◆  ◆  ◆




 何度目かの鈴の音が鳴る。

「入ってもいいかね?」

 クレニアムモンの声が聞こえた。
 私は扉に向けて、「どうぞ」と大きめに返事をする。

 扉が開かれる。クレニアムモンは礼儀正しく頭を下げて、部屋の中へと入ってきた。
 その手には何も持っていない。食事の時間、というわけではないのだろう。

「こちらの準備が整ったのでね、君を迎えに来た」

 私の回路を摘出する、その時間がやって来たようだ。
 私は躊躇いなく返事をする。彼について行こうとして────ふと、疑問を抱いた。

「もう、二日も経ったかしら」

 この部屋には、時間の経過を認識できるものが無い。故にあくまで直感だが──そこまでの時間はまだ、経っていないように思えた。

 クレニアムモンは「いいや」と首を振る。

「君が来たのは昨日だから、一日とわずかだ」
「マグナモンは、二日後に行うと言っていたわ」
「予定が変更になった。少々、前倒しだ」
「……」

 そういうものなのだろうか。だが、早い方が良いと言うなら賛成だ。私はそれで構わない。

「ところで、今は何時なのかしら」
「大体、昼時だな」
「処置は夕方にやると、マグナモンは言ったわ」
「そこも、前倒しだ」

 クレニアムモンは淡々と告げる。
 ──何故だろう。少しだけ、胸の中がモヤモヤした。

「処置をしてくれるのは、誰?」

 マグナモンと交わした約束を、思い出す。

「回路の摘出は、自分が行うって……マグナモンは」
「今日は彼の体調が優れなくてね」

 それで仕方なく、自分が執り行うのだと。

「……彼、大丈夫?」
「ああ。しかし、いつ回復するかわからない。急で申し訳ないが、これから行わせてもらいたい」

 クレニアムモンは手を差し伸べた。

「一刻でも早い程、君の大事な者の命も永らえる。あらゆる可能性が広がる。戸惑いはあれど、迷う事はあるまい」
「……」

 それは、ずるい言葉だ。そんなことを言われたら──どれだけ違和感を抱えようと、この手を取るしかないのだから。
 クレニアムモンは騎士らしく私をエスコートして、部屋の外へと私を連れ出していく。

「では参ろう。 我らが世界の神 イグドラシル が、君をお待ちしている」



◆  ◆  ◆



 白い廊下を進む。
 ガラスのエレベーターに乗る。
 マグナモンが居た部屋に向かうのだろうか。そう思ったが、エレベーターは止まらず移動を続けていく。

「どこまで進むの?」
「一番、高い所まで」

 やがて、ベルの音が鳴ると共に、エレベーターも停止する。
 到着したのは純白の部屋。神秘的で美しい空間だ。ドレープを描いた半透明の布が、天井からいくつも垂れ下がっている。

 ────ああ。私は、この場所を知っている。

 天蓋のベールが柔らかく揺れる。
 クレニアムモンは跪き、深く深く頭を垂れた。

「我が君よ」

 騎士が声を掛けても、ベールの向こう側は静かなまま。

「我らのデジタルワールドが、もうじき息を吹き返します」

 それでもクレニアムモンは語り続ける。

「究極体デジモン達のコアを揃え、子供達の回路を集め……そして同志マグナモンが、我が君を救う為のプログラムを作り上げました。
 準備は既に整っております。あとは、御身と繋ぐのみ」

