◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「イグドラシルを連れて何処へ?」
夜明け前。
白い牢獄を彷徨う少女に、黒紫の騎士は背後から声を掛ける。
「部屋に戻りなさい。怪我でもしたら大変だ。道が変わって帰れないという事なら、私が送ろう」
気遣いと威圧が混ざり合う声。
カノンはゆっくりと振り返り、虚ろな表情を騎士に向けた。
「あなた、知らないのね」
「──と、言うと?」
「少しは動かないと、“この子”に良くないわ」
そう言って、痩せた下腹部に手を当てて見せた。──クレニアムモンは思わず目を見張る。
「ほら、“この子”も散歩がしたいって」
「…………君は……自身の状態と言動を、認識できているのかね?」
ええ、もちろん。カノンは躊躇わずに答えた。
「夢を少しだけ叶えてるの。私、おかあさんだから」
「……────」
クレニアムモンは顔をしかめた。軟禁している間に狂ってしまったのだろうか?
確かに、自分が彼女に為した非人道的行為を顧みれば──発狂してしまっても不思議ではないのだが。
「とは言え、変な気を起こして身投げでもされたら困るのだよ」
「その時は助けてくれるでしょう。あなたは私を死なせないわ」
クレニアムモンは顎の下に指を添え、「ふむ」と一考する。どうやら死ぬつもりはないらしい。
──天の座に配置した義体の回路は、既に塔そのものへ接続している。
イグドラシルが完成した時点で、母体を介したまま同調が開始されるのだ。少女が何処にいようと、それは変わらない。
それに──何かを企んでいるのか、それとも本当に発狂したのかは、さて置き。
「それで君の気が済むのなら、まあ、いいだろう」
何れにせよ、この階層から抜け出す事は出来ないのだから。
「ええ。ありがとう」
カノンはそのまま、細い身体を引き摺りながら歩いて行く。
彼女の跡形を残すかのように、白い空間は形を変えて歪んでいく。
────程無くして。
天の塔全体に、侵入者を知らせる警報が鳴り響いた。
*The End of Prayers*
第三十一話
「英雄譚」
◆ ◆ ◆
────遠足の前の日は、何回分も目覚まし時計をセットする。
遅刻なんて絶対にできない。
いつもだってしたらいけないのだけど、特別な日はもっとダメだ。
今日は遠足じゃないけれど、特別な日。きっと何にも代えられない一日になる。
……ああ、そういえば。昨日は寝る前に、ちゃんと目覚ましをかけたんだっけ────
「────……太。蒼太」
「……ん……」
「時間だ。起きないと。花那はもう起きてるよ」
「……。……! あ、目覚まし……! ……あれ?」
「おはよう、蒼太」
「お……おはよう、コロナモン……」
蒼太は寝ぼけ眼で周囲を見回す。
空には昇り切った太陽の幻影。目覚まし時計の代わりに、どこかから鐘の音が聞こえてくる。生憎と効果は薄かったようだが。
花那は洗面室にいるようだった。──昨晩、自分達がいつ頃寝たのか思い出せない。
「ガルルモンごめんな、お腹で寝ちゃって……」
「気にしないで。むしろ寝心地は良いくらいだったよ」
ガルルモンの腹部の毛並みには、蒼太の寝跡がしっかりと残っていた。花那がいたであろう場所は既にブラッシングされていて、蒼太も慌てて手櫛で整える。
「ちょっと蒼太。早く顔、洗いなよー。時間ないよ!」
洗面所から花那の急かす声が聞こえてくる。どうやら朝食はもう用意されているらしい。
子供達が慌てて身支度をしていると、今度は部屋をノックする音が聞こえてきた。レオモンが迎えに来たのか──コロナモンが扉を開ける。
すると、
「────ホーリーエンジェモン!?」
「ああ、諸君。昨夜はよく眠れただろうか」
「はい、いや、というか、まさか貴方が来るなんて……。それにその手足は……」
「天の騎士殿が復元なさったのだ。……私の行動については気にするな。リハビリとでも思ってもらって構わない」
それは良かった、と。コロナモンは若干後退りながらも笑顔で応えた。──まさか大天使ホーリーエンジェモン自ら、しかも寄宿棟に出向くだなんて誰が思うだろう。早朝とはいえ、よく街が騒ぎにならなかったと感心さえする。
