◆ ◆ ◆
白い部屋を抜け出して、少女は水晶の迷宮を往く。
目指すは最上部、神が座するべき場所。
自身の体内で育んだ電脳生命体が、歪に変質してしまう前に。
育ち切った子は、体外へ産まれなければならないのだから。
自分の身に起きている異変は、カノン自身が誰より理解していた。
急がねば。鉛のように重く感じる身体を懸命に進める。空間を割る力も、転移する力も持たない以上、彼女はひたすら歩いて行くしかなかった。
そして、探すしかなかった。かつて自分をマグナモンの部屋へ導いた移送機を。どこまでも昇っていける昇降機を。
しかし、一度しか通ったことのない道など鮮明に覚えている筈もない。それどころか自分がイグドラシルと繋がっていた所為で、道も内装も何もかもが変わってしまった。──今は、落ち着いているようだが。
「ねえ、ねえ。イグドラシル。どっちに行けばいいの」
体内に呼びかけるが、返事はない。
「どうやったら上に行けるの。わからないわ」
返事はない。
──この行為に意味は無い。答えはもう返ってこない。分かった上で、それでも声を掛け続けた。
イグドラシルは今、きっと蛹のような状態なのだろう。
静かに眠り、羽化を待つ。だからもう塔の内装も変わらない。これ以上は歪まない。
……もしも次に変化が起きるとすれば、それはイグドラシルが『完成』を遂げ、羽を広げる時だろうか。
「どんな姿かしら」
腹部を撫でる。
「きっと、蝶みたいに綺麗になるわ」
本気で思ったわけではないが、なんとなく。
でも、もしそうなら哀れな話だ。羽化をしても羽ばたけず、自由に動くことも叶わないまま──ただ人間の中で抱かれているしかないなんて。
「────ここは、違う」
均等に並ぶ白い玄関ドアを、ひとつずつ、ひとつずつ、開けていく。
「ここも、違う」
気付けば息が上がっていた。額に滲む汗を袖で拭った。……動くのが、苦しい。
「この部屋は」
身体が熱い。痛い。重い。
「……違う」
深く息を吐けば、そのまま意識も飛んでしまいそうになる。
なんとか保とうとして────ふと目線を落とすと、足元に散らばる煌めきに気が付いた。
汗が零れたのか、それとも無自覚のまま泣いていたのか、分からないけれど。
零れた水晶の欠片が、少女の後を辿るように散らばっていた。
童話みたいだと思った。彷徨う森の中、月に光る小石を辿った兄妹の話。
「──あなたが本当に子供だったら、いつか絵本を読んであげたのに」
冗談混じりに言ってみせる。
返事は、やはりなかった。
それから、どれだけの時が経過しただろう。
体感時間と経過時間はひどく解離していて、自分の感覚などあてにならないのだが。
「……、……?」
少女は気付く。
それまで自分の足音ぐらいしか聞こえなかった空間に、気付けば他の音が混ざって聞こえる事に。
ゴゥン、ゴゥン──と、大きな機械が動くような轟音。
どこか懐かしさを覚えながら、音の方向を目指して進んでいく。
──この音は、何だったか。
そうだ。これは、工場の音だ。
彼と出会った場所で、よく聞こえた音だ。
無意識に腹部を撫でた。
あなたも彼に会わせてあげたいなんて思って。
けれど会ったら喧嘩になるかしら、なんて思って。
自分の思考が、自分でも理解できなくなっていた。
だからこそ思い、想う。
────きっと、この音を辿れば。
「……ベルゼブモン……」
きっと、きっと。
「────ああ」
見つけた。
やっと見つけた。間違いない、あの時のエレベーターだ。
かつての美しい水晶の外壁は消え、錆びた鉄で囲われているけれど。
まるで古いマンションに設置されているような、そんな姿になってしまっているけれど。
