◆ ◆ ◆
──── 少女 は冷たい床に横たわり、呆然と白い空間を眺める。
どうせならベッドで眠ればいいものを。──そんなことは分かっている。身体を動かす気になれないのだ。この部屋に戻ってきてからずっと、少女は床の上で時を過ごしていた。
どれだけ時間が経過したかは分からない。体内時計は狂いに狂って、三十分しか経っていないような気もするし、丸三日以上が経ったような気もする。
「────」
……そして相変わらず、少女の頭の中では、ずっと声が聞こえていた。
自分の中に宿った光は、絶えず何かを語りかけてくる。それは自分の母国語のような、けれど異国の言葉のようにも聞こえた。────そして時折、見えない手で少女に触れては、慰めるような仕草を取ってみせるのだ。
でも、それを受け入れる事が出来ない。
聞こえない筈の声。触れられても感じない温度。感触。
無い筈のものを在ると感じてしまう。そう変化していく自分の肉体を、少女は受け入れられずにいた。
虚無を見つめる瞳には、もう何度目かわからない涙が溢れていく。
泉のように、溢れて枯れてを繰り返す。顔の真下に位置する床も、濡れと乾きを繰り返す。
──いつからだろう。知らぬ間に、そこには水晶の欠片が散らばっていた。
頬に残った涙の跡を指でなぞると、透明な結晶が付着した。周囲の光をキラキラと反射していた。
「……」
ああ────自分は、どこまでも普通じゃなくなっていく。
それを実感して、悲しくなって、けれどとても可笑しくなる。
少女は久しぶりに体を起こした。乱れた髪をかき分けて、顔を上げた。
「────」
ぐるぐると、目眩。
そしてまた、頭の中で声が聞こえた。
「────やめて」
誰もいない部屋の中、少女は虚空に言い放つ。
「私の中で、喋らないで。気が狂いそうだわ」
散らばっていた欠片を手で払った。それらはカランと音を立てて転がり────光の粒子となって、消えていく。まるで、デジモンの命が消えていく時と同じように。
「……っ……」
やめて、やめて。そんな消え方しないで。
それでも溢れる涙は頬を伝い、ぽたりぽたりと零れていって──床に落ちる頃には、透明な水晶の欠片と成っていた。次々と、光に分解されて散っていく。
そして────ぼやけた視界の中。
散らばる光が、自分の前に集まっていくのを見た。
「……え?」
煌めく光の粒子達。
集まって、繋がって、細い線を紡いでいく。
「…………」
形を成す、美しい水晶のワイヤーフレーム。
交差しながら曲線を描いて──それはやがて、ヒトのような骨格を作り上げていく。
フレームの外側に光が纏い、白いテクスチャがマッピングされる。粗い表面は段々と滑らかさを抱き、陶器の様な“肌”と成った。
同時に、頭部からは毛髪らしきものが伸びていった。一本ずつが水晶の糸で織り成されていた。どんどん伸びて白い床に広がり、気付けば身長の何倍もの長さになっていた。
そして、顔の造形は
「…………私の……」
目も、鼻も、唇も、輪郭も全て────儚く美しい 少女 と同じ。
違う点を挙げるならば、瞳と毛髪の色だろうか。そして目の前の“何か”には、人間が有する生殖器の一切が存在していなかった。
「────」
ああ、まるで神様だわ。
少女はそう思った。初めて 光 を見た時と同じように。
だって、そうだろう。人と同じ形状の生物が、命が創られていく様は────土塊から人を形づくる、神の所業に他ならないのだから。
『──、…………あ……あ────あ、』
目の前に発生したデジタル生命体。
宿主であるカノンの姿を模した、イグドラシルの偶像。
『……ええ、ええ』
カノンと同じ声を出し、同じ口調で言葉を紡ぐ。
『こ、れで……いい、わ。──これで』
自身の容を確かめて、動作を確認して、宝石の瞳をカノンに向けた。
「…………イグドラシル……」
『────』
見つめ合う。互いの瞳に映り合う。鏡に向かっているかのような感覚だった。
「……どうして……」
カノンは声を震わせた。
『貴女、が』
イグドラシルは、たどたどしく答えた。
『中で……声を、出すな、と』
頭の中で喋らないで。
