◆  ◆  ◆ 




 ────そして、現在に至る。




◆  ◆  ◆




 ザアザアと、ザアザアと。
 雨音のノイズだけがうるさく響く。

 自分が生まれ育った世界が毒で満たされていく光景。
 水晶壁に映ったそれは周囲の氷壁に反射して、鮮やかなモノクロームを描いていく。

 それが、悲しくて。
 怖くて、辛くて、悔しくて────あまりに寂しい。

 ──もしも自分が、同じ水棲デジモンであるネプトゥーンモンのように、究極体であったなら。
 あの時、第二階層で騎士を止められたのかもしれない。そのまま天まで上って、雨を止められたのかもしれない。

 そんな事を思ったところで。たらればの想像を抱いたところで。
 自分という存在の弱さが、変わるわけがないのだが。

「────せいじ」
『……なあに、ユキアグモン』

 パートナーの名を、誠司は敢えてそう呼んだ。動けなくなった彼を、責める事も急かす事もしなかった。

『ごめんね。今は触れないから。お前の目を塞いであげられないんだ』

 誠司はメガシードラモンの中で、彼を抱きしめようとした。抱きしめてあげたかった。

「天使様が、レオモンが、みんなが」
『うん』
「オレの……帰る、場所だったのに……」
『……うん』

 電脳化した誠司は、涙を流す事さえ出来ない。
 その分も、メガシードラモンは泣いているのだろう。

「…………オレは……まにあわ、なくて……。……オレが、よわかったから」
『それは、違うよ。……絶対に、そうじゃないんだ』

 雨が降る。
 ザアザアと、ザアザアと。

『…………でも、……悔しい、よなあ』

 雨が降る。
 ほんの数時間前、自分達を見送ってくれた皆の姿を、思い出す。

『ごめんなぁ、皆……。……ッ……ごめん……、ごめんなさい……っ』

 二人分の涙が、水溜りを作っていく。
 ぽたり、ぽたり、大きな水溜りを。

『……。…………水、たまり……』

 ────ふと、

『……、……あ、れ……?』

 氷壁と涙で滲む、雨の景色。
 誠司は、僅かな違和感を覚えた。

『…………そういえば、何で……』
「……せい、じ?」
『メガシードラモン……、……な、なあ、この氷……どかせられる……?』
「え……」
『お、オレ……うまく言えないけど、ちゃんと、見たいんだ。だから……。……ごめん、お前は見たくないって、わかってるけど……』

 誠司の言葉にメガシードラモンは狼狽えた。視界と映像とを遮る氷の壁は、彼が心を壊す前に咄嗟に働いた防衛機制そのものだったからだ。────それでも、

「……──わかったよ、せいじ……」

 パートナーの言葉に、何か感じるものがあったのだろう。メガシードラモンは頷き、目の前の氷壁を恐る恐る消滅させた。

『────ッ』

 鮮明になる世界の惨状。
 胸が、張り裂けそうになる。それでも誠司は目を凝らし、違和感の正体を探ろうとした。

 雨が降る世界。
 毒に侵されていく世界。
 大地が、建物が、溶かされている場所もあった。目を背けたくなるような状態の場所だって、全てではないが見受けられた。

 ────だが、

『……誰も、いない……』

 一瞬、けれど繰り返し映る、聖要塞都市の市街地。
 誠司はそこに、民衆の姿を見つけられなかったのだ。

 溶けて死んだにしては不自然な程。何より──土砂降りの筈の地面に、水溜りが一つも作られていない。冠水していたっておかしくないのに、水が跳ねる様子さえ見られない。

『どうして……』

 それはおかしいと、誠司にだって理解できる。
 まるで都市全体が、巨大な屋根に守られているかのような────

『────あ……。……あ……!!』

 少年は大きく声を上げた。
 悲しみではなく、驚愕に満ちた声を。

『ゆ、ユキアグモン……!! あれ見て、ねえ!!』

 その感情が回路を通じてメガシードラモンにも流れていく。パートナーの言葉のままに、メガシードラモンは顔を上げた。────目を、見開く。

 水晶壁に映し出された故郷の一角。
 彼がその瞳に捉えたものは────。







「────祖よ! 大英雄セラフィモンよ!!」

 激しい雨音の中、高らかに声が上がる。

「我らに光を! 我らの世界を守り抜く力を!」

 仮初の陽光は暗雲に飲まれた。
 聖なる都市を襲う豪雨。命を溶かす毒の雨。

 しかし────輝く光が都市を包み、壁となって守っていた。

 大聖堂の屋根の上。二人の天使が、空に向けて光を放つ。

「エンジェモン! 地下シェルターの状況は!? 天使達の伝令はあるか?!」
「浸水報告はありません! ですが南端第二〇六エリア上空の結界が破損! シェルター設置外区域です!」
「ならばその区画は捨てる! ──天使達は絶対に地上へ出るな! シェルター内から少しでも結界を張り続ろ!!」

