◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それらは全て生命の為に。
それらは全て博愛が故に。
それらは全て世界の為に。
*The End of Prayers*
第二十四話
「天の塔」
◆ ◆ ◆
夢を見る。
イチョウ並木のトンネル。晴れた日の午後。
木漏れ日が差す広い車道。
品のある一軒家が群れを成す────私が、ずっと暮らしていた街。思い出の風景。
……ああ。
この夢は、前に何度も見たことがある。
私は部屋から外を見ている。
誰もいない車道を見ている。
私は公園に立ち尽くす。
誰もいないブランコが揺れる。
母から貰った音楽プレイヤーからは、何の音も流れない。
どうして、此処にいるんだろう。
どうして、誰もいないんだろう。
どうして、私だけしかいないんだろう。
「────」
名前を呼んだ。
私の口から溢れたのは、母の名前ではなかった。
◆ ◆ ◆
目を覚ます。
瞼の隙間から差し込む光に、カノンは強く瞬きをした。
視界には白が広がっている。
白い天井。白い壁。少しだけ目線をずらす。窓が無い壁には、何故か乳白色のカーテンが取り付けられていた。
ゆっくりと体を起こす。白のキルトケットが擦れ、静けさの中に僅かな音を立てた。────眠っていたベッドはどこか清潔感があって、学校の保健室を思い出す。
「……」
白に彩られた無機質な空間。
ここはどこだろう。
自分は、いつの間に意識を失っていたのだろう。
最後の記憶は────あの時、朽ちた遊園地で。
願いを叶えると言った誰かが、後ろに立っていた。
ベルゼブモンを助けてくれると言ってくれた、その人の手を──
「────気が付いたか?」
聞き覚えのある声が、白い部屋に反響した。
少女は顔を上げ、振り向く。部屋の隅には大きな騎士が立っていた。
白の景観に合わない黒紫色の鎧を纏って、赤い瞳で少女を見つめていた。
「気分はどうだ」
低く落ち着いた声が問う。
カノンは少しだけ戸惑いながら、頷いた。
「それなら、良かった」
笑っているのか、どうなのか。騎士の顔面はバイザーの様な造りになっており、瞳以外の表情は読み取れない。
「…………ベルゼブモンは?」
少女の第一声に、騎士は興味深そうに目を開いた。
「他にも問うことはあるだろうに、まず彼の安否とは」
すると、黒紫の騎士は白い壁の側へと寄る。カーテンだけが取り付けられた壁。まるで、そこに窓でもあるかのように──そっと掌を当てた。
直後、騎士が触れた場所に光が浮かんだ。
ネオン管が発する光によく似たそれは、幾つにも分岐して流れていく。
カーテンが揺れた。壁を流れる光は長方形を描いた。長方形のスクリーンに、ホワイトノイズが一瞬だけ映り込んだ。
そして、
「見せてあげよう」
スクリーンに映し出された光景。
灰色の空の下。無機物に溢れた灰色の大地。
そこには────ひとり彷徨う、ベルゼブモンの姿が在った。
「現状、彼の経過は良好と言える」
足取りは重く、しかし縺れることなく、彼は確かに歩いていた。
身体中に刻まれた銃創は、その爪痕さえ残されたものの──もう、一滴の血液も垂らすことはない。
「君から見てどうだろうか。彼に、不具合は」
彼は生きている。生きて、世界を歩いている。
「────」
その現実を目の当たりにした、カノンの両眼から涙が溢れた。
ぽたりぽたりと零れ落ちて、セーラー服の襟を濡らしていく。
「問題が?」
「いいえ。……いいえ、十分だわ」
ベルゼブモンから視線を逸らせないまま、しかしはっきりと騎士に伝える。
「ありがとう。彼を、助けてくれて」
「勿論だ。約束したのだから」
騎士は満足げに答えると────再び壁に手を触れた。
壁に投影された映像は、電源を落としたように切れて消える。
あ、と声を上げ、カノンは咄嗟に壁に手を伸ばした。その行為は意味を成さず、彼がいた場所はただの白い壁に戻る。
「……」
届かない手を、そっと下ろした。
言葉にならないたくさんの感情が──泉のように湧いては溢れ、零れていった。
騎士はその様子を気に留めることなく、「ところで」と話を続ける。
「この場所へと来てもらった理由について、話をしたい」
「────」
その言葉に、カノンは目線だけを騎士に向けた。
何も、驚く事はない。
彼の善意には、少なからず理由と目的がある。……予想はしていた。当然だ。