「あれ、花那。ホーリーエンジェモンさん来てるよ」
「ほんとだ! おはよーございます」
「おはよう、選ばれし子供たち。元気そうで何よりだ。朝食を済ませた後にまた会おう」
ホーリーエンジェモンは、蒼太と花那の起床を確認するとすぐに部屋を後にする。誠司と手鞠の部屋に向かったのか、それとも既に顔を見せた後なのか────コロナモンは困惑したまま彼を見送った。
四人が急ぎ足で食堂に向かうと、そこには既にベルゼブモンが着席していた。
準備が早いと言うより、此処で夜を明かしたようだ。案の定、ガルルモンに「部屋で眠れば良かったのに」と言われる。
それから少しして、手鞠とテイルモンが。最後に誠司とユキアグモンが到着した。
「か、海棠くん、髪の毛ボサボサ……」
「いや、ついぐっすり寝ちゃってさ」
「天使様が起ごしでくれだの。ぎぎ!」
「おかげで寝坊しなくて済んだな!」
「起きて目の前にアイツがいるとか、もしウチだったら絶叫してたね」
決戦の朝とは思えない和やかさで、子供達は並べられた食事──今朝のメニューは手軽に食べられそうなサンドイッチとおにぎりである──に、手を伸ばした。
すると、
『────ザザッ。……──よし、繋がった。────おはよう皆!!』
食堂のスピーカーから柚子の声が響く。
『早速で悪いけど、十五分以内に食べてね。三十分後には出発するよ!』
突然のアナウンスに、戸惑いを隠せない子供達。誠司が「えー」と不服そうに声を上げた。
「よく噛んで食べたい! それに山吹さんの分、まだ用意されてないじゃん」
『いいんだよー、私はもう食べたから』
そう答えた柚子のデスクには、飲み干されたゼリー飲料が広げられていた。
『……』
傍に浮かぶ空中ディスプレイには、二つのバイタルサインがモニターされている。
夜明け前に旅立った、彼らを映す映像は無い。あったのだが、彼らが戦闘を開始してすぐに使い魔を潰され、音声も視覚情報も得られなくなってしまった。
けれど、二人は生きている。生きて今も戦ってくれている。
────急がなければ。
「なんだい柚子の奴、随分と張り切ってるじゃないの。……ほら、アンタもさっさと食べな。肝心のアンタが遅れちゃパートナーに顔向けできないよ」
「……」
テイルモンに急かされると、ベルゼブモンは目の前の食事を鷲掴み、口の中へと押し込んだ。
無理矢理に咀嚼して飲み込む。それを見た子供達はギョッとして、思わず手を止めた。男の味覚はどうなっているのだろう。
「食った。俺は行ける」
「……そ、そうかい。そりゃ結構……」
テイルモンは苦笑いを浮かべた。男がそのままひとりで出発しようとしたので、コロナモンが慌てて止めに走った。
朝食を済ませた一行は、そのまま棟を下りていく。
もう、部屋に戻って行う準備も無い。忘れ物だって無い。そもそも私物を持ち込んでいない。子供達は僅かな寂しさを胸に、世話になった宿舎棟に別れを告げた。
『──そうだ、テイルモン。行く前にチューモンに退化しておいてって、マグナモンが』
『パートナーとシテ回路を繋いだ時の状態の方が、都合が良いみたいデスよ』
「ああそう? まあ別にいい……、……いや嘘。全然良くないわ。コイツの側でチューモンに戻るのめちゃくちゃ怖いんだけど!?」
別に今更ベルゼブモンを厭うつもりはないのだが、うっかり体液でも付着しようものなら汚染は必至。テイルモンは渋々ホーリーリングを外すと、そそくさと手鞠の服の中へと逃げて行った。
幸い、当のベルゼブモンは気にしていない──と言うより彼女の言動が理解出来ていない──ようで、何も言わず僅かに首を傾げていた。
「そういえば柚子。マグナモンが僕らに言った、内部セキュリティの件はどうなってる?」
『……。……“マグナモンの仲間”はもう潜入してる。でも、そっちはそっちで動くみたいだから、皆は心配しなくていいよ。
それと……。……今は私たち、……いつもの部屋じゃなくて、二人で、専用の空間にいるから』