 都市を覆う結界。これまで天使達が築いてきた程度のものでは、一秒だってこの雨を防ぐ事はできない。
 長い間空に停滞していた毒は、その濃さを増して一斉に注ぐ。それを防ぐ結界となれば────

「兄上! やはりこの身を、我がデータをロードして下さい! 分散したセラフィモンのデータが集約すればきっと……! このままでは兄上の身体が分解する!!」

 ──結界の要であるホーリーエンジェモンは、自らのデータを振り絞って結界を維持し続ける。マグナモンが復元した彼の四肢も、翼も、再びその形を失おうとしていた。
 だが、それでもホーリーエンジェモンは認めない。エンジェモンのデータをロードし、再びセラフィモンの後身して君臨する事を受け入れない。

「そうなれば結界も都市も持ちません! どうか!」
「私は! ……死なせない! この都市のデジモンを、お前を死なせはしない!!」

 光を! もっと光を!
 仲間も守れずに何が英雄か!!

「────待てエンジェモン。何を……!?」

 それなのに。そうしなくてはいけないのに。
 何故、隣のエンジェモンは自らにロッドを突き付けている?

「兄上にはもう時間がない。貴方が望まなくとも……このデジコアをお返しします」
「いいからロッドを下げろ! 早く結界の再構成を! エンジェモン!!」
「……貴方は……大いなる熾天使と成りて、我らの祖国を────どうか、お守り下さい」

 エンジェモンは両手でロッドを掲げる。
 ホーリーエンジェモンが叫ぶ。手を伸ばすことはできなかった。

 そしてエンジェモンは、黄金のロッドで自らの胸を────

「────……!!」

 その時だった。
 ほんの一瞬。この聖地で感じる筈のない“何か”に気付いて────エンジェモンは反射的に自らの手を止めた。

 何だ? ──顔を上げる。彼を止めようとしたホーリーエンジェモンも、同じく空を見上げていた。

 彼らが抱いた違和感は二つ。
 ひとつは、自身らの結界に掛かる負荷が急激に軽減された事。都市を覆う結界の上、更に別の結界が張られたような感覚を抱いた。

 もうひとつは────

「兄上、これは……、……潮のにおい……? しかし近辺には海など……」
「……! ──まさか……」

 ホーリーエンジェモンの声が震えた。そんな声を聞いたのは初めてだった。
 エンジェモンは彼に目を向ける。その顔は、困惑と驚愕、そして歓喜に満ちていたのだ。

「我らを、世界を……お守り下さるのか……! ────遠き海の英雄(ネプトゥーンモン)……!!」





「────我が海原より天に昇るは加護の水。満たせ、満たせ、祈りの雨よ」

 光の届かない黒い海。
 荒れ狂う海上に、ひとり。ネプトゥーンモンは暗雲に向け槍を掲げる。

 海面を蒸発させる事で創り上げた水の結界が、風に乗り、雲と成り、雨と成り、世界へと広がっていく。
 黒い雨粒は結界に触れると蒸発し、大地に花を描くことはなかった。

 水を司る海の神。彼もまたホーリーエンジェモンと同様、自身のデータを少しずつ分解し────海原へ溶け込ませ、この広大な結界を生み出していたのである。

「……世界はまだ壊させない。私の家族が遺した世界を壊させはしない! “あの子”は世界(ここ)に戻って来た!!」

 全てを失い、自分ひとりだけになってしまったと知った時から、決して出る事のなかった深い海域を飛び出した。
 今こそ戦わなければならないと。このデジタルワールドを、守らなければならないと。

「……ミネルヴァモン……!!」

 あの子がまた、帰って来られるように。

「お前は……! ……嘘が、下手だな……」

 ……気付いていた。
 最初は分からなかったけれど、途中から気付いていた。選ばれし子供達がやって来るより前、あの日────深海神殿に、ミネルヴァモンはどういう訳か人間の姿で現れたのだ。

 自分達がかつて出会った、人間のパートナーとよく似た姿で。

 彼女達に何があったのか、事情は分からない。
 これから先、知る事はできないかもしれない。

 それでもいい。自分は戦い抜くだけだ。毒の雨が降り止む、その時まで。

「ああ、けれど」

 ひとつだけ。もし出会えたら言ってやらなくては。

 ──なあ、ミネルヴァ。
 だめじゃないか。せっかく彼らにあげた加護を、ひとりじめしてしまっては。





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