◆ ◆ ◆
────身体の中が熱い。
ぐるぐると回る。
私の身体を巡る。
私の中身を廻る。
誰が。何が。何かが。
それは私の中の全てに。頭から足先まで、淀みなく流れていく。
「────」
私は光に埋もれた。
あの時、あの瞬間。私という存在は光の中に溶けていった。そんな錯覚をした。
あたたかな光だった。優しい光だった。
それなのに、それなのに────“その瞬間”はとても怖くて、悲しくて、胸が苦しくて。
感情がたくさん身体から溢れて、涙となって零れていった。……枯れることのない涙。遊園地での夜明けを思い出す。
私は、光の中でいくつもの夢を見た。
眠っていないのに、どういうわけか夢を見たのだ。
光が私の中に入ってくる間、ずっと、何度も。まるで映画のスクリーンが、コンタクトレンズみたいに張り付いているかのよう。目を開こうが閉じようが、そんなことは関係なく────光の中で、私はたくさんの夢を見る。
お母さんの夢を見た。イチョウ並木の道で微笑んでいた。
ベルゼブモンの夢を見た。彼と見た景色がたくさん、流れていった。
そして────誰かの夢を見た。
誰かの記憶を辿る夢だった。
やわらかなベールに覆われた、美しい純白の空間。
知らないデジモン達が、私の周りを囲んでいる幻覚。
中には知っている顔もあった。皆、真剣な表情で何かを話している。
私からは黒い液体が溢れていた。
涙が足元の水晶に零れ落ちると、それは黒く変色して、雨粒のように小さな花を咲かせていく。
サラサラとした液体だ。私が知っている黒い液体とは、少し違っていた。
赤い色の騎士が二人、私の事を助けようとしてくれた。でも……かわいそうに。私に触れた二人は、涙に飲まれて死んでしまった。
黒い液体が変化を遂げた。ドロドロとしたコールタールの様で、ひどく見覚えのある姿に成った。
────そして、私の涙は雨となる。
たくさんの命が、消えていく光景を見た。
たくさんのデジモン達から、心臓が抜かれる光景を見た。
たくさんの子供達から、回路が抜かれる光景を見た。
長い時間をかけて、騎士達が綺麗な水晶の中に入って、それを空に封じ込めた。
私はその様子を見て────また、泣いていた。
「…………」
かわいそうに。可愛そうに。可哀想に。でも、どうしようもなかったのよ。
誰にそんな言い訳をしているのだろう。そもそもこれは自分ではないのに。
なら、誰の? ────ああ、そんな問いこそ意味が無い。私は、分かっているのだから。
ねえ。
「イグドラシル」
名前を呼んだ。
私の中で、音の無い声が聞こえてきた。
彼、もしくは彼女が、私の中に確かに存在しているのだと──私は嫌でも思い知る。
……ああ、
「どうして」
こんなことをしたの。こんなことになったの。
いいえ、いいえ。私は決して、覚悟していなかったわけじゃない。自分の身に何かが起こる事は理解していた。
けれど……どれだけ覚悟を決めたつもりになっていたって────現実と直面すれば、意味を成さなくなることだって、あるのよ。
だから、ほら。今でも涙が止まらない。
身体はどこも痛くないのに、あまりにも胸が苦しくて。
「────」
頭の中で声が聞こえる。
音を持たない声が、形を持たない何かが、身体の中で廻っている。
きっと、ベルゼブモンも同じ気持ちだったのだろう。こんな感覚だったのだろう。彼の方が、ずっと辛かっただろうけれど。
今なら────あなたの気持ちを分かってあげられるのに。あなたの世界を感じることができるのに。
それでも私は、あなたのように強くはないから。前に進むことはできなくて……だらしなく涙を零して、白い床に座り込んで、身を屈ませて、……自分で自分を、抱き締めることしかできないのだ。
「……っ、……」
ああ、それではいけない。彼はひとりで歩き出せたのだから、私も前を向かなきゃいけない。……そう、無理矢理に思ってみた。
熱くなった喉を必死に開いて、深呼吸をする。何度も、何度も。
此処はとても綺麗な場所だ。それに一人きりじゃない。一人で消えていくわけじゃない。
本当なら私はあの時──薄暗い金属の街で、赤い色の悪魔に嬲り殺されていた筈だった。そのまま朽ちていた筈だった。────それを考えれば、私はなんて幸運なのだろう。
あの街でベルゼブモンに出会えたから、私はここまで生きてこられた。
あなたのおかげで、私は
「……ベルゼブモン……」
……胸元のスカーフを、ぎゅっと握る。
もう、返してあげられない。ごめんなさい。約束は守れない。あなたと、あまりに離れすぎてしまったから。
せめて────お別れを告げられていて、よかった。
そう言い聞かせて、自分で自分を受け入れようとして、それでも涙が止まらなくて────私は声を上げて泣いた。