 ベールはただ揺れている。風はどこからも吹いていないのに。

「しかし……騎士達の身で作り上げた結界は、亀裂が入り毒が漏れ出し──現状は、我が君も御存じの通り。世界はもう、長くはもちませぬ」

 故に、と。顔を上げた。

「確実に早急に、御身を完成させる為────恐れながら僅かの間、座から離れていただきます」

 クレニアムモンは立ち上がる。やわらかなベールを丁寧に掴むと、そのまま思い切り捲り上げた。

「失礼つかまつる。至高の我が神、最愛なるイグドラシル……」

 たおやかにベールがなびく。
 姿を見せたのは、宝石の欠片が散りばめられた美しい祭壇。
 中央には水晶の座。そして────その上に浮かぶ、光の球体。

 それは世界の光。
 それは遍く命の根源。
 創生し、維持し、愛し、傍観する。世界の神たる『イグドラシル』────。

「さあ、御前へ」

 クレニアムモンがこちらを向く。逆光で、彼の表情を見ることは出来なかった。

「────」

 光は美しく輝いている。
 少しだけ手を伸ばそうとして──得も言えぬ恐怖を感じ、咄嗟に手を引いた。

「……この光は……ここから離れて、どこに行くの?」
「怖がることはない。そのまま、神の光に触れ給え」

 騎士は諭す。その視線を、美しい光に向けたまま。

「これは僥倖なのだから」

 幸せ。────それは、昨日も聞いた言葉だ。
 でも、誰にとっての『幸せ』なんだろう? 少しだけ考えて、自分の中で答えを出した。
 ああ、きっと皆のだ。これが皆の幸せに成るのだ。クレニアムモンの、マグナモンの、 世界 イグドラシル の。そして、ベルゼブモンの。

 だから私は此処に居る。
 怖がらないで、大丈夫。手を伸ばして。……そう、自分に言い聞かせた。

「全てはこの儀式を以て救われる。いずれ世界に本当の……青い、碧い空が、ようやく」

 彼が何をするとしても、それがマグナモンの考えと違っていても、結果は同じ筈だから。……だから、

「嗚呼、イグドラシル。奇跡の回路を抱く肉体が────御身を宿す、器と成ることで」


「────え?」


 一瞬、理解が出来なかった。
 この人は今、何て言ったのだろう。

「器?」

 そして────言葉の意味を考えるより先に、足が動き出した。

 それは本能だった。あの赤い悪魔から逃げ出した時と、全く同じ感覚だった。電撃が走ったように身体が動き、気付けばエレベーターに向かって走っていた。
 走って。走って、必死に走って────けれどあっという間に腕を掴まれる。

 気付くと叫び声を上げていた。こんなに大きな声が出せたのかと、自分でも驚く程だった。
 響き渡る絶叫を気に止めることもなく、クレニアムモンは私を掴み上げたまま────白い光に、手を伸ばした。




◆  ◆  ◆



 約束の時間になった。

 これで何人目だろう。
 何度この行為を繰り返してきただろう。
 技量は磨かれても、心は未だに慣れてくれないのだ。
 どうか我が君、我が主よ。これが最後になりますように。

 そんな願いを胸に、マグナモンは少女が待つ部屋へと向かう。

 途中、クレニアムモンにメッセージを送る。これから摘出を行うという報告だ。
 報告の最後に、彼への感謝の言葉を添えた。────『ありがとう。貴殿が見つけてくれたおかげで、我々はようやく終わることができる』 と。

 直後、クレニアムモンから直接の通信が入った。

「マグナモン。もうその必要は無くなったよ」

 そう、一言だけ告げられた。
 マグナモンは彼の言葉の意図が分からなかった。行き先を変え、クレニアムモンが管理する管制室へと急いだ。



 自動扉が開くと、黒紫の騎士が振り返る。

「昨日はよく休めたか?」

 こちらを見て、第一声。柔らかな笑みを浮かべてきた。
 少しだけ調子を狂わされながら、マグナモンはたどたどしく答える。

「……あ……はい。貴殿が小生の分も、塔の管理を請け負ってくれたおかげで……」
「卿はこれまでずっと、不眠不休で塔を守ってきてくれたのだ。ようやく我らの願いが叶うのだから……昨日ぐらいは、卿に安息をと」
「それは……本当に、感謝しています。クレニアムモン。しかし先程の連絡は一体、どういう事ですか?」

 マグナモンは話を本題に戻し、クレニアムモンに問う。

「救済には、彼女の力を借りなければ」
「借りるとも。デジタルワールド中を探して、ようやく見つけたのだから。役目に値する人間を」
「では、何故」

 ふと、マグナモンは管制室のディスプレイに目をやった。
 いくつも浮かぶ画面のひとつに、自分の処置室も映し出されている。

「────」

 違和感を覚えて、目を凝らす。

「…………人形達が」

 義体達がいない。
 子供達の回路が、見当たらない。
 マグナモンは咄嗟に、自身が管理しているネットワークにアクセスする。回路に関する情報が失われていないかを確認する為に────

「小生が……作り上げたプログラムは……!?」

 無い。どこにも無い!
 イグドラシルを救う為──構築させてきたプログラムが無くなっている!

