◆  ◆  ◆




 夜が来る。

 朝が来る。

 ベルゼブモンは眠っている。
 掠れた細い呼吸だけが聞こえてくる。

 彼は目覚めない。
 呼びかけても返事はない。
 このまま眠っているうちに、元気になってくれたらと────少女が何度願ってみても、どうやら叶いそうにはなかった。

 空が白んで、非常灯が消えて、辺りが少しだけ明るくなる。

 少女の涙は枯れなかった。
 それでも彼に語りかけながら。
 小さく音階を口ずさみながら。
 彼の頭を、頬を撫でて。そうしてベルゼブモンの側を、片時も離れなかった。

 開園時間になる。
 来客はひとりもいない。
 すると、動かない筈のスピーカー達が、ピアノのメロディを奏で始めた。
 少女が口ずさむ曲と、同じものが流れている。


 “ ────泣いているのか。”


 どこからか声が聞こえた。
 鍵盤の音色に混ざって、その声は語りかけてきた。

 “ ────どうして、君は泣いているんだ。”

 優しい声だった。
 それが誰なのかは問わず、カノンは答えた。

「……また……大事な人が、いなくなるの」

 “ ────彼は、死んでしまったのか? ”

「いいえ……いいえ、まだ、生きてる。でも……もう、返事もしてくれない……」

 “ ────それが、悲しいのだね。 ”

「……すごく、苦しい……」

 上擦った声で、訴える。

「……起きて……私のこと、呼んで……。……っ名前……呼んで、欲しかったの。一緒に、色々な場所、また行って……生きて、いって」

 あたたかな涙が男の頬を濡らす。

「……ううん。それができなくてもいい。それでもいいから……」

 そのまま地面に零れて、消えた。

「ただ……生きていて欲しかったのに……ッ」


 “ ────どちらかを、選ばせてあげよう。 ”


 その言葉に、カノンは泣き腫らした顔を上げた。

「……え……?」

 声は少女を落ち着かせるように、諭すように、奇跡のような言葉を紡ぐ。

 “ ────彼を治して、生かしてあげよう。けれど、代わりに君は彼と会えなくなる。
   ────彼を死なせて、新しい命に変えてあげよう。君はまた彼と会えるかもしれない。”

 けれど後者を選んだ場合、彼の記憶は失われるだろう。
 そう付け足して、声の主は選択を迫る。

 “ 彼の灯が消えるまであと少し、ゆっくり考えるといい。”

 カノンは息を呑んだ。
 この声の主が誰だかは分からないが、本当にそんな事ができるのだろうか。

 もし、本当だとしたら──……。

「…………」

 ────思い出すのは、もう何年も前の母の葬儀。

 冷たくなった頬を撫でた。もう会えないことを悟った。
 白い花を手向けながら、当時の私はぼんやりと思った。

『ああ、もう会えなくてもいいから、せめて遠くで生きていてくれればよかったのに』

 生きてさえいてくれれば。二度と会えなかったとしても、見知らぬどこかで、いつかの未来で────彼女がまた、幸せを謳う瞬間があったと思えるから。

 失意の中、そんなあり得ない可能性を願ったのだ。
 あの時に撫でた頬は人形のもので、本当はどこかで生きているんじゃないかと思って。願って、すがって──持ち主を無くした番号に、電話をかけてみたりして。

 そんなものは無駄だと、叶うわけがないと、わかっていたのに。

「……ベルゼブモン」

 人間は生き返らない。
 デジモンも。記憶を失い、新しい命として生まれ変わるなら……それは生き返ることにはならない。

 どちらも同じだ。結局は。

「…………私は、……──彼に、生きていて欲しい」

 二度と会えなくなったとしても。
 もう失わなくていいなら。生きてさえいてくれるなら。
 どこかで笑ってくれていると、信じる事ができるから。

 あなたはあなたのまま、また世界を見る事ができるから。
 あなたの思い出の中で、私は生きていく事ができるから。
 例え忘れてしまっても構わない。私がそこにいた、その事実だけは揺るがない。

 ……ああ、『生きてさえいれば』なんて、自分勝手の酷いエゴだ。
 それが分かっていながら、それでも私は────。


「さようなら、ベルゼブモン」


 両手で、男の頬を覆う。

「ねえ、生きていてね。大丈夫。あなたはひとりでも、ちゃんと生きていけるんだから」

 頬を撫でる。額を撫でる。
 ぬくもりを忘れてしまわないように。

「……私と……ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」

 そして、手を離す。
 涙を拭った。少女は立ち上がった。

 “ 君の選択は決まったようだ。なら──── ”

 スピーカーから流れていた音が、止んだ。


「────さあ、願いを叶えてあげよう」


 すぐ近くで声が聞こえた。
 少女は振り向く。

 そこには────黒紫の鎧を纏った、巨大な騎士が立っていた。




◆  ◆  ◆




 いつの間にか、夢を見なくなっていた。

 コールタールのような液体。その海に身体が沈む夢。
 目を閉じる度に見ていた悪夢は、もう、見なくなっていた。

 意識の水底。廃棄物の山。瓦礫の隙間に見た白い花。
 それを目指して登っていく、小さな誰か。

 あれは誰だっただろうか。
 今なら、少しだけ分かる気がした。
 だからもう──この夢を、見せつけられる必要は無いのだと思える。

 どんなに頭の中で声がしても、どんなに本能に駆られても。
 暗くて黒い意識の中、それでも自分を呼ぶ声が在った。
 ぬくもりが在った。小さな、白い光が在った。

 それに気が付いてからだろう。
 目を閉じることはもう怖くない。眠ることも怖くない。
 もう、夢は見ない。

 それはきっと、今日も同じ。

 目を覚ませば、今日もモノクロの世界が広がっている。
 目を覚ませば、今日も側にあの子が居る。

 名前を呼んで、手を取って、何処かを目指して歩いていくのだろう。

 そう信じていた。

『────なあ君。信じているなら、早く目を開けてみればいいじゃないか』


 ……いつもと違う声が、頭の中でそう囁いた。




◆  ◆  ◆




 灰色の空が眩しい。

 目を覚まして、思わず腕で目を庇った。

 自分の咄嗟の行動に驚いた。どうして、腕が動かせるのだろう。
 しばらく腕を見つめて────恐る恐る、自身の腹部に触れてみる。

「────」

 傷が無い。
 身体中、あんなに撃たれたのに。
 あれだけ腹を吹き飛ばされたのに。

 何が起きたのか、彼には理解できなかった。
 しかし────ああ、奇跡が起きたのだと、ただそれだけを理解した。
 あの時と同じ。地下で消えていく筈だった自分が、外に出られたのと同じように。

「…………」

 ベルゼブモンは『嬉しい』と感じた。
 安堵よりも何よりも、その感情が一番に湧き出た。
 
 生きていると。
 生きていられると。
 自分はまた────彼女と、生きることができるのだと。

 彼は少女の名を呼んだ。
 少女は近くに居なかった。
 何か、探しに出かけたのだろうか。何度も名前を呼びながら、広場の辺りを探して回った。

「……」

 二人で回った場所を歩く。
 彼女が笑った場所を歩く。
 
 歩く。歩く。歩いていく。


「────カノン」


 名前を呼んだ。

 少女はもう、どこにもいなかった。







第二十三話  終





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