それでも嫌悪感は抱かなかった。それどころか──彼はあまりに優しく、そして親切だとさえ思う。もし彼が、最初から自分を騙すつもりだったなら──そもそも自分の願いなど、叶えてくれないだろうから。
「協力してもらいたい事がある」
騎士は礼儀正しく告げた。
「人間である君にしか、できない事だ」
人間にしかできない事。……それを聞いて、頭に浮かんだのは二体のデジモンだ。
ベルゼブモンと戦った銀髪の男。彼は、人間の価値に気付いていた。
嘆きながら毒に溶けた女性。──彼女が残した手記。人間を利用し、何かを試そうとしていた事実。
「────」
これは直感だ。
きっと目の前の騎士も、同じなのだろうという直感。
人間 などという生き物を殺さずに捕らえるという事は────きっとそういう事なのだ。
「……私は、何かに使われるの?」
「おや」
意外、と騎士は目を丸くした。
「話が早そうだ。どこまで知っている?」
「……細かいことは、何も」
「それはまた中途半端な」
騎士は手を顎に当て、悩ましそうな素振りを見せる。どこから話すべきか、と。
「先に大切な事を伝えておこう。この場所において、君という個人の命は保証される」
「……」
「だから安心してほしい。そしてどうか、我々に手を貸して欲しい」
懇願する紅い瞳────その眼差しは真剣で、誠実で、そして優しかった。
ベルゼブモンを救った彼を、カノンは信じることにした。それ以外に選択肢も無かった。疑ったところで何も出来ないと分かっていたからだ。
騎士の顔を見つめて、「話を聞くわ」と答える。すると、赤い瞳は嬉しそうに細められ──
「改めて、自己紹介をしよう。
私はクレニアムモン。この天の塔を守護する存在だ」
騎士──クレニアムモンは、胸に手を当て頭を深く下げた。
「 優秀な回路を持つ人間 。君の、名前は?」
「……。────私は」
そしてカノンは、騎士に自身の名を告げる。
◆ ◆ ◆
騎士が白い床に膝を付け、見上げてくる。
その様を、カノンは緊張した面持ちで見つめていた。
────デジモンは、毒に溶けた彼女らは、人間に何を求めていたのだろう。
そして、
「君に頼みたいのは、我らが世界の救済だ」
クレニアムモンは言い切った。あまりにも、非現実的な一言を。
カノンは一度だけ目を見開いた。彼が述べた“結論”は残念ながら、少女にはすぐに受け入れられない内容だった。
突然、何を言い出すのだろう。カノンは思わず怪訝な表情を浮かべる。
「話が大きすぎて、見えてこないわ」
「そうだろうな」
だが、クレニアムモンも少女の反応は想定していたようだ。
「この私も、突然そう言われたら同じ顔をするだろう」
「……」
世界を救う。……その言葉の意味を、彼女なりに考えてみる。
言葉通りに受け取るのなら、つまり世界は、救われなければいけない状態にあるという事だ。
「……。……確かに、そうなのかもしれない」
「と、言うと」
少女が男と生きた世界
荒廃していて、退廃していて────ひたすらに命が消えていく。そんな物悲しい世界。
「世界は、こんなに静かじゃなくて……デジモン達だって、もっとたくさんいて……」
そう、きっと。
ピヨモンの街には活気に溢れて、あの女性の城は栄光に輝いて、彼と巡った場所には、たくさんの命が在って。
あの遊園地も鮮やかに、賑やかに。皆、ハートの風船を手に笑顔を浮かべて。
そんな光景が在ったのだろう。そんな世界だったのだろう。その跡を、自分とベルゼブモンは確かに見てきたのだ。────それがいつから変わってしまったのかは、分からないけれど。
「正しい感覚だ。毒さえなければ、世界は美しいままだった。輝ける命に溢れていた。
君は見た事があるかね? 毒が全てを飲み込む様を。命が溶けていく瞬間を」
クレニアムモンは外套を揺らして立ち上がる。
「この世界の惨劇は、その原因も、目指すべき未来も……言葉にするだけならあまりに容易い。なんとも、簡単かつ明解だ」
しかし実行するのはあまりに難しいのだと、声を落とした。
「そこで、鍵を握るのが君達だ。
人間の体内に通う特殊な神経回路が……およそデジモンとの同調にしか使い道の無いそれが……我らデジモンと同様、生命の欠片が集うデジタル生命体たるこの世界に、素晴らしい影響をもたらし得る。────そう、我々は結論付けた」
金属の音を立て、両手を少女に向ける。
「君が、 ベルゼブモン を毒から救い、生き永らえさせたように」
「────」
毒から救った?