 マグナモンは酷く狼狽した。自身の 防御壁 ファイアウォール が突破され、データが盗まれるなどあり得ない。物理的、もしくは電脳的な侵入があったなら、その時点で警備システムが作動していた筈だ。
 ……いや、そもそもそれ以前に── 外部から侵入 ハッキング された形跡が、何処にも見当たらなかった。

 ────何故。

「……クレニアムモン……」

 何故こんな一大事に、彼は動じていないのだろう。
 何故こんなにも冷静に、自分を見つめてくるのだろう。
 あのプログラムの存在の重要性は、彼が誰より知っている筈なのに。

「……貴殿は……」

 ────ああ、そうだ。
 内部から操作するなら……何より共有していたパスを使ったのならば、それは──侵入者とは、認識されない。

「貴殿は何を……何故こんな事を……!? 計画通り進めれば、イグドラシルは救えたのに!」

 マグナモンは詰め寄る。クレニアムモンは、至って冷静であった。

「このままでは間に合わないのだ。マグナモン。だから私は、最短の方法を選ぶ他なかった」
「……ならば何故! まず小生に相談してくれなんだ!!」
「卿には理解できまいよ。それを、私は分かっていたから……」

 クレニアムモンはディスプレイに目を向ける。画面には、少女が部屋で泣いている姿が映っていた。────何かの処置を、既に施されたのだろう。
 彼女が見せた儚い笑顔を、マグナモンは思い出す。……胸が、苦しくなった。

「…………彼女の了承は、得たのですか」
「取る必要が?」
「……貴殿の……騎士としての誇りは何処へ……!」
「騎士だからこそ主君に全てを捧げる!!
 ……マグナモン、我々は現状を正しく認識しなければならない。我らのデジタルワールドは一刻を争う状態だ!」

 黒紫の騎士は声を荒げた。そして管制室の壁全体に、とある場所の様子を映し出す。

 そこは、塔の上空に位置する場所。テクスチャが貼られた世界の天井。
 青空を描いた天井の裏には、結晶に覆われたデジモン達が並んでいた。
 彼らの意識は既に無い。肉体のデータは時間をかけて少しずつ崩壊し、水晶に溶けていく。

 それは、デジタルワールド全体を包む結界である。
 世界の守護者として創られたデジモン達が────その身を以て作り上げた、天の結界。

 結界の上には暗雲が広がっていた。デジタルワールドに予兆なく零れ落ちる、毒の水の源となる雲だ。

「結界の劣化も、破損も……我々の予測速度を遥かに上回っているんだぞ! それは卿とて認識していただろうに!」
「……ああ……していたとも……していたとも!! ですが……!」
「プログラムの完成こそ間に合った。しかし回路を摘出し、移植し、再構築しなければならない。義体への定着には何週間と時間がかかると言うのに……そんな猶予はもう残されていないと言うのに! それを理解できない卿ではない筈だ!」
「……っ……」

 マグナモンはその場に膝を落とす。言い返せないまま、ただ項垂れた。

 たった二人で世界を管理し、並行して人間を招き、回路を収集するには限度があった。
 ある時クレニアムモンが地上のデジモンを利用し、人間の子供達を大量に連れて来させた。おかげで選別された回路が集まり──救済への道が開かれた。
 そうでなければ確実に間に合わなかった。全て、クレニアムモンのおかげなのだ。

 塔から出られない自分は、肉体から回路を剥がす事しかできなかった。その唯一の使命でさえ、過去に何人もの犠牲を出した。
 だから、今度こそはと胸に誓ったのだ。もう同じ過ちは犯さないと。誰一人として犠牲にはしないと────苦悩し選んだ回り道だった。

 クレニアムモンの言葉は正しい。
 ただ、理想と現実が悲しい程に噛み合わないだけで。

「卿が精錬した回路はデジコアを介し、イグドラシルに繋がれる。卿が立てた計画の通りに。……だが、最後の要たる肉体は……義体など用いず、直接イグドラシルと接続する必要があった。それが最短かつ確実な道だ」

