◆ ◆ ◆
静まり返った仮初めの星空。
誰もいない宿舎棟の屋上で、蒼太はひとり体育座り。ぼんやりと虚空を仰ぐ。
既に子供は寝る時間だ。食後の歓談も入浴も、枕投げだって済ませている。あとは眠って、朝を迎えるだけ。
けれど蒼太は部屋を抜け出し、こんな場所へとやって来た。──なんとなく眠れない。それだけの理由だった。
少しだけ肌寒い、夜の空気のせいだろう。友達が近くに居るのに、なんだか寂しい気持になった。
「────あれ? 蒼太?」
と。よく知る声が聞こえてきて、振り返る。
扉を半分開けた花那が、目を丸くさせていた。
「何してるの?」
「……花那こそ」
「私は……なんとなく、外に出たくなっただけで」
語尾を小さくさせる。大方、彼女も寝付けなくて部屋を出たのだろう。
「蒼太がひとりになりたいなら、戻るけど」
「そういうわけじゃないよ」
蒼太は体を向けて花那を呼んだ。花那は遠慮がちに、そのまま蒼太の近くに腰を下ろす。
同じように体育座り。少しだけ伏し目がちに、膝に顔を乗せていた。
「……」
「……」
沈黙が続く。
冷えた風が、二人の頬をそっと撫でた。
「……宮古とチューモンは?」
「先に寝てる。誠司くんは?」
「ぐっすりだよ。ユキアグモンも一緒。あいつ、あんま色んなこと気にしないタイプだから」
「……手鞠は、チューモンと色々話したみたいで……多分、明日は大丈夫なんだと思う」
「そっか。……じゃあ、あとは俺たちだけだなぁ」
蒼太の言葉に、花那は黙って頷いた。
……都市に戻って来てから、まだパートナーときちんと話せていない。明日の事も、彼らの事も。
「ねえ。明日は私たち、あの上に行くんだよね」
話題を少しだけ逸らして、満天の星空を見上げる
「なんか、すっごく遠くまで来ちゃったね」
家から、学校から、廃墟のビルから。
思えば随分と遠くに来たものだ。まさかこんな事になるだなんて、誰が予想できただろう。
「……結局俺たち、どのくらいデジタルワールドにいるんだろう」
「わかんない。数えてないもん。でも、夏休みくらいはいたんじゃない? 長いけどあっという間な感じ、ちょっと似てるかも」
花那の目に映る、作り物の星が瞬く。
これが、明日には本物になるのだ。自分達がやり遂げれば──この毒まみれの日々が、ようやく終わる。
「……早く、皆で笑えるようになりたい」
花那の口から、抱えていた気持ちが零れた。
「ごめん。……今、変なこと言った」
「……変じゃないよ。……言わないでモヤモヤするくらいなら、ここで吐き出しちゃえばいいのに」
「……それは、そうだけど……」
そう言いつつも、花那はもごもごと言葉を転がしている。
「大丈夫だよ。俺しか、ここにいないんだから」
「……。……なら……今だけお願い。少しだけだから」
蒼太が頷くと、花那は立ち上がった。
見えないフェンスの向こう、夜に眠る都市に向けて──
「あーあ!」
叫ぶまではいかない。
それでも大きな声で、花那は自分の心の中を吐露していく。
「デジタルワールドって、もっともっと楽しいと思ってたのになー!