カノンは動揺した。──そんな事はしていない。したくても、出来なかった。
自分はただ、彼について行っただけだ。彼の背中に身を隠し、生き永らえていたのは自分の方だ。
「私は、彼に守られていただけだわ」
「ああ。しかしまた、彼を救ってもいた」
「……私の、……回路が?」
「そうだとも」
「…………」
今まで、心の中に渦巻いていた疑問。
そのいくつかが音を立てて崩れていく。長い時間を経て、彼女はようやく理解出来たのだ。
「カノン君。君が持つ回路は素晴らしい。その素質も、量も、何もかも。だから私は君を選んだ。だから君は、世界に選ばれた」
デジモンが人間を求める理由を。自分がこの場所に来た理由を。赤い色の悪魔に、この世界へ連れてこられた理由を。
「……だから、他のデジモンも……人間を使って……」
「君達という存在を求めた誰もが、きっと同じ目的を抱いただろう。世界を救う為に、黒い毒を消す為に、人間の力を求めていた」
「…………人間を使えば、毒を消せるの?」
「ああ。可能だろう」
「……もし、あの黒い泥を消せたら……ベルゼブモンはもう、苦しくない?」
あの黒い液体さえ無ければ。
彼はもう、デジモンを食べずに生きていけるのだろうか。空腹に、恐怖に、痛みに苦しむ事もなくなるのだろうか。
その目に色は映らなくとも、青空の下で。もう黒く汚れていない鮮やかな世界で────生きていく事ができるのだろうか。
「勿論だ」
クレニアムモンは微笑み、肯定した。
「……」
────ああ、それは、なんて嬉しい。
「それで彼が救われるなら、私にできる事をやるわ」
その時、彼の隣に自分が居られないのは────とても悲しいけれど。
クレニアムモンは「ありがとう」と言って、カノンに手を差し出す。
カノンは手を取った。クレニアムモンは膝をつくと、少女の手の甲に自身の額を寄せた。
「私は、何をすればいいの」
「君はただ、この場所で生きてくれていればいい」
「それは……」
「君自身は何もしなくていい。何かをするのは我々だ。我々がただ、君の回路の力を借りる。それだけの事だ。
疑問は生まれると思うが……先程も言ったように、命は保証される。外傷は負わない」
クレニアムモンは、手を離した。
「すぐにでも取りかかりたいところだが、準備に少々時間がかかる。それまで休んでいるといい。
それと……もし何か用件があったら、私か同志を見つけて声をかけてくれ。塔のどこかにいるだろうから」
「部屋を出ても構わないの?」
「ああ。だが塔の外には出られない。申し訳ないが、セキュリティの都合だ」
「……大丈夫。わかってるわ」
それでは失礼する。そう言って騎士は胸に手を当て、軽く頭を下げた。
くるりと踵を返す。金属音を立てながら、出口と思わしき壁の凹凸に触れる。壁の一部が自動ドアの様にスライドして開き、クレニアムモンは部屋から出ていった。
「……」
その姿を無言で見送る。
扉が閉まると、部屋の中が静かになった。
カノンはベッドから降り、広い部屋の中を回ってみた。
指で白い壁をなぞっていく。当然、光は浮かばない。
窓が無いカーテンの向こう側。白い壁に額を当てて、目を閉じた。
「────ベルゼブモン……」
彼は今、どこにいるのだろう。
自分は今、どこにいるのだろう。
本当にもう会えないというのなら────自分はきっと、彼が到底辿りつけないような場所に居るのだろう。
「きっと、空の上なんだわ」
そんな独り言をこぼして、ひとり。呆れたように笑ってみる。
「……」
────どうか。
あなたが、無事に生きて行けますように。
大丈夫。今までずっと守ってきてくれたあなたを、今度は私が助けるから。
大丈夫。私は思っていたより、ずっと優しくしてもらえているから。安心できる場所に居るから。
大丈夫。大丈夫。きっと私は、これからも大丈夫。
願うように、言い聞かせるように、魔法の言葉のように唱える。
それから何度か深呼吸をして、カノンは立ち上がった。この部屋にずっと居るのは、それはそれで息が詰まりそうだったから────少しだけ、外の空気を吸いたくて。
騎士が出ていった後の、凹凸が目立つ壁の前に立つ。
扉が開く。無機質な部屋から、抜け出していく。
◆ ◆ ◆
→ Next Story