◆  ◆  ◆





 ────英雄達の旅路を見送る。

 何とも言えぬ高揚感と、拭いきれない不安。そんな思いを胸に、ホーリーエンジェモンはオーロラが消えた空を見上げた。

「……兄上。作戦のタイムリミットは確か、三時間と」
「そうだ。……そんな短い時間でこの世界の命運が決まるとは。……いや、実際はもっと早いのだろうが」

 思わず苦笑する。余韻を振り切り、自らが治める都市の民の方を向いた。

「──エンジェモン。居住区の住民の避難は済んでいるな?」
「ええ。あとは、この場に集まった我々のみです」
「天使達とレオモンは民を誘導し、地下シェルターへ向かいなさい。十分以内に避難を完了させるように。……エンジェモン、お前もだ。マグナモンが我らにした話が本当なら────」
「お言葉ですが兄上。我らは共に、在りし日の英雄セラフィモンから生まれた身。彼らが……ユキアグモンが帰るこの地を守り抜く事こそ、我がデータに刻まれた責務です」
「……。……ならば共に大聖堂へ。全員、速やかに行動せよ!」

 二人の天使が踵を返す。民衆が慌ただしく避難を開始する。

 そんな中、 

「────騎士殿、どちらへ」

 エンジェモンがマグナモンを呼び止めた。

「宿舎棟に何かお忘れか? ならば案内役を待たせましょう」
「……いえ、必要ありません。各々方は己の為すべき事に専念なさい」
「ですが、騎士殿はシェルターの場所をご存知ない。避難が間に合わなくなります」
「構いませんよ。自分の身は自分で、何とかしますから」

 仮にも究極体クラスですので。そう言って微笑み、軽く手を上げる。
 困惑するエンジェモンに会釈をして────マグナモンはひとり寄宿棟に戻った。

「どうか各々方にも、武運と健闘を」



 喧騒を背に、扉を閉める。

 薄暗いホールを振り返らず進み、階段を上る。
 途中、彼らと共に過ごした食堂を、少しだけ眺めて。

「…………」

 階段を上る。
 子供達が過ごした部屋を、目を細めて見つめる。

 階段を上る。
 そして、金属扉を開けて屋上へ。

 喧騒は既に遠く、あたたかな風が頬を撫でる。マグナモンは天を仰いだ。

「────主よ」

 遠い空の先へ届くよう、祈りの言葉を紡いでいく。

「愛しきイグドラシル。どうか、どうか。御身の加護を彼らに──……」

 ……もう、あの子らは塔に着いただろうか。
 先に送った二人は、今も戦っているのだろうか。
 救えなかった少女は、彼と出会えるだろうか。
 塔に残した友は、どうなるだろう。

「…………」

 残念だ。
 出来る事なら、見届けたかったのだが。

「────けれど小生は……これで、良かったのだろうな」

 手を伸ばす。
 指先は、もう見えない。

「……なあ、クレニアムモン……」

 瞳に映る空が滲んだ。
 それは不思議と、とても綺麗で────。






◆  ◆  ◆




 ────そして。

 自らに課した願いを遂げたマグナモンは、その電脳核を静かに消滅させた。




◆  ◆  ◆




 魂だけになる、というのは、こんな感覚なのだろうか。

 視界は良好。違和感も不快感も皆無。
 けれど、ジェットコースターのような速度で進んでいるのに風を感じない。肉体に触れる感覚の一切が存在しなかった。

 在るのはただ、全身を包む温もりだけ。
 自分という存在が曖昧になってしまった────そんな、僅かな恐怖が過る。

『────』

 声を出した。パートナーの名前を呼ぶ。

「────ああ、蒼太。聞こえてるよ」

 優しい声が帰ってきて、安心した。




◆  ◆  ◆



 光の道を抜け、灰色の空を越え、英雄達は足を踏み入る。
 そこは天空に聳える塔。世界樹の根。神が座す聖なる地。

 天の塔。第一階層。

 ────降り立った瞬間、押し潰されそうになる程の重圧感が彼らを襲った。
 物理的な要因からではない。デジタルワールドに生きる彼らに刻まれた、創造主への本能的な畏怖に因るものだ。

 昼光色の明かりに目を眩ませながら、各自、警戒し周囲を見回す。
 数度の瞬きの後、視界が鮮明になると────その光景に誰もが目を疑った。

『……何だ、これ……。……俺たちの住んでた場所みたいな……』

 そこには、アスファルトの道が在った。
 電柱が、道路標識が在った。区画整理された家が在った。

「…………カノン……」

 それらは歪んで、並んで、渦巻いて、重なって、交ざって、混ざって、入り組んでいた。

 見慣れた建造物で構成される怪奇の空間。天と地の概念さえ失った電子の海。
 子供達は戦慄する。ここが本当に神様のいる場所? デジタルワールドで一番神聖な場所だというのか?

