擦れの音を聞きながら、カノンとベルゼブモンは静かに佇む。
ベルゼブモンは横たわっていた。身体の至る場所に銃弾を受け、拳大の大きさの穴を腹部に空けられ────ロードによって一時的に命を取り留めたものの、もう、立って歩くことはできなかった。
カノンは、そんなベルゼブモンに膝を貸す。
男の額を撫でながら、小さな声で音階を口ずさんでいた。
「それは、何だ」
ベルゼブモンは目を開けて、問いかける。
「……昔よく、聞いてた曲。本当は、もっと綺麗なんだけど……」
カノンは寂しそうに微笑んだ。
「あなたにも聞かせてあげたかった。でも、落としてきちゃったから」
母からもらった音楽プレイヤー。この世界に来た時、どこかに落としてきてしまった。
「……いい。お前ので、いい」
「……勿体ないわね」
「いいんだ」
ベルゼブモンの声は、より鮮明に、流暢に発せられるようになっていた。
「手は、痛むか」
少女の手首が腫れている。銃を撃った反動で痛めたのだ。
「平気よ。大丈夫」
「……。……すまなかった」
「……どうして?」
「……あんな事をさせる為に……俺はお前に、教えたわけじゃなかった」
少女の銃弾がアスタモンの命を終わらせた事実を、ベルゼブモンは認識していた。
データと共に、彼の知識と最期の記憶が、男の中に取り込まれていたからだ。
……おかげで、少女とまともに会話できるようになった事は──「よかった」と思っていた。
ようやく、彼女ときちんと話す事ができる。
「いいのよ」
カノンはそう言って、男の頬に両手を当てた。
「……すまない」
「謝らないで」
「……お前を……ずっと、付き合わせてきた」
「私がついて行ってただけよ。あなた本当は、ひとりでも生きていけたのに」
「……それなのに……、……俺はここで、こんな所で……──お前を、ひとりにする」
「…………いいのよ」
この状態の肉体では、もう長くは生きられないだろう。
それを誰より、彼自身が理解していた。理解できるようになってしまった。
だから────さあ、何を話そう。残された時間の中で。
「……カノン」
「何?」
「……足は、痺れないか」
「全然、平気だわ」
「……寒くないか」
「大丈夫。あなた、温かいから」
「……怖くは、ないか」
「……」
「……カノン……。……カノン、」
「…………どうしたの、ベルゼブモン」
「俺は……──こういう時、何を話せばいい」
「……。……聞かれると、難しいわね」
カノンは苦笑する。
「……私ね、……本当はデジモンの事、あまりよく知らなくて……。……あなたの事だって」
この世界の事も、デジモンの事も、よく知らずにここまで来てしまった。
ベルゼブモンについても結局、きちんと知らないままだ。
「デジモンは色々な姿をしてるから……どうやって産まれるんだろうって、不思議だったの。あなたにも、小さい頃があったのかしら」
「……。……俺達は……産まれてこない。……らしい。自分のデータを……新しく、作り直すだけだと……」
そう、自分の中に入ってきたデータが言っていた。
「……その時は……タマゴで、生まれるそうだ」
「……」
自分達とはあまりにかけ離れた生態に、カノンは驚く。
そして、思った。彼の言葉が本当ならば────
「────もしも、あなたが……タマゴになって生まれて来るなら……ベルゼブモン。私また、あなたと会えるかしら」
その言葉に、ベルゼブモンは目を丸くした。
それから、可笑しそうに目を細めてみせた。
「……ああ、そうだな。……きっと」
「そうしたら──ねえ、また会えた時、わかるように」
そう言って、カノンはセーラー服のスカーフを手に取った。
赤いスカーフ。ベルゼブモンとおそろいのそれを、交換する。
また会えたら、お互いに返そうと────約束を交わして。
「……それまで、生きていられるのか?」
「大丈夫よ。私、ここでは何も食べなくたって死なないの」
もうとっくに、身体はおかしくなっているから。そう、自嘲気味に笑った。
「……──探しに行くから、待っていてくれ」
ベルゼブモンはカノンの頬を撫でて微笑む。
嬉しそうで、寂しそうで────とても、悲しそうだった。
◆ ◆ ◆
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