専用の空間なんて、そんなものは作っていない。けれども“そういう訳”で、皆には自分とウィッチモンの声しか届かないのだと────部屋にはもう自分達二人しか残っていない現実を、事実を織り込んだ嘘で固める。
仲間達はそれを疑わなかった。
それでいいと、柚子は思った。
◆ ◆ ◆
玄関ホールまで降りると、そこには一行を待つホーリーエンジェモンの姿があった。
「予定通りだな」
振り返ると、大きな四対の翼が揺れる。明かり窓から射し込む朝陽が、金の髪に反射していた。
そもそも何故、彼は大聖堂を離れ宿舎棟にまで来ていたのだろう。子供達は問うが──
「……外で騎士殿が待っている」
彼は厳かに、その一言だけ。
そして、ホールの両面扉をゆっくりと押し開けた。
扉の隙間から光が漏れる。
子供達の瞳に石畳の広場が、黄金の騎士が映る────その、瞬きの間
「────選ばれし子供たちに祝福あれ!!」
聞こえてきた、エンジェモンが歓呼する声。それに続く高らかな喝采。
そこにはレオモンがいた。ペガスモンがいた。都市のデジモン達が、戦いに赴く彼らを迎え出た。
「そして──誇り高き同胞に、心からの武運を願う!」
民衆が彼らに──毒に侵されたベルゼブモンにさえ送る、言葉の数々。
今までと同じようで、どこか違う。少なくとも、自身らの救済だけをひたすら願うといったものではなかった。
それは彼らの無事を願う言葉であり、彼らのこれまでに敬意を示す言葉だった。
彼らの心を鼓舞するに値する、初めて向けられた感情だった。
思えば、あまりに今更な事であるのだが──それでも子供達は驚きと戸惑い、そして気恥ずかしさを胸に喝采を浴びる。ユキアグモンは嬉しそうに、両手を振って応えていた。
「でも皆、いづの間に集まっでくれだの?」
「ユキアグモン、天使様が夜の間にお告げを下さったんだよ!」
──そう、ホーリーエンジェモンは民衆に伝えていたのだ。我等の命運は明日に決まると。
生き残るか、眠りにつくか、別の何かに生まれ変わるか。──選択権はない。自分達はその命の責任を、最後まで彼らに背負わせるのだから。
そしてエンジェモンは民衆に説いた。「勝てば生き、負ければ死ぬ。何て事はない。デジタルモンスターとして在るべき、弱肉強食の形に戻っただけの事だ」
……それ故だろうか。心を決めた一部の民は集い、選ばれし者達を見送る事を望んだ。
例えどのような結末を迎えたとしても、彼らは一行の戦いを讃えるだろう。
「……これまでの諸君の尽力に、聖要塞都市の長として深く感謝する」
ホーリーエンジェモンは一行の前へ。地面に膝を着き──驚愕と制止の声も気に留めず、頭を下げた。
「我等は諸君の帰還を心より願っている。……だが、その場所は決してこの都市でなくても構わない。
選ばれし子供たち。我らの同胞よ。どうか健闘と、生還を。その命を決して散らすな」
伝えるべき事は、伝えられるうちに。
それを、感じ取ったのだろう。子供達の表情が引き締まった。ホーリーエンジェモンは、口元に優しく笑みを浮かべた。
そして、大天使は立ち上がり、一歩引く。
黄金の騎士に後を託して、彼らを見送る民衆の一部と成った。
「────各々方、先日の答えを」
まずは、子供達へ。
生身のまま都市に残るか、データ化し自らの足で駆けるか、痛みと恐怖を覚悟し戦うか。
子供達の答えは決まっていた。その返答は、マグナモンも想定しているものだった。
──問題はこちらだ。マグナモンは、パートナーデジモン達に顔を向ける。
「……いずれにせよ、双方の意志が一致していなければなりませんので」
「わかってるよ。ウチは手鞠の答え通りだ」
「おでも!」
『ワタクシ達はこのまま作戦に望みマス。単純に人手が必要デスので。……こんな魔女風情が、神の領域に踏み込む代償は避けられないでショウが──』
『大丈夫。ウィッチモンにダメージがいっても、私がカバーするから』
互いに掛かる負荷は覚悟の上だ。彼らの答えに、マグナモンは「分かりました」と頷いた。
「コロナモン、ガルルモン。貴方達は」
選択を迫る。それから『なんて惨いのだろう』と、マグナモンはひどく自分勝手にそう思った。
だって、自分は知っているのだ。かつて二人が守れなかった世界を。守れなかった誰かを。
