◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆




 その時、ひとつの命が産まれた。

 白く、白く、白く、狂おしい程に白く。
 美しく透き通った、音の無い世界で。
 たった一人を除き、誰に気付かれる事も無いまま。

 ただ静かに、産まれたのだ。







*The End of Prayers*

第三十四話
「光を繋いで」






◆  ◆  ◆




 天の塔、第二階層。
 仲間達と別れ、二人。ライラモンと手鞠は奔走していた。
 イグドラシルを、その宿主を見つけ出す為に。

「────本当に、頭がおかしくなりそうだ」

 進んでも進んでも、同じ景色が繰り返す。
 白く塗り潰された空間は、「探索」という行為をするには都合が良いのだろう。視界は明るく、異物があればすぐに見つけられる。だが──

「ずっといたら発狂しちまうね、こんな場所。……手鞠。怖かったら無理しないで言っていいんだよ」
『ううん、平気。ライラモンが一緒だから。……でも』

 不思議と恐怖は無い。それは本当だ。
 だが、胸の中のざわつきが止まらないのだ。──自分達が戦線を離れた今、その分も仲間達が戦っている。

 仲間の現状は把握できなかった。一方的に通信を送る事は出来るが、返ってこない。それだけワイズモンと柚子にも余裕が無いのだろう。
 ナビゲートが無い分、探索に対する不安もある。熱源が接近すれば使い魔の猫が自動で反応するだろうが、効率は非常に悪い。

 早くしなければ。早くイグドラシルとその宿主を見つけて、戻らなければ仲間達が危ない。
 何より──マグナモンに言われていたタイムリミットまで、恐らくあまり時間がない。今この瞬間に迎えたっておかしくはない位だ。

 間に合わなかったらどうしよう。自分達はどうなってしまうのだろう。

『……っ』
「焦るんじゃないよ。……ああ、悪いね。生憎とお互いの感情もリンクするみたいだから」
『……ごめん。色々、間に合わなかったらって思ったら……』
「気持ちは分かるけどさ。なるようにしかならないんだよ」

 楽観でも傍観でもなく、ただ事実。先の事を悩んでいる場合ではない。
 そんなライラモンの言葉に、手鞠は「そうだね」と答えようとして──

『──! ライラモン、柚子さんの猫が……!』
「聞こえたよ。……まずい、向こうからだ」

 水晶の壁の影から、異音と共に姿を見せる防衛機。
 それも二体。ライラモンは大きく舌打ちした。

「ロイヤルナイツの玩具野郎が……こっちはソロだってのに!」

 完全体に進化したとは言え、力量には自信が無いのが正直な所だ。
 メタルティラノモンの時のように、完全体相手ならまだしも──

「二対一なんてお断りだよ!」

 背中の花弁を大きく揺らし、即座に飛び立つ。逃げ行く花を水晶が追尾する。

「……! くっそ速い! 追いつかれる……!」
『ねえ、向こうのやつ……壊したら使えるかも!』

 手鞠が示したのは、自分達の頭上に続くマンションの外廊下。
 破壊し、その瓦礫で防衛機を止めれば時間が稼げるかもしれない。

「ナイスだ手鞠!」
『でも、先回りしないとライラモンが潰れちゃう……!』
「そりゃ勘弁! 照準合わせるからタイミング見てくれ!」
『わかった! ……もっと離れて、もっと……! ──よし、今なら……!』
「マーブルショット!!」

 防衛機が追るタイミングを見計らい、外廊下にエネルギー弾を放つ。
 撃ち込まれる衝撃。コンクリートに似た素材は瓦礫と化し、一気に崩落する。

 崩落した瓦礫が道を阻む、その隙に一気に距離を取った。
 手近な玄関扉を開けて中に入り、部屋を抜けてバルコニーへ、そしてまた外に飛び出す。
 外と言っても塔の内部。別の外廊下に繋がるだけだ。ライラモンは再び適当な扉を選んで飛び込み、それを繰り返した。