そう言ったから。そう願ったから。たったそれだけの理由で──本来なら形を持たないイグドラシルが、少女の前に“姿”を創って現れたのだ。
『ヒト……の、カタチ……なら……怖く、ない、でしょう』
「……」
『恐怖は?』
イグドラシルは問う。純朴な幼子のような眼差しで。
「…………頭の中で話されるより、ずっと良いわ」
『なら……意味のある、行為、だったわ』
表情は人形のように動かない。カノンはマグナモンの義体のことを思い出した。あの義体達にも、ベースとなる人間が存在した。なら、イグドラシルが自分と同様の造形を成したのも理解できる。
──もっとも義体と偶像とでは、根本的に構造が異なるのであるが──それは少女が知り及ぶところではなかった。
「…………そうね」
水晶の髪が揺れる。カノンは手を伸ばして、触れてみた。────確かに触れているのに、相変わらず感触はなかった。
音だって、きちんと鼓膜を通して聞こえてくる。けれど身体を巡る感覚は変わらない。姿を創り上げたところで、その存在が少女の中に在る事に変わりはない。──イグドラシの偶像は、恐らく少女の視界にしか映っていないのだ。
『……ずっと、伝えたい、事が。……貴女に』
イグドラシルは自身の喉に手を当てながら、口をパクパクと開閉する。発声機能を調節し、宿主と懸命に会話を交わそうとしていた。
『……──ごめんなさい。貴女を、こんな目に、遭わせてしまった』
「────」
予期せぬ謝罪の言葉。カノンは、胸が締め付けられるような感覚を覚える。
『怖かったでしょう。痛みも、あったでしょう』
「……。……──いいえ。……でも……」
心が、苦しかったのよ。
そう伝えて、また泣きそうになった。けれど泣いたらまた、自分からたくさん水晶が零れる気がして────それを見るのが怖くて耐えた。
「……どうして。どうしてなの。ねえ……私、何か悪いことした……?」
次に湧き出た感情は、やり場のない怒り。どうしようもないそれを、イグドラシルに投げつける。
そんな少女の言葉を──イグドラシルはただ、受け入れた。
「こんなの聞いてない……こんな事、されるなんて聞いてない……! 私の回路……取るだけだって、言ったのに……っ」
『────ええ。本当は、その筈だった』
イグドラシルはそっと、床に煌めく欠片を掬い上げる。
『回路は義体に移されて……貴女は眠って、朝を迎えて。
世界 は子供達の回路と繋がれて……そうして、終わる筈だったのに』
変わらない表情。しかしどこか、悲しそうだった。
『けれど 世界 は貴女の中へ、入って、育って……そして最後は貴女ごと、彼らの回路に繋がれる』
「────」
『それが“あの子”の考え。 世界 を救う為、辿り着いてしまった答え』
イグドラシルは、少女の中で育っていく。
少女は回路に満ちた体の中で、イグドラシルを育てていく。
しかしそれだけでは終わらない。イグドラシルが育った後、マグナモン達が作り上げたプログラムを利用し────デジコアを中継した、子供達の回路を肉体ごと接続して────それでようやく、イグドラシルは“完成”するのだと言う。
早急に、確実に、世界を救う為の手段。クレニアムモンはいつ、この答えに辿り着いていたのろう。
────“君はただ、この場所で生きてくれていればいい”。
クレニアムモンの言葉が甦り、少女の中で渦巻いた。
「……。……本当ね。確かに……命の保証は、されていたんだわ」
死んでしまったら、育てられないものね。
────なんて、馬鹿みたい。自分はその言葉に期待をし、安堵さえ覚えていたのだから。
俯く少女に、イグドラシルはまた『ごめんなさい』と謝った。
謝らないで。……そう言いたかったのに、言えなかった。
『こうなって、しまった事。この 世界 に来た事さえ、何ひとつ……貴女の意思では、望んだ結果ではなかったでしょう』
「……」
『どうかこれが……ただの悪い夢であれば。泡沫の夢だったなら。目が覚めれば何もかも、微睡に溶けて消えるなら────そうであれば、どんなに』
────どんなに、よかっただろう。
イグドラシルは、それを心から願ってやまない。
