◆ ◆ ◆
夜は深く、どこまでも深く。
棟の中は静まり返って、廊下に灯されていた蝋燭も消えた。
誰も居ない食堂で、ひとり。ベルゼブモンは机に頬杖をついている。
窓から僅かに明かりが差し込んで、彼と白いテーブルクロスを照らしていた。
テーブルには彼が食い散らかした夕飯の跡がそのまま。彼がいつまでも隅に座っているものだから、レオモンは最後まで食器を片すことが出来なかったのだ。
「……」
──やはり、昼に大量のデータを捕食したからだろうか。男の意識は明瞭なまま、空腹で本能に溺れる気配も今はない。
ぼんやりする、という久しぶりの行為の中、男は珍しく疲労感を覚えていた。肉体の損傷は修復されているのにも関わらずだ。
彼自身に自覚はないが、その疲労は主に精神的なものである。
カノンを救い出す道が拓けた安堵感。そして、突如得た多数の“協力者”達との、単純なコミュニケーション疲れ。カノンもベルゼブモンも、元々そこまでパーソナルエリアが広い方ではない。
故に、可能であればベッドで安眠するのが望ましい状態ではあるのだが。とてもそんな気分になれず、こうして時間を浪費する事しかできなかった。
「……」
──時間が経つにつれ、音は消え、灯りも消え。けれど闇には飲まれなくて。
窓の外に目を向けると、空に何かが散らばっている事に気付いた。──椅子から立ち上がる。
見上げた先は仮初の星空。灰の空の下で生きてきた彼は、それが何か知らなかった。
黒の海に点在する白い光。────この先に、彼女が居るのだろうか。
「カノン」
名前を呼んだ。夜の向こうに少女を探す。
顔を浮かべて、声を浮かべて。思い出を巡り、想いを紡いで────気付けば手を翳していた。
黒い手は光を遮り、男の視界が暗がりに淀む。
「…………」
ああ、この手は、やはり嫌いだ。
毒と同じ色。命を奪う為だけのもの。今までもこれからも、喰らう為に振るうもの。
──そう思っていたし、それが、変えようのない事実だと分かっている。
奪ってばかりで、大切なものはちっとも守れない。そんな役立たずの手。使えない身体。……嫌いだ。何もかも。
けれど。
この手には、確かに少女の温もりが在ったのだ。
穢れた不完全な身体でも、生き抜いて、記憶を重ねていった────その事こそが、カノンと過ごした証なのだと。
……それを彼らが気付かせてくれた。あの小さくて騒がしい、人間とデジモン達が。
────“ 彼らは仲間です。貴方の……貴方とカノンの、仲間となる筈だった者達です。 ”
マグナモンの言葉が過る。
騒がしいのは得意ではない。静けさの方が自分に馴染んでいるからだ。だが────彼らが、彼らも、カノンを探してくれる。見つけてくれる。その意味をやっと理解してから、どこか安心している自分がいた。
だから、「大丈夫だ」と。……そう、カノンに伝えたかった。
けれどそれは叶わない。伝えたい事がたくさんあるのに。
遠い空の果て。星明かりの先。届かないと分かっていても、手を伸ばしたくなるのは何故だろう。
「────」
──遠い日。初めて、毒に溺れた日の情景が浮かぶ。
無機物の街と廃棄物の山。そこで確かに生きていた白い花。
手に取りたくて、掴もうとしても届かなくて、そのまま飲まれて堕ちていった。そんな、ある日の事を。
それは毒に微睡む夢の話。もう自分ではない誰かの記憶。
けれど目にする度、そこにいる誰かの姿が──不思議と自分に重なるのだ。
『────今度も、そうなるかもしれないよ』
頭の中で声がする。
『届かないのに手を伸ばして──君はきっと、また溺れて。
昔の様に、いつか仲間さえ喰うだろう』
銀の髪の男の残滓は、今日も穏やかに忠告する。
『だから、君。どうか気を付けて往くといい』
そこに個としての意志は無く、ただ直感の代弁をしているだけ。
事あるごとに囁いてくる、それはいつだって煩わしくて────
「────大丈夫だ」
だが、男は声に応えた。
拒絶も否定もせず、初めて声と向き合ったのだ。
「俺はもう、大丈夫だ。────アスタモン」
──その時。
ベルゼブモンは一瞬、背後に誰かが居るような感覚を抱いた。
けれどそれは錯覚で、そこには誰も居やしないのだと──分かった上で言葉を繋ぐ。
「……お前も……もう、休んでいい」
『────ああ、君。……それは良かった』
声が消える。
頭の中が、不思議なくらい静かになった。
硝子を開けた。冷えた空気が流れ込んでくる。短く結んだ腕のスカーフが、少しだけ風に揺れた。
「……もうすぐだ。カノン」
零した声は夜に消える。男の濁った瞳に、白い光が僅かに映り込む。
「俺は、もうすぐ────」
◆ ◆ ◆
『────もうすぐだわ、“おかあさん”』
美しい鈴鳴りの声。
それは反響する事なく、白い空間に吸い込まれた。
『 世界 が完成するわ。もう、この涙で世界を汚す事も無くなる』
そう語る水晶の電脳人形は、何も無い空間に顔を向けている。
「……ねえ、あなた。そこに私はいないのよ」
美しい鈴鳴りの声。
それが届く事はなく、透き通る背中に吸い込まれた。
人形は虚空に語り続ける。少女がそっと手を触れても、気付きはしない。
イグドラシルの本体は少女の体内に在り、人形は蜃気楼の様な偶像だ。