 何度も、何度も、巨大なマンションの迷宮をがむしゃらに巡って────

「はーっ……に、逃げ切れた……!?」

 ようやく、背後からの気配を感じなくなる。
 ライラモンと手鞠は胸をなで下ろした。それから閉めた扉にもたれかかると、座り込み、呼吸を整える。

「二体同時はマジで無理……タイマンでも怪しいってのに……」
『逃げられて良かったね……。……あれ?』

 視界に飛び込んできた景色に、手鞠はきょとんとして声を上げた。

「どうした?」
『ここ……部屋じゃなくなってる』
「……って、どういう事?」
『だって今まではちゃんと、玄関の中は部屋だったのに』

 先程まで、玄関を開ければ廊下があった。奥に進めば広いリビングがあった。そして殺風景な部屋の先は、バルコニーへと繋がっていた。
 相変わらず真っ白だが、マンションとしての形状はリアルワールドのそれと同じもの。

 ────だったのに。

 目の前に広がるのは。これまでの『集合住宅の一室』ではない。
 もっと広く、どこまでも続くような廊下だけが在ったのだ。

「うわあ、ウチら何処いんの今」

 塔の内装が変わったのか、それとも空間自体が別の場所に変わったのか。
 分からないが、とにかく進んで行くしかなかった。幸い防衛機の気配も無い。

『柚子さんたちのガイドが無いと厳しいね……地図も無いし……』
「そもそもこの塔ってロイヤルナイツのものなんだろう? 何でこんな形してんのさ」

 第一階層も第二階層も、リアルワールドのものばかりで構成されている。それも、誰が見ても異常な状態で。

『……多分、だけど……確かデジタルワールドの神様って、ベルゼブモンさんのパートナーさんに入ってるんだよね? だからだと思うの』

 きっと、その人の中にあるたくさんのものが形になっちゃってるんだよ。
 手鞠の推測に、ライラモンは「そういうものかい」と眉をひそめる。やはりよく分からなかったようだ。

『……! ライラモン見て、あそこ……何かあるよ』

 言われるがまま首を捻ると、ライラモンの視界があるものを捉えた。
 白い道の上に何かが散らばっている。キラキラと光を反射させながら。

 近付いて手に取った。美しく透き通る、何かの結晶のようだ。

『石……硝子? ううん、宝石みたい……綺麗だね』
「欲しいなら持って帰るかい?」
『だ、だめだよ。勝手には……』
「まあ、帰ったらマグナモンの奴にでも頼んでみな。……向こうにも続いてるね」
『……』

 散らばり方に法則性は見られない。
 けれどこれは──まるで誰かの足跡を辿るようだ。そう、直感的に手鞠は思った。

『…………ライラモン。追ってみよう』
「罠だったらどうするんだい」
『綺麗な石は、お家までの目印なの。道に迷わないようにって』
「何それ?」
『わたしたちの世界の絵本にね、そういう有名な話があるんだよ』
「……そりゃあ随分ロマンチックだね。オーケー。乗ろうじゃないか」

