◆  ◆  ◆



 薄墨色の空。
 鉛色の大地。黒く滲む水溜まり。

  無彩色 モノクローム の世界は、空が暗くなるにつれて明度を下げていく。

 視界が酷く不明瞭になる。ベルゼブモンは、霞む目を強く瞬かせた。

 周囲を睨んで見回す。意識を研ぎ澄ませ、命の痕跡を探る。
 この場所には────いや、この場所にも、もう誰ひとり残っていない。
 最早それは珍しい事ではなかった。しかしそれでは誰からも、少女に繋がる情報を得られないのも事実だ。

 聞き出せないなら、残された文字を。それも溶けて無くなっているなら、においの残滓を。遠くの音を。
 僅かでも構わない。どうにかして、手掛かりになるものが欲しかった。

 ああ、また別の場所を探さねば。
 歩む方向を変え、再び長い時間をかけて進む。歩幅は以前よりも広くなっている。
 荒野が終わる。廃棄物の山がいくつも並んだ、およそ不衛生な場所に辿り着いた。

「────」

 無機物で構成された廃棄物の山。
 見上げる。手の届かない高い位置に、白い花が揺れる幻覚を見た。

「……」

 頭痛を起こす。
 一瞬、ひどい空腹に見舞われる。
 しかしベルゼブモンは、どこか感じる懐かしさ──しかし少女との思い出ではない何かと共に、それらの感覚を必死に振り切った。ここで自我を失えば、また自分が何処に行ってしまうかわからない。
 それより、何か使えそうなものはないだろうか。無理矢理に冴えさせた思考で、ベルゼブモンは手掛かりになり得るものを探していく。廃棄物の山を次々に崩していく。

 ────すると

「!」

 瓦礫の中。見覚えのある何かが埋もれていることに気付いた。
 周囲の物を掻き分け、露にさせる。──それは朽ち果てた公衆電話だった。

 前に見たものとは、外見が少し異なる。それでも同じ機械だと認識できた。
 ベルゼブモンは扉をこじ開け、狭い空間の中にひとり、入り込んだ。

 これは、何に使うものだったろうか。

「……」

 ────ああ、確か、声が聴けるのだ。そういうものだと、あの子は言った。

 電源などある筈もない電話機。使い方だってろくに知らない。……それでも、かつての少女の動きを思い出して、真似る。
 受話器を手に取る。そっと、頬の付近に当ててみた。

「……」

 ただ、声が聴きたくて。

「…………カノン」

 嘘でもいい。幻聴でも構わない。
 ただ、もう一度だけ、自分の名前を呼んで欲しくて────



『────────ベルゼブモン?』



 声が。

 聞こえた。あの子の声が。

「────ああ……」

 また、自分の名前を呼んでくれた。
 どうして。わからない。そんなこと今は、どうでもいい。

「カノン……」

 少女の名を呼ぶ。はっきりと、うわ言ではなく。

「……カノン、カノン……今どこに……」

 聞きたいことがあった。話したいことがたくさんあった。
 なのにどうして、言葉がうまく出てこない。

 受話器の向こう側、少女の吐息が聞こえてくる。

「……泣いてるのか?」
『────』

 息を飲む音が聞こえた。

「痛いのか、カノン」
『…………』
「怖いのか、カノン」
『……。……いいえ、大丈夫』

 震える声が、返ってきた。

『大丈夫よ。ベルゼブモン……。……あなたが……生きていてくれるなら、それだけで』
「……」
『私は、嬉しい……』

 聞きたいことがあった。
 話したいことが、たくさんあった。

 けれど

「────カノン」

 少女の声を聞いた男は、ただ一言────これだけは伝えなければと、思ったのだ。

「待っていろ。必ず行くから」

 受話器の向こう。揺れる吐息。
 返事は無かった。程なくして、受話器からは一切の音が聞こえなくなった。

「……」

 男は受話器から手を離す。
 カールコードが伸縮して、受話器は何度か宙に揺れた。そのまま千切れて落ちていき、固い音を立てた。
 電話ボックスは朽ちていく。蝶番が外れ、硝子扉が瓦礫の海に倒れた。

 それを踏みつけ、男は外に出る。鈍色の空を見上げる。

「────」

 目を閉じる。少女の声を思い出す。
 目を開ける。一歩、前に踏み出す。

 その赤い瞳に、強い意志を込めて。



◆  ◆  ◆




『────どうして、此の場所の事を伝えなかったの?』


 乳白色のカーテンが揺れる、窓の無い壁。
 少女の白い指先と、人形の透き通る指先が、触れている。

『伝えれば、来てくれたでしょう』

 白い指が離れる。

『貴女は誰より、彼に想われているのだから』

 透き通った指が離れる。

『たった一度の機会だったのに』
「…………いいの」

 少女の声は震えていた。周囲には、あたたかな水晶の欠片が散らばっていた。

「……名前……また、呼んでもらえたから」
『……それだけで、良かったの?』
「いいの。いいのよ。それだけで十分……」

 荒い吐息。────それは、溢れる感情だけに起因するものではなかった。
 カノンは体勢を崩し、そのまま壁にもたれかかる。

『────具合は?』
「……」

 身体が火照って、喉を通る空気が熱く感じる。とても気分が悪い。
 体調の変化を感じたのは最近だ。────これも、肉体が変質している証なのだろうか。

 ふらつきながら立ち上がり、ベッドに腰を掛ける。両手で頭を押さえながら「大丈夫」と返事をした。

「────ねえ。どうして、こんな事を許してくれたの」

 ホストコンピューターとしてのアクセス権限を利用して、デジタルワールドの何処かにいるベルゼブモンと接触する。たった一度だけであれば、それが可能となる。
 カノンにそう囁いたのは他でもない、イグドラシル自身であった。