すごくドキドキで、ワクワクで、そんな冒険が待ってると思ってたのになー!」
見知らぬ土地。見知らぬ生き物。胸が高鳴るような出会いと出来事。
本当なら──命の危機が伴う旅ではなく、大好きな友人達と、そんな楽しい旅をしたかったのに。
「もー、何でこんな事になってんだー!」
でも、それは仕方のない事だ。誰が悪いわけでもない。
分かっている。最初から分かっていた。だからこそ、言えなかった。
「……うん。……本当、そうだよな」
「でも……! ……でも、ここまで来れた! 来れたんだ! だからあと少し……っ……早く遊びたいよー!!」
決して理想的ではなかった旅。
それでも、後悔だけはしていない。ここまで来られた自分達を褒めてあげたい程だ。
「────っ……、はーっ」
声を出して満足したのか、花那は荒くなった息を深呼吸して整える。
「……スッキリした?」
「うん。した! もう平気!」
「なら良かっ……え、何で泣いてんの!? スッキリしたんだろ!?」
「……なんか、大きな声だしたら気が緩んじゃって……」
「バカだなあ」
「……ごめん。少ししたら多分、止まるから。ちょっと待って」
必死に涙を拭いながら弁明する。別に、急かしているわけではないのだが。
「……なんかさー、明日が来て欲しいのに、来て欲しくない感じ」
「どっちだよ。……まあ、気持ちは分かるけど」
「……蒼太、何でそんな平気そうなの?」
「平気じゃないよ。だからここに来てるんだし。……多分、緊張してるんだと思う。明日どうなるんだろうって……全然、落ち着けない」
そうして、眠れもせずに時間だけが過ぎていく。夜が明けるまで、あとどれくらいだろう──そんな事を考えながら。
「……でもさ。やっぱり俺は、早く明日が来て欲しい。明日で全部終わらせて……そうしたら、本当の夏休みが来るから……今度こそ、皆で楽しく冒険するんだ。
毒が無くなったらきっと平和になるよ。色んなデジモンと会って、色んな場所を探検してさ。──コロナモンとガルルモンが一緒なら、俺たちきっと、どこへだって行ける気がする」
それは、初めてデジタルワールドの話を聞いた時に抱いた夢。
空想していた未知の世界。希望と期待に満ちたデジタルワールド──それを取り戻して、今度こそ。
「だから明日も……明後日も、ずっと、皆で生きて……」
言葉が喉につっかえた。
蒼太は思わず顔を下に向け、花那から見えないように背ける。
「……やばい。なんか俺まで泣きそうになってきた」
「あーあ、やっぱり蒼太もダメだったじゃん」
「なんか、怖いのと不安とが一気に来た。どうしよ」
「私はもうすぐ復活するもんね」
「うわ、ずりー。どうせなら巻き込みたかったのに」
二人は泣きながら笑っていた。
「泣き止むの、見ててあげる」
「うるせー」
「いいじゃん。私みたいにスッキリできたら……きっと、コロナモンたちの所に行けるよ」
「……。……でも、もう寝てるかもしれないし」
「……私は、まだ起きてると思うな。多分あれこれ悩んでるよ。私たちと同じで」
なんだかんだ、似てるのかもしれない。そう言って、花那は最後の涙を拭った。
「二人の所に行こうよ。最初に会った時みたいに」
花那は蒼太に手を伸ばす。
「……おばけビルじゃ、俺についてくるのも大変なくらいビビってたくせに」
そんな事を思い出して、笑いながら握り返し────蒼太は立ち上がった。
「サンキュー、花那」
「うん。こちらこそ」
◆ ◆ ◆
──暗がりの寝室。
宛がわれたベッドの上で、コロナモンは枕を抱えてうずくまっていた。窓際では、床に伏せたガルルモンが呆然と外を眺めている。
仲間達が居ないからだろうか。部屋の中は広くて、やけに静かに感じられた。
暗い部屋。窓から望む夜空。
まるで、リアルワールドで初めて迎えた夜のような。
──けれど、あの時とは何もかもが変わっている。
見上げる空の色も。仲間が増えた事も。
自分達が強くなれた事。そして今、毒の厄災を終わらせる一歩手前まで、足を踏み入れている事。──そんな、何もかもが。
「……実感、できないなあ」
零れた声に、ガルルモンは「何がだ?」と顔を上げた。
「だって俺達……もしかしたら、明日世界を変えられるかもしれないんだよ」
冗談交じりに言ってみる。ガルルモンも、少しだけ笑ってくれた。
「明日が終わったら、どうしようか。コロナモン」
「……そうだなあ」
思い浮かべてみる。あくまでも、非現実的な未来の話を。
「取り敢えず、何日かお休みが欲しいかな」
「なんだそれ」