私の中の光が、そっと、私の手に触れたような気がした。
◆ ◆ ◆
男は、たったひとり世界を往く。
灰色の空。命の気配が失われた大地。
目指す場所もなく────ただ、姿を消した少女を探しながら。
「カノン」
男は少女の名前を呼ぶ。
何度も、譫言のように繰り返す。
「……カノン……どこだ。カノン……」
返事はない。
届かない声は、風に混ざり消えていく。
────少女が去って行った理由を、彼は知らない。
どうして突然、自分を置いて行ってしまったのだろう。
以前よりも明瞭になった思考で、研ぎ澄まされてしまった神経で、「きっと理由がある筈だ」と──ベルゼブモンは自分に言い聞かせる。
ああ、もしかしたら。少女は自分が死んだと思い、デジモンから身を隠せる場所を探しに行ったのだろうか。そうでなければ、こんな危険な世界を一人で行く筈がないのだ。
ならば仕方ない。──が、どういうわけか自分は生きているので、やはり少女を見つけに行かなければ。
あの子は戦えない。
あの子を狙うデジモンが存在するのに、あの子には身を守る術がない。
だから、行かなければ。守らなければ。また会うと約束したのだから。
しかしどれだけ歩いても、少女を見つけることが出来ない。手がかりだって掴めない。思い出の場所にさえ、辿り着くことは出来なかった。
所々で自我を失い、気付けば知らない場所にいることもあった。
そして意識が戻る度、「夢を見ていたのかもしれない」と、僅かに期待して目線を下ろしてみるのだが────当然、そこには誰もいない。何も無い手のひらには、彼女のぬくもりの欠片さえ、もう残っていなかった。
「…………」
どうしてだろう。彼女は最初からずっと、自分の隣に在ったのに。
自分が『ベルゼブモン』としての生を受け、失った筈の自己意識を得てからずっと。
自分が、このモノクロームの世界を認識できるようになってからずっと。
ずっと、ずっと、自分の世界にはずっと────小さくて白い、あたたかな存在が居た。透き通る声で、「ベルゼブモン」と名前を呼んで、自分を形作ってくれたのに。
どうして今、隣にいないのだろう。いなくなってしまったのだろう。
「……」
────ああ、世界はこんなに、寒くて寂しい場所だっただろうか。
独りというのは、こんなにも。
「……カノン……」
ベルゼブモンは必死に、少女との思い出を辿る。
いつか自我を失ったまま、彼女を忘れてしまうことがないように──名前を呼び続ける。
そして歩いて、歩いて、意識を失って、歩いて、歩いて。
どれだけ進んだのだろう。どれだけ時間が経ったのだろう。早く、見つけなければならないのに────。
────『果たして本当に、彼女を見つけられるのかな』
頭の中で声が聞こえた。
聞き覚えのある声だった。
「うるさい」
ひどく不愉快な気持ちになって、男は虚空に言い放つ。
「お前は、此処にいない」
……そう。此処にはベルゼブモンしかいない。彼の中にも彼しか居ない。決して、その声が自我を持っているわけではないのだ。
『ああ、当然だ』
あくまで、それは形だけのもの。
ベルゼブモンの意識の底に生まれ、本当は気付いている筈の“直感”────彼はそれを理解することも、受け入れることも出来ていない。
故に。彼の本来の本能が、記憶の中にある声色を使って囁きかけるのだ。認めたくない現実を突き付けるのだ。
その声色が────銀の男を彷彿とさせるのは何故か。ベルゼブモンにも、わからないのだが。
『なあ君。考えたことはあるかい?』
声は囁く。
「……黙れ」
『朽ちる筈だった身体が今、どうして動いているのかを』
「……黙れ……」
『何も無かった筈がない。そして彼女は消えてしまった。────もしかすると既に、あの子はこの世界から』
「黙れ!!」
端から見れば、彼はひとりきりで喋っている。なんて滑稽な姿だろう。そんなことは微塵も構わず、ベルゼブモンは荒く声を上げた。
「黙れ……黙れ、黙れ! 黙れ……!」
頭が、おかしくなりそうだった。
どうして、こんなにも頭の中がうるさいのだろう。
毒の声が、男の声が、反響する。やめてくれ。自分が聞きたいのは、お前達の声じゃない。
黙ってくれ。どうか。
「……っ」
頭の中の声を振り切る。
どこかで、銀の髪の男が笑った気がした。ベルゼブモンはもう一度「うるさい」と言い放った。
「…………それでも……俺は、カノンを……」
そして男は今日も彷徨う。
見つかりはしない少女を求めて。
いつかまた、出会えると信じて。
第二十四話 終
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