カノンは身体を引き摺りながら、押ボタンに手を伸ばす。触れて、力を込めた。
表示灯が光り、小さな音を立てて扉が開く。
だが、──中は薄暗く、静かだった。
何も書かれていない、真っ白なボタンを全て押しても動かなかった。
塔に誰かが侵入した際か、あるいは少女が部屋を出ていった際か。
クレニアムモンの手によって、塔の電気系統が停止させられていたのだ。少女が聞いた懐かしい音は、非常電源の稼働音だった。
ここにあるのはただの箱。どこにも連れていってはくれない。
……なんとなく、予想はしていたのだが。
「────」
握り締めた手で内壁を叩く。力の無い手は衝撃に負け、赤みを帯びた。
悔しかった。今でも遠く聞こえてくる轟音に、ひたすら空しくなった。
恨めしそうに天井を見上げながら、「エレベーターなら、天井裏のケーブルを掴んで登れば」──なんて思ってみたが、すぐに現実的ではないと察する。そもそもエレベーターの外観をしているだけで、移送機の本質はそれとは異なるのだ。
別の道を探すしかないだろう。
仮にもマンション内部の形状を装っているのだから、非常階段のひとつくらいはあるかもしれない。
カノンは俯き、自身に言い聞かせる。無理にでも鼓舞しなければ本当に心が折れそうだった。ふらつく足がちゃんと動くように、何度も叩いた。
諦めるわけにはいかなかった。最後まで足掻かなければならないのだから。
「…………私は」
この子が救われる為に。
この子が救われた世界で、彼が生きていけるように。
だから────
「────あ! やっと見つけた!」
突如、聞こえてきた軽快な声。驚いたカノンは思わず顔を上げる。
振り向くと、一人のデジモンがいた。
長い三つ編み。少女の様な容姿。
どこか聞き覚えのある声で、ひらひらと手を振っていた。
◆ ◆ ◆
「久しぶりだねえ」
今では懐かしいとさえ感じる、リアルワールドのある日の朝。
どこかの公園で出会った美しい少女。ミネルヴァモンは、久々の再会を果たす。
カノンはきょとんとした顔でミネルヴァモンを見つめていた。そんな彼女の反応を、ミネルヴァモンは「まあ、仕方ないか」と割り切る。
こちらはしっかり覚えているが、向こうからすれば初めて出会うデジモンだ。それ以前に『みちる』の事さえ、彼女の記憶の中にあるか怪しい。
「……」
「いーのいーの、気にしないで! 別に変なことしないから!」
そう言いながら、ミネルヴァモンはまじまじとカノンの身体を凝視する。
一度だけ出会い、それからは写真でしか姿を見ていなかったが──違和感と異変をはっきりと感じ取った。
血と肉で構成されている肉体に、僅かにかかって見えるデジタルノイズ。それはミネルヴァモン達が、かつてパートナーの少女に見たものと同じ。
デジタルワールドに生きる期間は、蒼太や花那達と大きく変わらない筈。デジタルワールドに連れて来たのがブギーモンの一体なら、恐らく誠司、手鞠と同期間だ。
にも関わらず、彼女の肉体は変質しきっていた。
「いやー、中々アレだね。びっくりですよアタシは。だってキミから後光が差してるように見えるもの」
冗談ではない。ミネルヴァモンには本当にそう見えたのだ。
その最もたる要因は──やはり、高位の電脳体を体内に宿した事にあるのだろう。
なんて事だ。これではこの子はもう、リアルワールドに帰れないじゃないか。ミネルヴァモンは、この美しく輝かしい少女をひどく哀れんだ。
すると
「あなた、前に会ったわ」
カノンの言葉に、今度はミネルヴァモンが目を丸くさせる。
「……え、マジで? アタシの事わかる!?」
「……ずっと前、公園で……」
「そうそうそう!! わー、びっくり! 嬉しー!!」
