◆  ◆  ◆



「ホストコンピューター、と言えば分かりやすいでしょうか。主が座するこの塔は、世界の管制室とでも」

 つまり、画面に映る美しい部屋はサーバルームのようなものだ。
 そんなマグナモンの説明を他所に、カノンは目を輝かせながら純白の部屋を見つめていた。

「……違うわ」
「違う?」
「だってそれは……それができるのは、神様だけだもの。だから……」
「……そうですね。確かに、その表現が最も相応しい」

 マグナモンはどこか嬉しそうだった。──しかし直後、その表情を曇らせる。

「ですが同時に……この世界に広がる厄災の原因であり、根源でもある」
「……」

 その言葉が、何を意味しているのか。カノンが理解するまでには、僅かな時間を要した。

「……神様から、毒が生まれたの?」
「ええ」

 どうして、と目で訴える。マグナモンは目を伏せ、告白した。

「……過去から続くこの厄災は、元を辿るなら── 世界 我が君 が、膨張し続けるデジタルワールドに耐えられなかった故に起きた事。
 言ってしまえば、リソース不足です。そんなつまらない、本当にくだらない理由で……あまりに多くの命が消えてしまった」

 ────それが、世界が毒に満ちた理由。
 世界という巨大なシステムのリソース不足。それに随伴して生じた障害の蓄積。それらを対処しきれなかった結果、毒という形で自らの世界を侵し始めた。
 その事実を知る者はごく僅かだ。塔のデジモンと、それに関係する者だけ。世界中、ほぼ全てのデジモンは何も知らずに毒に怯え、毒から逃げ、そして命を飲まれている。

 笑ってしまうでしょう、と。マグナモンは真顔でこぼした。

「……笑わないわ。悪意が在ったわけじゃないんでしょう」
「…………誓って、そんな事は」

 マグナモンは胸に手を当てる。

「…… 世界たる 我が君 『イグドラシル』は……己が異変を恐れ、事態を悲哀し、嘆き、世界の民を守ろうとした。“方舟”を創造し避難させようとも試みました。しかし気付いた時には既に……イグドラシルは世界を維持する事さえ、困難な状態に成っていたのです。
 それでも、増殖する毒を僅かでも地上に零すまいとした。長い時間をかけて……盟友達が自ら礎と成って、空の上に結界を張りました。今この瞬間も、毒の雨雲を堰き止めている」

 カノンは眉をひそめた。

「それは嘘よ。私、たくさん見てきたわ」

 黒い液体を。それに飲まれた命の痕跡を、何度だって。

「……結界は……決して永遠ではない。彼らがひとりずつ尽きて、絶えて、消えてしまえば……徐々に力を失って、やがて壊れていく」

 結界は年月と共に劣化し、僅かな亀裂から毒が零れ落ちる。
 零れた毒はデジモンを変異させて広がり──毒は再び、世界を侵した。

「……馬鹿な話ですよ。本当に。……本当に……」

 そして今も、多くのデジモンが黒い液体に苦しめられている。
 ベルゼブモンも、その一人だ。

「だから、我らは 世界 イグドラシル を救うのです。
 人間の回路を集め、優秀なデジモン達のデジコアを介して…… 世界 イグドラシル に繋いで。……小生はずっと、その要となるプログラムを作ってきた」

 ベッドに眠る子供達も、積まれた義体達も────全ては、その為に。

「デジコアは既に優秀なものを、遠い過去にたくさん集めて……しかし肝心の回路が足りなかった。
 デジコアに繋がれた回路。そしてその回路を更に強化する為の……デジモンとは未接続にある状態の回路が」
「……未接続……」

 その言葉が引っ掛かり、カノンは思わずマグナモンに問う。

「繋がるって、どういうこと?」
「……デジモンとの接触条件ですか?」
「どこでわかるの、自分が繋がっていたのかどうかは」
「それは……デジモンと人間が、互いの肉体を触れ合わせたなら、その瞬間に」
「────」

 互いが互いを求めて。繋がって。求め合う程に強くなる。

「ああ、小生やクレニアムモンは例外です。接続してしまわないよう、予めロックをかけていますので」

 物理的な接触による接続。肉体の触れ合い。

「……。……私は……ベルゼブモンと」

 出逢って、触れて、触れ合ってきた。
 傷ついた体を。力なく垂れ下がる腕を。寝ている間の親指を。隣を歩く彼の手首を。そして、掌を。
 ──何度だって触れてきた。初めて出逢ったあの日から。

「……繋がって、いられたのかしら」
「……」

 マグナモンは目を丸くした。カノンは、顔を伏せた。

「…………カノン。貴女は」
「……そうだったなら、私の回路は役に立たない。……ベルゼブモンを、助けてあげられない」
「……そのデジモンは、貴女のパートナーですか」
「わからないわ。でも、きっと大事な人だったの」
「彼はこの世界で、生きているのですか」
「ええ。クレニアムモンが、助けてくれたから」
「……。……ならばクレニアムモンは、それを承知で貴女を連れてきた筈。きっと理由があるのでしょう」