「「────」」

 ……いいや、違う。
 フレアモンとワーガルルモンは漠然とそう感じていた。此処は────こんな姿ではなかった筈だ。

「……こんな場所……僕達は、知らない……」
「何言ってんのさ、当たり前じゃないの。……ウチらの神様は……相当、狂ってる」

 ライラモンは空から伸びるビル群を睨み付け、舌打ちした。

『────接続状態を確認。同調率、バイタル、いずれも問題ありませんね』

 デジモン達の影の中から、使い魔の黒猫が姿を見せる。
 黒猫の瞳──モニター越しに第一階層の状況を捉えると、ワイズモンは息を呑んだ。

 なんて有様だ。塔の内部構造が、事前の報告とあまりに違いすぎる。

『……イグドラシルの変質は既に始まっている、という事ですか。しかし、この短時間でここまで歪むなんて……』
『と、とにかく急ごう。皆ついてきて!』

 ワイズモンが第二階層までの最短ルートを検索。柚子が使い魔を使役して仲間達を誘導。

 上下左右、全ての方向と方角が狂ったこの空間では、彼女達のナビゲートが無ければ完全に詰む。タイムリミットを迎えた後さえ、この地で立ち往生していた事だろう。
 それを理解しているからか、ベルゼブモンを含め誰もが大人しく誘導に従っていた。どれだけ信じ難い、とんでもない方向を指示されたとしてもだ。

 ルーレットのように姿を変える標識に見送られ、点滅する信号機の街路樹を抜ける。
 交差点が織り成す螺旋道を上り、積み上げられた商店街を崩して道を作る。
 既存の道はそもそも道としての機能を放棄し──加えて浮かんだり突き刺さったりしているので、嫌でも自分達で作るしかなかった。

「ぎー。あたまがおかしくなりそう」
「同感だね。いっそ目を閉じたまま進みたい気分だよ。フレアモンとガルルモンなんて、もう顔が真っ青じゃないか」
「だいじょうぶ? オレの背中にのってていいからね」
「……ありがとう。平気だ、俺のはただの頭痛だから。それよりこの先、壁があるけど行き止まりじゃないのか?」
『行き止まりだけど、行き止まりじゃないよ。そのまま直進して』

 往く手を阻む袋小路。指示通り、その垣根を飛び越える。
 すると一行はそのまま宙を駆け渡り──どこかの学校の校庭を眼下に望んだ。

『……あれ? あの学校……』
『手鞠、知ってるの?』
『う、うん。お母さんがパンフレット持ってたの。確か、区の反対にある女子校で……』
『パンフレット? ……そっか、受験の! でも、その学校が何でこんな所に……?』

 気付けば空にはイチョウ並木の鏡像が広がり、紅葉と落葉を繰り返す。
 閑静な住宅街は進めど進めど同じ景色。時折、モザイクが掛かっていた。

 慎重に、緊張しながら進んでいく一行であったが、途中で誰もが疑問を抱く。
 何故だろう。この狂気の街はあまりに静かだ。迎撃どころか警報ひとつ聞こえてこない。
 マグナモンの言った通り、先遣隊が塔の防御機構を潰してくれたからなのか? ……だが、仮にそうだったとしても────

「────クレニアムモンはどうして、俺達を襲って来ないんだ」

 フレアモンの直感が警告を発する。
 やはり何かが──何もかもが、どこかおかしい。

『まもなく移送機のポイントに到着します。タイムは三十二分……ペースとしては理想的ですが……』

 最後にひとつ、小さな公園を通り抜けて。
 一行が到着したのは、とある低層マンションの前だった。

 上品な外観と外構。開け放たれたオートロックの正面玄関。
 手前のエントランスには、どこからか落下したような硝子が散乱していた。

『……やはり電源は落とされていますね。ワタクシがゲートを接続しますので、屋内へ移動を』
「オレ、おおきいからドアとおれない……」
『大丈夫。此処では測度など当てになりませんよ』

 ライラモンがメガシードラモンを押し込め、マンションの中へ。全員が無事に入った事を確認すると、ワイズモンは第二階層の時空間へと接続を開始する。

 玄関ホールの中は空っぽだった。
 ガコン、と。開いたままの自動扉が音を立てた。

「────」

 ふと、ベルゼブモンが背後を振り向く。

 扉の隙間から見える、自分達が通り過ぎたエントランス。
 硝子が散乱していた場所には、無かった筈の黄色いテープが貼り巡らされていた。

 そして、その場所に

「ぐちゃり」

 黒い何かが落ちて、潰れるのを見た。

「────」

 同行者達は気付いていない。
 落下した黒い何かは、見覚えのある形状をしていた────ような気がして、ひどく嫌な予感を抱く。

 けれどすぐに勘違いだと分かり、男は人知れず安堵した。

「…………」

 ああ、なんだ。よかった。

 ただの毒の塊か。



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