ミネルヴァモンは飛び跳ねて喜んだ。けれど義体時代のリアクションはすぐに落ち着き、
「こんな見た目になったのにねえ」
普通なら気付くわけがない。しかしカノンは、憔悴した顔に戸惑いの色を浮かべながら
「変わった子だったから」
「え、それだけ?」
「……髪が伸びた?」
「ぷっ」
どうしてそこなんだ──ミネルヴァモンは声を我慢しながら笑う。というか、声と三つ編み以外に共通点なんて無いだろうに。
「いやいや、キミも随分と変わってる」
カノンは顔をきょとんとさせた後、「そうかもしれない」と言って、自嘲気味に小さく笑った。
「それより貴女、デジモンだったのね。あの人と同じね。あなたの方が人間みたいに見えたけど」
「でしょー、違和感ゼロだったでしょ!」
マグナモンの義体は精巧なんだ。それも未春の一部を使った、とっておきの力作だったのだから。……消化器以外は。
「──それでキミ。こんな危ない所で何してるの? てっきり囚われのお姫様してると思ってたのに」
「上に行きたいのに、行けなくて」
「あー、なるほど」
すぐに納得するが、同時に苦笑する。この子の足じゃ無理だろうなあ。
「でもほら、多分ここに居たら巻き込まれるよ? いつドカーンってなっても変じゃないんだから」
「そうだけど、これに乗らないと昇れないもの」
「まあねー。動かなそうだけどねえ」
二人で、沈黙する昇降機を眺める。
「……何もかも……思い通りにいかなくて、嫌になるわ」
ぽつりと零れた声。ミネルヴァモンは少女の横顔を覗いて、それからわざとらしく歯を見せて笑った。
「それでこそ人生は面白いのさ。だから必死になって戦うんだよ。アタシもキミも」
「……」
カノンは自身の腹部に目線を落として、俯く。
「……どんな選択をしても、必死に戦ったって……頑張ったんだって、言えるかしら」
「言えるよ。どんな手段を使ったって良いし、どんな姿になったって良い。自分の命を、自分が信じた道で精一杯に生きて行くなら。──アタシはそう思ってる」
愚かなアタシが、律儀なマグナモンが、憐れなクレニアムモンがそうしたように。
それが正しいかは、全くの別問題だけれど。
すると、カノンは何かを決意したように顔を上げた。振り向いて、真っ直ぐにミネルヴァモンの瞳を見つめる。
「……あなたに、お願いがあるの」
「ん?」
「イグドラシルが完成するわ。でも……そのまま私の中にいたら、この子はおかしくなる」
「知ってるよ。だから上に行きたいんでしょう?」
「私の足じゃ間に合わない。だから、この子だけでも連れて行って欲しくて」
「……その事なんだけどねえ」
ミネルヴァモンはバツが悪そうに頭を掻いた。
「アタシは天の座までは行かないんだ。少なくとも、神様なんて大層なものを抱えた状態じゃ行けない」
クレニアムモンに目を付けられるからダメです! とは、言わないでおく。
「それに、残念ながらキミを助けに来たわけでもない。元々は別件でね」
「……それなら、どうして私を見つけてくれたの?」
「単純な話さ。アタシの、ただの自己満足だよ」
そう言って、服のデータからあるものを取り出した。
「──だってほら。落とし物を拾ったら、持ち主に返してあげないと」
差し出したのは、少し古いタイプの音楽プレイヤー。
「────、」
カノンは目を見開く。
震える手でそっと触れて、それが確かに自分のものであることを自覚すると────両目から、涙を溢れさせた。
「もしかして宝物だった?」
「……うん。もう、失くしたと思っていたのに」
胸に抱くように、握りしめた。
「ありがとう。ずっと持っててくれたのね」
「キミが、ここまで頑張って生きてくれたからだよ」
それにちゃんと動くんだぜ? 何故なら充電してきたからね!