 マグナモンにとって、カノンと繋がったパートナーの存在は盲点だった。今まで連れてきた子供達のように、捕らえたままの状態で来たと思い込んでいたからだ。
 通常であればデジモンと繋がった時点で、回路は標準未満の数値を算出する筈だ。それを示さなかったという事は────やはり、少女の回路は特出しているのだろう。

「……大丈夫。胸を張って、顔を上げて。こんなにも美しい回路ですから、また別に利用できるかもしれません」

 マグナモンの瞳がカノンを捉える。

「あなたの回路は、大切な鍵となりますよ」
「……本当に?」
「ええ、きっと」

 マグナモンは微笑んだ。気付けば画面は消え、ディスプレイは最初の状態に戻っていた。
 いくつもの画面。今はどれも、カノンの回路のデータを表示している。

「もう少しです。……あと少し。もしも貴女の回路で最後となったなら……イグドラシルが救われたなら。そうすれば、礎となった仲間も、全てが 世界 我が君 に還り……小生も務めを果たせる。
 そして貴女が、何処かに生きるパートナーを想うのなら────その命だってきっと、守り抜く事ができる筈」
「……そう、信じてるわ。だから私は此処に来たのよ」

 少女の言葉に、マグナモンは少しだけ驚く。
 そして、揺れる瞳で「ありがとう」と言った。少女が自らの意思で、自分達に協力をしてくれる事が────心から嬉しかった。

 子供達は皆、自分達が処置の説明をした途端、恐怖と絶望が混ざった表情を浮かべた。声を上げて泣き出し、逃げだそうとした。
 ああ、当然だ。それが普通の反応だ。得体の知れない生き物に、肉体を弄られるのだから。
 だから眠らせ、その間に処置を施した。少しでも彼らが苦痛から逃れられるように。

 しかし目の前の人間の少女は────

「……貴女は、なんて……」

 なんて強い子だろう。
 恐怖を抱く以外、選択肢など無いような状態で……自分の目を見てそんなことが言えるなんて。

「……」

 何としても。──と、マグナモンは思う。
 彼女の尊厳を守らなくては。こんなにも理不尽な世界に対して、抱いてくれた強い意志に敬意を示さなければ。

「……回路の摘出は、小生が責任を持って行います。そしてどうか、貴女にも万全な状態で臨んで頂きたい。
 もう一度、失礼。次は貴女の栄養状態を診ましょう。長い間、旅をしてきたようだから」

 カノンは再び手首を差し出した。マグナモンは先程とは異なる器具を取り付けると、少女の肉体の状態を確認する。
 ディスプレイに、先程と異なるデータが表示された。相変わらず、カノンが見ても全くわからない。

 表示された結果を見たマグナモンは、大きく目を見開いた。

「……」
「……あの、何か……」
「貴女の……」

 そしてマグナモンは、信じられないことを口にする。

「身体の一部が既にデータ化しています。一体、どんなデジモンと干渉したのですか?」



◆  ◆  ◆



 通常であればあり得ない。そう、マグナモンは告げた。

「長きに渡り人間がデジタルワールドに存在し続けた場合……確かに、肉体のデジタル化という現象は起こり得るのですが」

 カノンの肉体がデジタルワールドにどれほど存在していたか、定かではなかったが────流石に半年も、いや、それどころか数か月すら経過していない。それは確かだ。もっと短い可能性もある。
 その期間を考慮したとしても、少女の肉体の変質が異常に進んでいるとマグナモンは言う。

「どのようなデジモンだったのですか? 貴女の、大切な誰かは」
「────」

 カノンはベルゼブモンについて、そして彼と過ごした日々の事を語った。
 その最中、そして語り終えた後も────彼は非常に興味深いと、ベルゼブモンの変化について関心を示していた。

「……。毒に呑まれたウイルス種は……本来、二度とは元に戻らないのですが」

 自我はもちろん、肉体も。毒に侵された以上、そのウイルス種は他者に消されるか、自壊する道しか存在しないのだという。

「話を聞く限りでは、貴女の回路はそれを可能とした。クレニアムモンが奇跡などと言うのも頷ける」
「…………どうして、そんなことが」
「貴女の肉体の成熟状態が、回路の発達に最も適した時期である。それも理由のひとつでしょう。あとは……生まれ持った素質です。回路の最大量と質は、個人差がありますので」
「……」
「彼と、出逢うのは……貴女でなければならなかった。貴女でなければ、彼はとっくに毒に溶けて消えていた」