 イグドラシルとの直接の接触。──それはマグナモンが、最も避けたかった手段。だからこそ、わざわざ義体などというものを用意してきたのだ。

「……我が君に……彼女を、触れさせたのですね」
「────マグナモン」
「貴殿の考えは、当然と言えるでしょう。世界が救われなければ結局、何もかも本末転倒だ。……それでも小生は、もう二度と……人間の子を犠牲にしたくはなかった……!」

 神たる存在との接触は、ただデジモンに触れるのとは訳が違う。対象者が既にパートナーと契りを交わしていたとしても、強制的に回路に接続される。甚大な負荷がかかるのは明らかだ。最悪、回路ごと肉体が焼ききれる可能性さえ。
 最悪の事態は避けられた様子だが、既にデジタル化が始まっていた少女の肉体は────もう、元には戻せまい。
 少女を憂うマグナモンに、クレニアムモンは否定の言葉をかけた

「そんな事はしていないとも。ただの接触など、そんな回りくどい事は」
「……ならば貴殿は何を? 直接触れると言うなら、他に方法は……」

 画面の向こうで少女は泣いている。
 震えながら、自身を抱き締めるように。

 ────嫌な、予感がした。

 マグナモンはディスプレイを動かす。イグドラシルの座を映し出す。
 ベールは柔らかく揺れていた。だが────その向こうで輝いている筈の、神の光が見当たらない。

「!?」

 目を疑った。そんな事はあり得ないからだ。
 イグドラシルが座から離れるなどあってはならない。万が一、何かを理由に離れたとして……ならば、我が君は何処へ?
 ディスプレイを動かしていく。塔のあらゆる場所を探す。主の御光は何処にも見当たらない。

 病室の子供達は眠っている。今までと変わらずに。
 塔の内部も、義体とプログラムが奪われたことを除けば、他に変わりは見受けられない。
 変わったのは────イグドラシルが、姿を消しているという事。
 そして、笑顔を見せてくれた少女が今、泣き続けているという事だけ。

「……────まさか」

 ────黄金の騎士は、理解した。
 瞬間、感情が身体の奥から湧き上がった。全身が震えた。

「イグドラシル!!」

 叫ぶ。
 画面の向こうに、声は届かない。

「我が主よ!!」

 慟哭する。
 そんな事をしても、どうにもならないと知りながら。

「ああ……あああ……っ! クレニアムモン! クレニアムモン!! 何て事を!!
 ……埋め込んだな……彼女の肉体に 世界の核 イグドラシル を……ッ!!」

 憤りに歪んだ表情で、クレニアムモンを睨み付けた。────だが、

「素晴らしいだろう。きっと彼女も幸せだと謳う筈だ。
 イグドラシルの、我らの、そして彼女の願い。その全てが遂げられるのだから」

 クレニアムモンは、優しい眼差しで少女を見つめていた。

「ああ、嗚呼、イグドラシル。美しき我らが主。このクレニアムモンが、御身に救済を」
「…………クレニアム……!」

 その横顔を見た瞬間、マグナモンは思い知る。彼にはもう、自分の言葉は届かないのだと。

「マグナモン……喜んでくれ。そして、見届けてくれ。友よ」


 ────『マグナモン。君は守護の要だ。彼と残って、イグドラシルと塔を守れ』
 ────『どうか、我らが築く結界が世界を守り切る姿を……見届けてくれ。友よ』


 あの日、あの時。天に眠った仲間達が残した言葉を思い出す。託された思いが胸を抉る。
 マグナモンは拳を握り締めた。そのまま強く壁に叩きつける。壁に僅かなヒビが入り、切れた皮膚から血が流れた。

 怒りの矛先は、自分だった。

「…………何故……こんな事に」

 無力な自分。もっと早く、クレニアムモンの企図に気付いていれば。──しかしどんなに悔やんだ所で、時間は決して戻らない。

「……ですが……ああ、イグドラシル……それでは御身さえ……」

 身体中から力が抜ける感覚。マグナモンはそれ以上、何も言えなかった。
 俯いて、背を向けて、ゆっくりと踵を返す。クレニアムモンもまた何も言わず、そして彼を止めることもなかった。

「…………ひとつだけ……教えては、くれませんか」

 背を向けたまま問う。

「貴殿は、いつから狂った」

 そしてクレニアムモンは、水晶の座を見つめながら答えた。

「とうの昔に」



◆  ◆  ◆



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