想定外の答えに、ガルルモンは喉を鳴らした。
「昔のお前なら、もっと夢のある事を言ったのに」
「……今は……色々と思うと、なんか切なくなっちゃうからさ」
明日は全てが決まる日だ。全てが終わって、全てが始まる日だ。
どのような結末を迎えるかは、自分達の手に掛かっている。
──正直、かなりのプレッシャーだ。
マグナモンは、最後の戦いを自分達に託した。やっと完全体に進化できたばかりの自分達に、究極体との決戦を託したのだ。
押し潰されそうで、無理矢理にだって上手く笑えない。
本当ならパートナー達と時間を過ごしたかったのに────こんな様子では、二人を余計に不安にさせるだけだろう。
「もっと上手く、やりたいのになあ。俺達」
「……本当に。こればっかりは成長できなかったな」
「でも、ひとつだけ前向きになれる事もあるんだ。マグナモンが言ってた事……」
「…………もしもの時の、脱出プログラム?」
「うん。……どうなっても、あの子達だけは帰してあげられるんだと思うと、安心する」
自分達がずっと切望していた事。蒼太と花那を、子供達を、無事に家まで帰してあげる事。
マグナモンの言葉が本当なら──それだけは、確約される。
「でも……もしそうなったら、あの子達は悲しむよ。あの日の僕達と、同じ思いをさせる事になるんだよ」
「……分かってる。俺だって負けたくないよ。……生きていたいに決まってる」
子供達を守り抜いて、毒の消えた世界で。今度こそ笑って生きていたい。
今、願うとしたらそれだけだ。多くを望みはしないから──せめて、それだけでも。
「ああ、でも、どっちにしろ……毒は、無くなるんだっけ。イグドラシルが新しくなったら、デジタルワールドも創り直されて……」
つまりどうなっても、忌まわしき毒は明日で終わり、世界には平和が訪れるのだ。
それならそれで、文句はない。毒が無くなってくれるのなら。
────けれど。
世界が変わったらどうなるだろう。自分達は、仲間達はどうなるだろう。
きっと、新しい何かに生まれ変わるのだろう。そして────蒼太と花那の事も、仲間達の事も、今日までの思い出も、失った記憶だって、多分、二度と思い出せなくなる。
よくも悪くも一区切りだ。
そうなったら、とても寂しいというだけで。
「──嫌だなあ。ただでさえ昔の事も思い出せないのに。これ以上、思い出が無くなるのは」
目を閉じて、枕に顔を埋める。
瞼の裏に焼き付く痛みが走り、星ではない光が瞬く錯覚をした。
その、瞬きの中に
「コロナモン。……今、何か見えてる?」
「────え」
顔を離した。目を見開くと錯覚が消えた。
──ガルルモンが、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「……ガルルモン……」
「頭が痛くなると、知らない誰かが見えるんだ」
「…………それは」
「でも、それが誰なのか……僕は知らない。なのに一瞬だけ浮かぶんだよ。
僕はおかしくなったんじゃないかって……。……こんな事、あの子達には言えなかった」
コロナモンは、そっとベッドから降りる。
「本当に、知らないのに……」
窓際へ。ガルルモンの前へ。
「────ガルルモン。きっと俺達は知ってるんだよ。ただ、覚えてないだけで」
それはきっと──遠い過去に置き去りにした、誓いと約束。
自分達が道を進む程、頭の中に突き刺さる。失った記憶の欠片なのだろう。
ガルルモンは顔を上げた。
そして──目の前のコロナモンの姿に、初めて出会った日の夕焼けを思い出した。
「……ああ、────僕は……本当に、ずっと前から……お前と、出会ってたのかもしれないね」
そして昔も今も、同じ人間の友達を持っていたのかもしれない。
根拠はなく、そう感じた。しかし目に映る『誰か』は、もう彼らの前にはいない。どこにもいない。最後に、どんな言葉を交わしたのかも思い出せない。
いつか蒼太と花那との思い出も、こんな形になってしまうくらいなら──
「なあコロナモン。やっぱり僕は……心残りは、少ない方がいいと思うんだ」
かつて、伝えられなかった想いがあった。
それを後悔している。もしかしたら遠い過去の記憶の中でも、そんな後悔があったのかもしれない。
コロナモンは「そうだね」と微笑んで、立ち上がる。
────負けるつもりはない。それでも今度こそ、いつか来るであろう別れの日を、笑顔で迎えられるように。
「二人に会いに行こう。俺達の、大事な友達に」
◆ ◆ ◆