 ただ、と。マグナモンは続ける。

「変性したデータと繋がり、干渉した事で……貴女の肉体にも影響が出た」
「……。……水も、食べ物も……摂らなくたって、死ななくなったわ」
「ああ、きっと、それでしょう」
「……あなたは子供達を、一部だけデータにすると言っていたわ。……もし、全部データになったら……人間は、どうなるの」
「……完全に変化してしまえば、元の世界に……リアルワールドには帰れなくなります。帰っても、適応できずに飛散する可能性が高い。
 しかし今は、パートナーと離れていますので……これ以上の変化も無いでしょう。会ったとしても、触れなければ良い」

 ……その言葉が、カノンの胸に刺さる。

「なら、大丈夫だわ。────もう会えないと、言われているから」
「それは、クレニアムモンに?」
「ええ。ベルゼブモンを助ける条件だった」
「……。……確かに……他の子らは、摘出後も意識を眠らせたままですから、きっと貴女もそうだろうと……そのまま、リアルワールドへ帰還させる予定だったのでしょう」
「…………そうね。だから、お別れを言わせてくれたんだわ」
「彼は優しい騎士ですから。誰よりイグドラシルを愛し、我々盟友を思い遣ってくれていた。
 ……しかし、その……あまり無責任な事を、言うのは憚られるのですが」

 マグナモンは少しばかり目を逸らして、言い澱む。

「もしも 世界 イグドラシル が救われれば、地上も平和になるでしょう。その時に貴女の意識と、パートナーの生命が残っていたなら……僅かな融通も利くかもしれない」

 その言葉に、カノンの表情が明るくなった。

「……本当……?」
「絶対、とは言い切れませんが……それで貴女に、恩を返すことが出来るならと思っています。
 そして小生はきっと、その瞬間を見届けられないでしょう。だから、彼に頼んでおきますよ」
「……そうね。ここで世界を管理するあなた達は、きっと大変になるわ」
「それも、ありますが」

 マグナモンは苦笑した。


「小生のコアも、どこまで維持できるか……分わかりませんので」
「…………最後まで、生きられないの?」
「塔の防御壁機構には、小生のコアも使っています。あの時から、ずっと」

 結界を支える騎士達と同様、デジコアを少しずつ削って作り上げた防御機構だ。自分の命が果てるのが先か、イグドラシルが再編成されるのが先か。
 間に合ったとしても、そこまでだ。未来の世界をその目にする事は出来ないだろう。……仕方のない事だ。
 しかし、それより前に尽きてはいけない。救済の日までは生き残らなければ。……ああ、せめて、作り上げたプログラムをイグドラシルに適用するまでは────。

「……間に合うと、いいのですが」

 マグナモンは、遠い目で人形の山を見つめた。

「なら、私は尚更……ゆっくり待つなんて、してる場合じゃないでしょう。今すぐにだって」
「いいえ、いけません。いくらデータ化が始まっているとはいえ、疲労と低栄養状態での処置はリスクが高まります。
 小生らは世界を救わなければならない。しかし同時に、巻き込んだ貴女達を無事に帰す義務がある」
「でも……」
「そして────貴女が再び、パートナーと出逢うことを望むなら」
「……」

 焦る気持ちを宥められる。マグナモンだって、一刻も早く行動に移りたいだろうに、それでも彼は子供達の状態を気遣い続けた。

「摘出は二日後を予定したいと思います。安心してください。その程度であれば世界は壊れない。
 時間帯は……そうですね。では、黄昏時に。そのまま貴女が夜の眠りにつき、そして朝を迎えられるように。……その頃はまだ、世界は治りきっていないでしょうが」 
「……。……それなら、私も見届けるわ。この場所で、世界が救われていくのを」
「…………──ああ、ありがとう……」

 マグナモンは泣き出しそうに笑って、少女に手を差し出した。カノンはその手を、しっかりと握り返した。



◆  ◆  ◆



 あてがわれた白い部屋で、穏やかに時を過ごす。

 外の様子は分からない。時間の経過もわからない。
 ただ、どうか世界が変わるその時まで────ベルゼブモンが生きていてくれることを願い、祈った。

 ああ、大丈夫。彼はきっと大丈夫。
  人間 わたし を狙うデジモンとは遭わないだろう。それに、何より彼は強いから。ちゃんと生きていけるはずだから。

「────」

 祈る。祈る。

 鈴の音が聞こえてきて、顔を上げた。そんなもの、部屋の中にあっただろうか。
 すると、外からクレニアムモンの声が聞こえてきた。あたたかな食事を持ってきてくれた。
 彼もまた私の体調を気遣い、声をかけてくれた。マグナモンと交わした会話のことを伝えると、嬉しそうに目を細めていた。

 クレニアムモンは忙しいようで、すぐに部屋を出ていった。
 私は、あたたかな食事をひとりで食べる。

「……」

 広い部屋で、ひとりきり。
 それは今までの暮らしと同じ。ずっと大切にしてきた、変わらない日常風景の模倣。

 なのに────どうして今は、こんなにも寂しく感じるのだろう。
 私には、わからなかった。



◆  ◆  ◆



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