ああ、確かにそうだ。これが夢ならどんなに良かったか。少女は思った。────だが
「…………でも……それでもね、イグドラシル。
あなたが創った、この世界に来たことを……私、無かったことにしたくない」
何故、と。イグドラシルは縋るように答えを求めた。
「彼と逢えたわ。ベルゼブモンと一緒に、私は確かに生きたのよ。……生きていたの。ひとりじゃなかった。それだけは……忘れたくないから」
毒に侵された、黒い大男との旅路。
それは少女の人生において、かけがえのない大切な時間だった。
繋いだ手のあたたかさは現実。
眠っても、目を覚ましても、少女の中で消える事はない。
イグドラシルは一瞬、嬉しそうに目を細めた。しかしすぐに目を閉じて、「いいえ」と首を横に振る。
『そうだとしても償いきれない。だって 世界 は貴女から、眠れる子供達から……奪ってしまった。たくさんの未来を、可能性を────人生を』
生き残るであろう子供達さえ。その心身に負うものは、今後の彼らの人生を左右することだろう。このデジタルワールドという世界に巻き込まれた代償は、少なからず降りかかるのだ。
そして、少女に至っては────
『ごめんなさい。貴女にもきっと、夢があった筈なのに』
「……────夢」
『どうか……どうか。無力に成り下がった 世界 でも、その片鱗を叶えることができるなら──。……貴女にはもう、それしかしてあげられない』
例えば、再びベルゼブモンと出会う事が夢ならば、それを。
特定の何かを得たければ、それを。
思い描く姿に成りたければ、それを。
欠片でも、模倣でも。
それが────力を失った神が、贄となった少女にできる償いなのだと。
「……」
少女は考える。「夢」についてを考える。
私の夢。将来の夢。未来の自分の在り方。
それは何だっただろう。小学生の頃の作文で、何が「夢」だと書いたのだろう。
私は──
「…………“普通”に、大きくなって……」
誰かと出会って。結婚をして。子供を産んで。歳をとって。
そんな人生を送りたかった。特別なことなんて何もいらないから、ただ“普通”でありたかった。
けど、普通って何だろう。何が普通だと思っていたのだろう。
──ああ、それはきっと。
取り返しがつかなくなるような事なんて、何ひとつ起きない日常だ。母親は命を失わず、父親も家に帰ってくる。家族みんなで笑い合いながら過ごすのだ。
「────そうだ。私……」
そんな、普通の家庭。普通の親子。自分で勝手に「普通」だと思い込んでいる家族の形。
それを夢見ていた。いつか自分が「お母さん」になって──自分が母から貰った愛を、同様に家族に注いで、傍で笑って。そして今度は最後まで、子供が育つまで生き抜いていく。
年頃の少女が夢見た、いつかの未来。
「────いいのよ。イグドラシル」
そんな夢を告げて、想いを告げて。けれどそれらは、決して叶わないのだと思い知る。
「あなたの気持ちは、わかったから」
『────』
するとイグドラシルは、そっと少女の側に寄った。
『貴女の夢が、母親になる事なら────』
そして、少女の下腹部に優しく触れた。
『────人間の子は、母の胎内で育つわ。
世界 も────貴女の中で、育っていくわ』
ああ、だから同じね。
イグドラシルはそう言った。カノンの目が大きく見開かれた。
『此処で、叶えてあげる。貴女の夢を少しでも……』
見開かれた両目から、大粒の涙が溢れていく。
それを前に── 水晶の人形 は不思議そうに首を傾げるのだ。
『どうして、泣いているの?』
そこには一切、悪意など存在しない。しかし少女の気持ちを理解できるはずもない。
温度の無い両手がカノンの頬に触れる。あたたかいものに濡れていく。
「……やめて」
『泣かないで。笑って。ねえ、────“おかあさん”』
「やめて……言わないで……」
床に水晶の欠片が散らばっていく。イグドラシルはその理由を、最後まで理解することができなかった。
◆ ◆ ◆
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