けれども今までは、互いを認識し合う事が出来ていたのに。──時折、偶像にノイズが混ざる事が増えてきた。
「……私の声……まだ、聞こえてる?」
『──。────ええ、ええ。けれど、とても遠い』
イグドラシルにおける母体との接続が、目に見えて困難になっている。
このまま目も耳も、声さえ使えなくなって、いずれ消えてしまうのか。──そう、思わずにはいられない。
異変は人形だけではなく、この天の塔そのものにも起こっていた。カノン達が過ごしている部屋の構造が、何度もその姿を変えていくのだ。
何も無いシンプルな部屋から、学校の教室、公園、住宅街の一角へ。不思議と真っ白な空間として現れた。──今は、マンションの一室のような間取りに姿を変えている。
何故だろう。瞬きの間に移ろいゆく景色は、どれも、記憶の中のそれと似ているのだ。
「…………」
これらの異変は──イグドラシルが存在そのものを、変質させようとしている証でもある。
新たな神へ成り果てて、新たな世界を創造する為。これはきっと、通過儀礼なのだろう。
「……ねえ。私、ここにいるわ」
様々な憶測が不安を煽る中、少女は人形に声をかけ続ける。
「あなたも、ここにいるのよ」
手を強く握ると、ようやくイグドラシルが反応を見せた。
美しくも虚ろな瞳が、ぼやけた輪郭で少女を捉える。
「……大丈夫。マグナモンが助けを呼んでくれる。あなたを、きっと助けてくれるから」
クレニアムモンを止めて、イグドラシルを天の座へ。
自分だけでは叶わない。マグナモンだけでも敵わない。だから、外部からの助力に頼る他なかった。そうしなければイグドラシルの変質は止められない。
──尤も、助力を得たところで間に合う確証も無いのだが。
それこそ、クレニアムモンが自分と義体達を繋ぐより以前に、イグドラシルの変質が完了してしまう可能性だってある。
けれど、とにかく今は──どうかマグナモンが、それが可能な“誰か”を連れて来る事を信じて祈るばかりだった。今の自分達には、そうして待つ事しか出来ないのだから。
……ああ、でも。その“誰か”の中に、あの人が入っていないと良いのだけど。
『──、──……』
「……どうしたの?」
イグドラシルが何かを言ったような気がして、カノンは耳を近付ける。
「何て、言ったの?」
陶器の様に滑らかな唇が僅かに動いた。『ごめんなさい』と。
「それは、どうして」
『──、……あなた、を────かえして、あげら、れなくて──』
少女は一度、口を噤む。
それから細い指で、水晶の髪をそっと撫でた。
「…………いいのよ」
いつか夢に見ていた未来。ぽろぽろと零れて、とうに消えた。
「だって此処で、少しでも叶えられるんだって……あなた言ったわ。私には、それで十分」
何も出来ずに、成さずに、残せずに、怖い思いをしながら消えていく事に比べたら。
ほんの少しの夢を叶えて。懐かしい思い出と──紡いだ想いを胸にしまって。
そうして最期まで生きられる、なんて幸せな事。
──そう、言い聞かせて。
自分を抱きしめるように、自分と同じ顔の人形を抱きしめる。
「だから────産まれておいで、イグドラシル。私が、抱いていてあげるから」
水晶の人形にノイズが混ざる。触れていた感触が、無くなっていく。
『…………ありがとう。……“おかあさん”……』
それを最後に、イグドラシルの声は聞こえなくなった。
自分の家とよく似た空間で、一人きり。
白い壁紙とホワイトウッドの床。母の写真が入っていた筈のフォトフレームは空っぽ。
誰も帰ってこない部屋で過ごす、いつもの日常が戻ってきた錯覚をする。──ひどく静かで、とても穏やかだ。
乳白色のカーテンが揺れる。作り物の陽射しが眩しくて、思わず涙が出そうになった。
そっと、窓際へ。
硝子に額を当て、光にまみれた外を望む。
窓の向こうは思い出の風景。懐かしい景色。季節外れの、鮮やかな黄色のイチョウ並木。
胸が苦しくて、目を閉じる。
──身体が熱い。それなのに、ひどく寒い。
血管は波打ち、鼓動の音が鈍く響いて聞こえた。
「……。……お母さん……」
心が切なくて、苦しくなって瞼を開ける。
差し込む光が焼き付いて、思わず瞬きを繰り返す。
目に映した窓の外には────
「────」
無機物で構成された街並。モノクロームの世界。
彼と出逢い、彼と、外の世界へ抜け出した場所。
「ベルゼブモン」
名前を呼んだ。
咄嗟に窓を開け、手を伸ばす。そこに在るのはただの虚像で、何も無い空間だと分かっているのに。
……それなのに、どうして。
窓の向こうから────やわらかな風が、吹き込んだ気がしたのだろう。
「────、あ……」
風は少女の頬を撫でて、溢れる涙を連れて行く。
涙は水晶の欠片となり、散らばった。少女がとうに“まとも”でなくなってしまった事を、祝福するように煌めきながら。
──けれど、カノンはもう嘆かなかった。セーラー服の袖で、自身の顔を乱暴に拭った。
顔を上げる。唇を噛みしめる。それから──誰もいない痩せた下腹部を、優しく撫でた。
スカートを揺らして踵を返す。
見慣れた形の玄関に手を掛け、誰も居ない家の中を、一度だけ振り返って────
「────いってきます」
愛おしかった日常に最後の別れを告げる。
カノンは、部屋を抜け出した。
第二十九話 終
→ Next Story