 ライラモンは結晶の道標を辿っていく。
 すると程無くして、ライラモンの影の中から黒猫が顔を出した。「にゃあ」と、普段より警戒の薄い声で鳴いた。

 黒猫が示す先には──今までと少しだけ外観の異なる、マンションの玄関ドアがひとつ。

『ライラモン……』
「……ああ」

 中には一本の廊下が続いていて、美しい欠片が散らばっていた。
 その先にはまた、扉がひとつ。

 黒猫が再び「にゃあ」と鳴いた。

「……!」

 ライラモンは駆け出す。
 見た目よりもずっと長い廊下を進んで、扉に手をかける。

 別の扉が続いていた。ライラモンは立ち止まらなかった。
 開いて、進んで、何度も進んで、扉を開けて、欠片を辿って──。

 そして

「にゃあ」

 最後に二人を迎えたのは、病室を思わせる白いスライドドア。
 ライラモンは、勢いよく開け放った。




◆  ◆  ◆




 ────そこには。

 荒廃したエレベーターホールが在った。
 昇降機はひとつだけ。電気が落ちていて、中は暗い。


 その中に、『彼女』はいた。


 白い肌、艶やかな黒い髪。セーラー服を纏った、儚げで美しい少女。
 俯いて、目を閉じて、じっと座り込んでいた。その腕に何かを抱きながら。

『……──か……カノン、さん……?』
 
 名を呼ぶと、少女は顔を上げる。
 長い睫毛が揺れ、澄んだ琥珀色の瞳がライラモンを捉えた。

「────誰?」

 薄桃色の唇から零れた、鈴のような声が問う。

『……! えっと、すみません。わたし……』
「ライラモンだ。アンタを迎えに来た」

 花の妖精は不愛想に答える。カノンはライラモンを見上げると、納得したように「そう」と言った。

「あなたが、“正義の味方”?」
『……え?』
「何の事か知らないけど、生憎そんな大層なもんじゃないよ」
「ひとりなのに、声が二つ聞こえるのね」
「諸事情さ。手鞠はウチのパートナーだけど、今はウチの中に入ってる」
「…………そう、やっぱり……他にもいたの。デジモンと一緒にいる、人間の子」

 その声はどこか寂しそうで、けれど嬉しそうだった。

「アンタも入れたら六人か。『選ばれし子供たち』だってさ、アンタやこの子らみたいな奴をそう呼ぶんだと」
『それで、他にも……ブギーモンにさらわれた子が、いっぱいいて……。その子たち、塔のどこかに閉じ込められてるんですけど……』
「マグナモンから聞いているわ。別の部屋で眠ってるって」
『……』

 少女の受け答えは淡々としていて、手鞠は思わず戸惑ってしまう。

「いいじゃないか手鞠。話は早い方が都合も良いってもんだ。
 そういうワケで、早速だけど来てもらうよ。アンタの中のイグドラシルも一緒にね」

 およそ正義の味方とは程遠い口調で、ライラモンはカノンを指差した。

「えーっと……とりあえずアイツらと合流すりゃいいんだろう?」
『そ、そうだね。階は飛ばせないってワイズモンも言ってたし、まず三階には行かないと』
「──上まで連れて行ってくれるの?」

 カノンの言葉に、ライラモンは「当たり前じゃないか」と目を丸くさせる。

「ウチらはその為に来たんだから」 
「……よかった。私は、もう動けないから」
「足でも挫いたかい? まあ、そもそも人間の体じゃ厳しいだろうさ」
『だ、大丈夫ですよ。ライラモンは空を飛べるから、カノンさんもイグドラシルもちゃんと連れて行けます!』
「そういう事だ。──ほら」

 ライラモンは少女に手を伸ばした。

「平気だって、スピード出すけど落としゃしないから」

 ────だが、

「どうしたんだい。早く……」
「──私の中で育った、イグドラシルは」

 カノンは動かなかった。

「どんどん、おかしくなっているの。私の中にいたせいで」
『……え?』

 座り込んで、腕の中に抱えた何かを抱きしめたまま──動かなかった。

「このままだと止められなくなるわ。そのうち塔だって維持できなくなる」
『…………カノンさん。それ……』
「だから……それを、止めたかったから。私ね、あなた達が来る前に」
『何……持ってるんですか……?』

「────私は、『この子』を」

 イグドラシルをそう呼んだ少女は。
 大切そうに、腕の中の「それ」を見せた。







『……──!!』

 手鞠は小さな悲鳴を上げる。
 彼女が目にしたのは、決しておぞましいものではない。それどころか美しいものだった────けれど、

『……嘘、やだ……』
「手鞠、アレが何だって──」
『ここで、何が……あったんですか!? だってそれ……!』

 カノンが抱いていたのは、イリデッセンスが鮮やかに輝く水晶の球体。
 デジタルノイズを纏うそれが、生命を宿すものであると──そしてその中に眠る存在こそが、世界の神たるイグドラシルなのだと──解ってしまった。