得意気に言ってみせると、カノンは更に涙を零した。そこは笑って欲しかったのだが、仕方ない。
「──ねえ、どうだった?」
そしてミネルヴァモンは、少女に最後の問いかけをする。
「この世界は、アタシ達のデジタルワールドは」
それは──もしも未春が生きていたなら、一緒に未来を、歩めていたなら。
“あの時”、ちゃんとリアルワールドへ帰してあげられたなら──聞きたかった事だった。
自分達のせいで巻き込まれた子供達。どうしようもなく傷つけてしまった子供達。
望まずに連れられた世界で生きた彼らの目に、この世界はどう映っていたのだろう。
アタシ達の世界。こんなにも、汚れてしまったけれど
「──連れて来られて良かったって、思ってるわ」
カノンはそう、言い切った。
「彼と生きられた、この世界は綺麗だった。私、幸せだったのよ」
かつてイグドラシルに語った時よりも、はっきりと。胸を張って言えたのだ。
「……そっか。……──うん。なら、良かった」
ミネルヴァモンは微笑んだ。
それが、かつて愛した少女からの言葉でなかったとしても、十分だったのだ。それだけで十分────自分があと少しだけ、抗う為の原動力になる。
「そんな幸せなキミに朗報だ。アタシはキミを救えないけど、これから正義の味方達が来てくれる。きっとキミを見つけるし、その光を空まで届けてくれるよ」
「……本当?」
「うん。だからもう少しだけ頑張って。あとちょっとだから。キミも、アタシも」
「……。……そうね。確かに、あと少しだわ」
電脳体から人間擬きに成った少女も、人間と電脳体の間で揺れる少女も。
自身が迎えるであろう未来は、察している。
「でも、あなたもなの?」
「兄さん達のリプレイ回数次第かなあ。期待はしてないけどね。この戦いが終わったらリアルワールドのおしゃれなカフェでお祝いといこう!」
──そんな、叶わない約束を口にしてみた。
「まあ、無理だけど」
「ええ、無理だけど」
「残念だねー」
お互い、分かっている。
「そういえば、あなたの名前……まだ聞いてない」
「あ、言い忘れてた! どっちがいいのかなー。もう人間じゃないからなあ」
人間のような姿で、人間のような暮らし。
それも終わった。もう、戻ることもない。
だから自分は、青空の下で目覚めた最初の日と同じ──かつての名では名乗れない。名乗る必要もない。
けれど、少しだけ思ってしまう。
あの世界でもっと早くに、あの子達やこの子と、皆と出会えていたら──
「アタシは」
なーんて。
「────アタシはミネルヴァ。ミネルヴァモンだ」
「私、カノン。カノンっていうの」
「ああ、ずっと知ってたよ。いい名前だね」
カノンの顔に嬉しさが滲み出る。「お母さんが付けてくれたの」と、やつれた頬を綻ばせた。──大人びた容姿に一瞬だけ、年相応の少女の面影が見えた。
「頑張ろう。アタシ達はあとちょっとだけど、あと一度くらいはきっと、会いたい人に逢えると思うから。……ねえ、そのくらいは神様だって許してくれるよね?」
「きっと、許してくれる。赦してくれるわ。そうなって欲しい。あなたも、私も」
残された僅かな時間。互いを、自分を、励まして、励まし合って。
「──じゃあアタシ、そろそろ行くね。待たせてる奴がいるんだ」
「いってらっしゃい。私に、会いに来てくれてありがとう」
別れの挨拶はしっかりと。
心残りなんてないように。全ての人にさよならを。
「ばいばいカノン。どうか元気で」
少女に背を向け、三つ編みを揺らして去っていく。
「────さようなら、ミネルヴァモン」
その背中を見送りながら、カノンはそう呟いた。
「……聞いた? ねえ、お迎えがあるんですって」
昇降機の前に座り、カノンは語り掛ける。
「良かった。きっと空の上まで行けるわ」
誰もいない腹部を撫でる、白い腕にノイズがかかる。そんな錯覚。
「……。…………」
身体が熱い。熱くて苦しい。ミネルヴァモンとの時間で紛れていた分が、一気に押し寄せたように感じられた。両腕で自分を抱きしめ、蹲る。
「…………大丈夫」
呟いた。誰に向けてでもなく、自分に向けた、おまじないの言葉。
「大丈夫。……大丈夫、あと少し」
言い聞かせて、それまで自分の身体がもつように願って。
それまで────身体の中で羽化する“我が子”が歪に変わってしまわないよう、ひたすらに祈り続けた。
白い牢獄の中で、ひとり。
少女は静かに、名も知らぬ来訪者を待つ。
第三十三話 終
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