記憶を失っているとは言え、そんな彼らを────よりにもよって子供達と共に、天の塔に向かわせようとしているのだから。
コロナモンとガルルモンは、蒼太と花那の瞳を見つめる。
「……コロナモン」
「ガルルモン、私たち……」
蒼太と花那は、不安げに自らの紋章を握り締めていた。
「……。……蒼太、花那。君達があの時、俺とガルルモンを見つけてくれたから──……」
コロナモンの声は震えていた。二人の掌の中で、紋章のペンダントが小さな金属音を立てた。
「────っ……」
「……だから今、僕達は此処にいる。君達と、皆でここまで来られた」
村を失くしたあの日。
ダルクモンを亡くしたあの日。
思い返せば、今だって胸は苦しくて──これ以上、大切な人が傷付くのは嫌だった。
張り裂けそうになる程の悲しみを、繰り返す事が怖かった。
「ねえ、二人とも」
それでも、前を向かなければ。
この子達と────未来を生きていく為に。
「……どうか、僕らの隣で、最後まで。この世界を見届けてくれ」
「俺達と来て欲しい。力を貸して欲しい。俺達は……君達と、一緒に戦いたい……!」
「「────」」
その、言葉を────二人はどれだけ、待ち望んでいただろう。
何も知らなかったリアルワールドでの日々から。
ダークエリアで、フェレスモンの城で、自分達の力の無さを思い知った日から。
人間に出来る事を必死に考え、足掻いてみせた旅の日々だって。
手を取って、肩を並べて、共に闘う日。
それは、いつだって夢に見ていた────
「……っ……そんなの、決まってる……!」
「私たちはずっと、これからだって……二人と一緒にいるんだから……!」
────子供達のデジヴァイスが、光を放つ。
放たれた光は空へ昇り、オーロラとなって広がる。リアルワールドで見たものと同じ、美しくて懐かしい光の帯。
それを画面越しに確認した、柚子はウィッチモンと目線を合わせた。彼女達のデジヴァイスが、知識と運命の紋章が輝き────“ワイズモン”は仲間達へ最後の問い掛けをする。
『では、皆様。世界を救う準備はよろしいですね?』
勇気と優しさの紋章が輝く。蒼太はコロナモンと手を握り合う。
友情と愛情の紋章が輝く。花那はガルルモンの鼻先を撫でた。
誠実と希望の紋章が輝く。誠司はユキアグモンと拳を合わせた。
純真と光の紋章が輝く。手鞠は掌のチューモンと微笑み合う。
そしてベルゼブモンは腕のスカーフを握り締め──空のオーロラを真っ直ぐに見据えた。
「──行こう、コロナモン!」
「ガルルモン、一緒に走るよ!」
「ユキアグモン! オレたちなら上までひとっ飛びだ!」
「チューモン、頑張ろうね……!」
『……やり遂げよう。私たち皆で!』
『────量子変換システムを起動。選ばれし子供たちの電脳化を開始します』
子供達の体に光が灯る。目を閉じて、恐怖なく受け入れる。
眠りにつく時のように、意識が遠のく感覚だけを抱きながら──肉体は、ヒトの形をした発光体へと変化していく。
『変換完了。パートナーデジモンとの同期を開始──』
「──ロイヤルナイツの権限より、世界樹への接続を承認。座標、第一階層、第六区画へ」
『……よし。接続オッケーだよマグナモン。展開まであと十秒!』
デジヴァイスが一層に輝く。紋章が鮮やかに煌めく。
『────同期完了です。ユズコ!』
子供達だったデータの粒子は、パートナーデジモン達に取り込まれて────
『デジタルゲート・オープン!』
「コロナモン進化! ファイラモン……──「「フレアモン!!」」
「ガルルモン進化! ──「「ワーガルルモン!!」」
「ユキアグモン進化! シードラモン! ……「「メガシードラモン!!」」
「チューモン進化! テイルモン! ────「「ライラモン!!」」
響き渡る八つの声。
空のオーロラが降り注ぎ、五つの影が光に埋もれる。
そして──柚子とワイズモンの号令が発せられたのを最後に、彼らの存在は都市から完全に遮断された。
『『────作戦開始!!』』
◆ ◆ ◆
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