『あなたから……生まれ……、──ッ!』

 小学生とはいえ、生命の誕生については既に授業で習っている。この少女の身に何が起きたのか──生理的な恐怖が手鞠を襲った。

 しかしカノンは、

「悲しんでくれるのね」

 当事者であるにも関わらず、落ち着いた声で手鞠を宥めるのだ。

「ありがとう。でも、いいのよ」
『……だめです。全然よくない……!!』
「きっと私、あなたが思ってくれたほど酷い事、されてないから。だからいいのよ」
『だって……だってそんなの絶対、あっちゃ、いけない事だって……わたしにだって分かるのに……!』
「ただ、この子が宿っただけだわ。私の中に宿って、育って、羽化しただけ」

 ──そう、イグドラシルは既に完成を遂げた。少女の中で、子供達の回路を通じて──マグナモンが長い時をかけて作り上げた修復プログラムは、ようやく役目を果たしたのだ。

 そして羽化した「神」を──カノンは、己が肉体から引き剥がした。
 産声など上がらない誕生の時。自身に溶け込む電脳体の強制剥離。どうやったかは覚えていない。がむしゃらに、直感と本能に従って────たったひとり、人知れぬまま。

 だって、そうしなければならなかった。
 生まれてこなければならないから、このまま体内にいてはいけないから。

 それなのに、

「……駄目だった。私の身体から出れば……この子はもう変わらないって、思ったのに」

 気付いた時には既に、体内で変質が進行していた。完了するまでは時間の問題だった。
 だから生み落としたのに、どういうわけかそれが止まらないのだ。

「私が側にいたらいけなかったの。近くにいるだけで、この子はどんどん変わってしまう」

 デジモンとパートナーとの距離が近い程、その影響が強くなるのと同様に──電脳体の神とその母体も、近くにいるだけで干渉し合ってしまう。
 つまりイグドラシルの変質を停滞させる為には、少女が自害するか、物理的に二人の距離を離す必要があった。それこそ階層間の次元を超えれば、距離という条件が満たされる可能性は高いのだ。

「ねえ、この子を連れて行ってあげて。私は置いて行っていいから」

 遠く彼方、天の座へ。イグドラシルが在るべき場所へ。
 辿り着くべきは少女ではない。彼女が生んだ、光だけ。 

「……ちょっと。なあ、嘘でしょ? アンタまで何言ってんの!?」

 けれど──少女を置いて行く事を、ライラモン達が受け入れる訳がなかった。

「アンタまでアイツと同じ事言ってんじゃないよ!!」
『カノンさんも行くんですよ! だって……だってパートナーさんが……ベルゼブモンさんが、カノンさんのこと……!』

「────」

 二人の言葉に、カノンは大きな瞳を更に見開く。
 その言葉が、名前が。嬉しくて、悲しくて、声を詰まらせて────飲み込んで、前を向いた。

「……お願い。この子が居なきゃいけない場所は、私の側じゃないのよ」

 わかるでしょう? ──そう、諭すけれど。
 抑えきれなかった涙が溢れていく。零れて落ちて、宝石の欠片と成っていく。

 それは、ライラモン達が辿った道標。
 目の前の少女の身体が、既に真っ当な人間のものでは無くなっていると理解するには十分な光景。

 そして何より──少女自身、その事実を分かっているのだと──ライラモンは気付いたのだ。

「……。…………わかった。アンタは置いてく」
『ライラモン……!』
「恨んでくれ。ウチらが強くなかったせいで、今……アンタを助けてやれないことを」

 もっと力があれば、究極体ほどの力を持っていたなら。
 ロイヤルナイツなんてすぐに倒して、この子だって救えたかもしれないのに。

 唇を噛み締める。そんなライラモンに、カノンは「ありがとう」と言った。

「────ねえ、ねえ。イグドラシル」

 そして、腕に抱いていた水晶の球体を差し出して──

「ごめんね。おかあさん、あなたを抱いていてあげるって、言ったのに」

 波のように揺らめく光彩が、ライラモンを包み込んだ。

「──!! ッ……な……!?」
『……! デジヴァイスが……!』

 気付けば少女の腕に水晶は無く、宿っていたイグドラシルは手鞠が所持するデジヴァイスへと格納される。
 勿論、一時的なものである。既に完成を遂げたイグドラシルにとって、手鞠は座へ向かう為の媒介でしかない。