「此処から私が逃げたら、あなた達は困るでしょう。……なのに」
『けれど彼が来れば、きっと貴女は笑顔になるから』
「……そんな理由で?」
『ええ。それだけよ』

 イグドラシルは無表情のまま、白い壁を見つめていた。

「…………いずれにしたって、無理な話だわ。だって彼が此処に来ることを、クレニアムモンは許さない」
『ええ、ええ。そうでしょうね』
「だから、彼は呼べない。もう巻き込めない。傷つけられない。……傷ついて、欲しくない。死なせたくなかったの。だから私は……クレニアムモンが、私を連れて行くことを許したのよ」

 塔から自分を連れ出そうとすれば、クレニアムモンは必ず阻止しに来るだろう。そしてきっと殺し合う。銀の髪の男と同じように。──もう二度と、そんな事になって欲しくなかった。

「だから、これでいいの」
『……』
「……。……ありがとう。あなたのおかげで、最後にちゃんと声が聴けたわ」

 カノンはその言葉を口にすると、初めてイグドラシルに微笑みかける。
 イグドラシルはその表情を見て、何故だかとても悲しそうな顔をした。



◆  ◆  ◆



 身体が熱い。
 身体が寒い。
 血管が波打つ。
 鼓動の音が響く。

 熱を出した時。小さい頃は、母が枕元で看病をしてくれた。
 熱を出した夜。一人の時は、枕を抱きし めて朝を迎えた。

 そして、今は。

「────」

 ベッドから起き上がる。
 視界に差し込む明かりは眩しくて、この部屋は眠りに適さないとつくづく思う。
 視線をずらす。窓の無いカーテンの下で、イグドラシルが背を向け座り込んでいる。

 ────およそ、あらゆる事態の元凶であろう存在。世界の神様。しかしこうして眺めていると、どこか小さく儚い存在のようにも思えた。
 何より、あの存在には「悪意」が無いのだ。せめてそれが欠片でもあれば、いっそ恨むことだって出来ただろうに。

「……」

 人間に宿ったことに対しても、自身の世界が壊れていく様にも、罪の意識を感じているのだろう。こんな人間如きをやたらと気遣うのだ。

 なんて、不器用な神様だろう。

「……ねえ」

 自分から声を掛けるのは、少しだけ緊張する。

「この前はごめんなさい。強く言ってしまって」
『────』
「…………私が……もっと変わって、いつか消えても。あなたは此処で、一緒にいてくれるのよね」
『────』
「だから、私は……ひとりで死ぬわけじゃないって、思ったら……少しだけ、寂しくないの。それだけで十分、恵まれてるって思えたの。……だから、」
『────』

 イグドラシルは、背を向けたまま答えなかった。

「……イグドラシル?」

 ────直後、イグドラシルの偶像にノイズがかかる。

 明らかに様子がおかしいと、背中越しでも理解ができた。カノンは慌ててベッドから降り、イグドラシルの傍へと寄る。

「どうしたの──」
『────いけないわ』

 それは、カノンに向けられた言葉ではなかった。

『いけないわ。いけないわ。いけない。それでは、絶対に』
「……! ……い──」
『ああ、嗚呼……クレニアムモン……愛しい子……何故、最初から、どうして──』
「──イグドラシル……!」

 少女が出した大きな声に、イグドラシルは顔を上げた。

「落ち着いて、私を見て」
『…………ああ、いけないわ』

 水晶の瞳に少女が映る。
  透き通る指があたたかな頬に触れる。──触れる感触が伝わる。
 それまで虚像として存在していたイグドラシルが、およそ涙の結晶にしか触れられなかった筈の偶像が──今、確かに肌に触れている。

『だって……、……変質していくのは、 世界 わたし の方だったのだから』

 揺れる声色に、言葉に、少女は目を見開いた。

世界 わたし は、貴女の中で育っていくのに』
「…………どういうこと?」
『救われるわ。 世界 わたし が救われる。けれど──嗚呼、クレニアムモン。完成した 世界 わたし を体内に残したままでは……回路を、繋いでは……。 世界 わたし が、 世界 わたし でなくなってしまう────』

 少女の中で育っていく。その過程でさえ、自らの性質が変化していることを自覚する。
 それでも、育つ。けれど母体の中から外部と接続し、花開けば──イグドラシルという存在そのものが変質してしまう。
 気付いた時には遅かった。イグドラシルさえ想定していなかったのだ。そもそも、そんな未来を試算する余力は残されていない。