コロナモン達がドアの前に立つと、その向こう側からノックする音が聞こえてきた。
向こうに居るのが誰なのか、ガルルモンはにおいですぐに理解する。
顔を見合わせて、少し嬉しそうに扉を開けると────
「──あれ、どこか行くとこだった?」
慌てた様子の蒼太がいた。その後ろには、花那が。
「ううん。僕らも、二人の所に行こうとしてたんだ」
「じゃあ丁度よかった。……えっと」
「お、お菓子! ……持ってきたの。一緒に食べようと思って」
星空が望める窓際で、特別な夜食の時間。
蒼太と花那が食べ物を広げる様子を、ガルルモンは目を細めて眺める。
「……前にも、こうして僕らに食事を持ってきてくれたね」
「そういえば、サンドイッチ持ってったっけ。また作って来てあげるよ」
「ちょっと、作ったの蒼太じゃなくて私とママ! ……ねえ、次は皆でピクニックしようね。もっとたくさん、今度は豪華なお弁当作るから」
──そんな懐かしい話をしているうちに、用意したお菓子はあっという間になくなってしまった。
部屋を訪ねる口実にと持ってきたのだが──花那は少し残念そうに、もっとたくさん持ってくればよかったと呟く。
「お腹空いたの?」
「ち、違うよコロナモン。そうじゃなくって……」
「ははっ。花那、大食いキャラになったのかって心配されてる」
蒼太が意地悪く笑うと、花那は頬を膨らませて怒る。それを見て、コロナモンとガルルモンが笑う。──四人でこんなやり取りをするのも久しぶりだ。
「お菓子がなくても、ここにいればいいのに。僕らも元々そのつもりだったんだから」
「……。……寝るのも、ここでいい?」
「もちろんだよ。ベッドもあるし」
「……やだ! ここがいい!」
花那はガルルモンの腹に顔を埋めた。
ガルルモンは少しだけ驚いて、それから嬉しそうに花那へ鼻を擦り寄せる。
「……そうだ。蒼太がね、すっごく楽しそうな事、考えてきたんだよ」
「え、ちょっと」
先程の話を振られて、蒼太は困惑する。コロナモンとガルルモンは興味深そうに蒼太を見た。
「いや、でも、明日の事でもないし……もっと先の事っていうか……」
すると、コロナモンは嬉しそうに「聞かせて」と──花那の隣に座り、蒼太も自分の横に座るよう手招いた。
三人でガルルモンの側に並ぶ。蒼太は少し恥ずかしそうにしながら、花那と抱いていた夢の話を二人に語った。
いつかデジタルワールドで、心躍るような冒険を。
ガルルモンの背に乗って、どこまでも駆けて行く。そんなひと夏の冒険を。
明日が終わってもずっと、一緒に未来を生きていきたい。少年と少女が抱く、小さな夢。
「「…………」」
コロナモンとガルルモンは言葉を失った。
ああ、この子達は本当に────自分達との未来を、夢に見てくれていたのか。
「でもその前にしっかり休まなきゃ! なんか今日、二人とも具合悪そうなんだもん」
「明日が大変になっちゃうからな。俺、聞いた事あるよ。二人のそういうの、『へんずつう』って言うんでしょ?」
蒼太はコロナモンの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「そ、蒼太……」
「……無理に言うことないよ。ただ、元気で……たくさん笑って欲しいんだ」
「もし辛くなったらね、私と蒼太が、一緒にいるからね」
「────」
暗い部屋を照らす夜空の明かり。無邪気で優しいふたつの笑顔。
懐かしく短かった廃墟の日々を思い出して、喉の奥が熱くなる。
「……蒼太、花那。……少しだけ、手を」
コロナモンが言い切る前に、蒼太と花那は彼の手をそっと握った。
────ああ。肌を伝わる、ピリピリとした感触が心地好い。
「……あったかい」
花那はそのままガルルモンにもたれ掛かって、鼻先を撫でる。ガルルモンは目を細めながら、二人に「ありがとう」と言った。
「……お礼なんて、言わないで。そんなの……明日に取っておいてよ」
「俺たち頑張るよ。だからさ、……コロナモン、ガルルモン……」
「……約束だよ、二人とも。
きっと明日を乗り越えて……そうしたら、今度こそ楽しい冒険をしよう。一緒に、僕らのデジタルワールドを」
愛おしい温もり達を感じながら、ガルルモンは彼らを照らす星空に祈る。
どうか自分達を見守って。明日も明後日も、ずっと一緒に生きていられますように。
どうか、どうか。────ダルクモン。僕達を、見守っていてくれ。
◆ ◆ ◆
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