 ライラモンは自分の中でそれが行われた事に嫌悪感を示す。同時に、そんなものを宿し続けていた少女をひどく憐れみながら──

「死ぬんじゃないよ。終わったら、あの惚気バカ連れて来てやるから」

 そう言って、踵を返した。
 手鞠が止めようとする。しかし彼女に肉体の支配権は無い。

『……──カノンさん!』

 手鞠は声を上げた。遠くなっていく少女へ届くように。

『わたし……こんなこと言っていい程、色んなこと分かってるわけじゃないけど……! だけどカノンさんはずっと、イグドラシルを……世界を守ってくれたんだって、思うから! だから……!』
「────」
『絶対、イグドラシルを連れて行きます!!』

 ──ライラモンが一度だけ振り向いて、手鞠の視界に、もう小さくなってしまった少女が映る。

 カノンは微笑んでいた。微笑んで、手を振って。
 手鞠とライラモンを──そしてイグドラシルを、見送ってくれていた。




◆  ◆  ◆



『……、……これで……良かったのかな……』

 乳白色だけが支配する視界で、ぽつりと呟く。

「さあね。……でも、あの子の姿がアンタ達の成れの果てだって言うなら……、……クレニアムモンは、許しちゃおけない」
『…………』
「それにウチらは託されたんだ。託されたなら、もう前に進むしかないんだよ」
『……うん……』

 ああ、どうかさっきの言葉が、無事に彼女へ届いていますように。
 手鞠は願い、ライラモンと共に前を向いた。



◆  ◆  ◆





 桃色の花が白に溶けて見えなくなると、カノンは、何も無い腕の中にぼんやりと目線を落とした。

 腕の中も、身体の中も、随分と軽くなってしまった。
 それが、少しだけ寂しい。そう感じた事を、我ながら不思議に思う。

 ──正直。これで、自らの役目は全うしたと思っている。
 逆を言えば、これ以上自分にできる事もないだろう。

 あとはただ、此の場所で祈るだけ。どんな形であれ、全てが終わるのを待つだけなのだ。

 光を託した少女達が、無事に辿り着けますように。
 励まし合った彼女が、会いたい人に会えますように。

 そしていつか、晴れた空の下。
 彼が不自由なく、生きていく事ができますように。

 願わくば────その隣に、いたかったのだけど。

「──……」

 熱い吐息を深く漏らす。……ひどく、寒気がする。身体中が痛くてたまらない。
 今に始まった事ではないのだ。自力で立って歩くなど、とうに困難となっていた。

 その何もかもが、イグドラシルという高位の電脳体を宿し、そして無理に引き剥がした代償。ここまでずっと、ずっと、我慢してきたが、

「……そうだ……」

 カノンは震える手をなんとか動かし、スカートのポケットから音楽プレイヤーを取り出す。
 ミネルヴァモンが渡してくれた母の形見。電源を押してみると、液晶に光が灯った。本当に充電してくれていたらしい。

 そして────イヤホンをそっと、耳にはめた。

「────」

 聞こえてくる、懐かしくて愛おしい旋律。
 少女の白い世界を、彩っていく気がした。

「……、……お母さん……」

 目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶ、幼き日の情景。
 イチョウ並木の下に母がいる。──今駆け寄ったら、自分を褒めてくれるだろうか。よく頑張ったと言ってくれるだろうか。

 夢でも構わないから、このまま──

「…………」 
 
 あたたかな雫が零れて、光の粒となる。
 目を開けた。現実の白い光が射し込んだ。

 涙の雨はとめどなく散っていくけれど。
 心は、満たされているような気がして、

「……ああ、でも」

 これでいいと、これで良かったのだと、言い聞かせて、

「…………疲れた……」


 床へと倒れる。

 遠のいて行く意識。美しい旋律の中。
 どこかで、鐘のような轟音が聞こえた気がした。




◆  ◆  ◆




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