 しかしカノンは冷静だった。イグドラシルの肩をしっかりと掴み、自分の方へ身体を向けさせた。

「当然よ」
『────』
「お腹の中で育った子は、いつか必ず出ていくもの」

 育ったのなら、きちんと産まれて来なければならない。
 胎内に在り続ければ、親も子も死んでしまうのだから。

「……でも、クレニアムモンはきっと、私の中であなたを完成させるわ」
『ええ、ええ。そして貴女の中で── 世界 わたし を義体達と繋いで、デジタルワールドを再編させる』
「それにクレニアムモンは絶対、私をここから出そうとしない」
『ええ、ええ。 クレニアムモン あの子 は貴女を逃がさない。全てを最初からやり直すわ。
 ああ、嗚呼。いけないわ。それではいけない。────あの子を助けてあげなければ』

 でも、と。水晶の瞳が伏せられる。カノンはイグドラシルの手を握った。

『今は、還れない……。 イグドラシル 世界の核 は、まだ育っていないのだから』
「……そうね。早く産まれすぎたって、生きられないもの」

 つまり──分離可能な時期になったら、少女自身が天の座に赴かなければならない。イグドラシルを連れて行かなければならない。
 クレニアムモンはそれを許さないだろう。彼は世界を救うからだ。全てを救済するからだ。だからきっと、厳重に少女を軟禁する。

 クレニアムモンを止めなくては。
 世界の再編。そんな事をすれば────ベルゼブモンだって、どうなるかわからない。

 カノンは考えた。そして、ふと思い立ち──熱を持った手でイグドラシルの手を掴むと、そのままカーテンの下の壁に触れさせる。触れた部位から蛍光が浮かび、壁を走り抜けていった。

『……』

 イグドラシルは少女の顔を見る。カノンは壁に手をついたまま目を閉じ、自身の咄嗟の行動が意味を成す事を願った。



 ──しばらくして、鈴の音が鳴る。
 返事をする前に扉が開いた。姿を見せたのは──酷く憔悴した、黄金の騎士であった。

「────マグナモン」

 騎士は胸に手を当て、深く深く頭を垂れる。

「……っ」

 ──騎士はしばらくの間、顔を上げる事ができなかった。
 モニター越しに日々泣き続ける少女に、慰めも謝罪もできないまま、ひたすら罪の意識に溺れていた。それがどれだけ卑劣な行為かは、彼自身が誰よりも理解していたというのに。

 それでも今、意思を固めて訪れたのは────イグドラシルが用いる筈の 専用回線 ホットライン が突如、起動したからであった。

「……ああ、本当に……」

 顔を上げて──少女の有り様を、現実をようやく直視する。
 部屋に一人佇む少女の姿は、以前と変わらない筈なのに──それでも既に変質していると分かってしまう。

「小生は、……貴女を、守れなかった。……どれだけ詫びても……足りません」

 あの日。
 クレニアムモンに言われるがまま、のうのうと休んでいた自分に──自己嫌悪と罪悪感が溢れて止まらない。

「あなたのせいじゃないわ」

 そんなマグナモンに、カノンは言い切る。

「…………しかし」
「それより、早く。クレニアムモンが気付く前に」

 側に寄るよう騎士を呼ぶ。マグナモンは困惑しながらも、言われるがまま少女の前に跪いた。

「……具合は、どうですか。……我が君は?」
「私の中で、少しずつ」
「…………そう、ですか」
「この子、ひとりじゃもう、あなたを呼ぶことだってできないの。──だから」

 手を貸して。そう言って、少女は騎士に手を差し伸べた。
 マグナモンはその手を取った。そして白く小さな手の甲に、自らの額を寄せて付けた。

 ──すると。

『────マグナモン』

 頭の中で声が聞こえた。
 それは、聞こえる筈のないものだった。
 肉声として、音としては存在しない──電子信号のみであった筈の、創造主の声。

 何故、と言いかけて──マグナモンはすぐに気付く。イグドラシルもまた、少女の体内に在る事で少なからず影響を受けていたのだと。

『マグナモン。我が騎士。愛しい黄金の子。──卿に、サーバー“ラタトスク”への接続権限を許可します』
「……! それは……デジタルワールド中の、全てのデジモンの情報を……?」
管理者 イグドラシル に代わり、卿が導きを。──そして、 全ての騎士が世界樹へと還るように ・・・・・・・・・・・・・・・・

 その会話が意味する事を、共に聞いていたカノンは理解できなかった。しかしマグナモンは、そのたった一言にしっかりと頷き──頭を垂れて誓う。

「────我が主よ。必ずや」

 そして騎士は立ち上がる。身を翻し、決意を込めた瞳で前を見据えた。
 彼の目には映らないイグドラシルの偶像が、その背中を見守っていた。

「カノン」

 扉の前で一度、マグナモンは振り返る。

「……どうか……貴女の願いが、叶いますよう」

 まだ奇跡は起こり得る。そう言いたかったのだろうと思った。

「──ええ、あなたも」

 鈴の音と共に扉が閉まる。
 部屋に残された無力な二人は──ただ、祈る事だけしかできない。



◆  ◆  ◆




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