◆ ◆ ◆
────落ちて行く。
どこまでも、どこまでも。
男は、落ちて行く。
倒すべき騎士は既に遠く。
向けられた手は届かない。
景色も、戦いの音も、何もかもが小さくなって──。
「────カノン」
何度も、何度も。
手を伸ばして、足掻いてみせたが。
結局、求めたものを掴む事はできなかった。
遠い記憶に見る、廃棄物の山に登ったあの時と──自分は何も変わらない。
「……俺は……」
最期は独り、コールタールの海の夢に沈んで。
暗く深い穴の底で溶け、果てていく。
その結末から逃げ切る事は、出来なかったようだ。
「……、……」
意識が霞んでいく中、肉体が一瞬だけ重力に逆らうのを感じた。何かに引っ掛かったのだろうか。
「…………お、前」
視線の先──彼の影に宿っていた黒猫が、その身体を瓦礫に巻き付かせていた。
何度か食った覚えのある、よく分からない何か。恐らく先の戦闘の最中、見えない同行者が宿したのだろう。
だが、そんな黒猫も長くはもたない。
伸縮する下肢は千切れ、落下し、残った前肢でまたしがみつき、そして落下する。
緩やかな墜落。
騒がしい雨の音。
見覚えのある水晶のスクリーン。
騎士が空けた次元の大穴が、男を迎えた。
「────」
──階層間を抜ける際に落下速度が落ちたのか、それとも影絵の猫が奮闘したのか。
穴を抜けた直後、ベルゼブモンの身体は水晶へ叩き付けられたが──彼の肉体は飛び散ることなく形を保った。
「……、──ぐ、」
くぐもった声を漏らし、口から大量の血を溢す。
形を保ったとは言え、辛うじてだ。
槍に裂かれた背中は深部のワイヤーフレームが露出し、黒い液体が溜まりを広げている。
既に襤褸切れのようになった、影絵の猫が男の顔を覗き込んだ。床と背中の間にするりと入り、傷口に張り付いた。
そのまま、黒に溶けていく。
「……」
辛うじて、辛うじて。
命が繋がれた。男はまた、他者の命で自らを繋ぎ止めたのだ。
溶けたデータが身体を巡り、這いつくばれる程度にはなっただろうか。「自分が食べた同行者達に礼を言うべきか」──そんな彼らしくない思考を巡らせる。
それから、男は立ち上がろうとした。けれど起き上がれなかった。足が折れているようだ。
痛みの感覚はとうに失っていた。──動く片腕で何とか上半身だけ起こし、血走った眼球を動かす。
────これでは足りない。
視界の端に食い残しを見つけた。
出会った記憶のない防衛機の残骸。
「────」
喰らう。
掴んで、噛みついて、喰いちぎる。
やはり自分には、この生き方が向いているのだろうと思いながら。
喰らう。
「────」
身体を這わせ、次の獲物を探す。
──足りない。
もっと喰わなければ。データを喰い続けなければ。何故だか空腹は感じなくとも、そうしなければ──あの騎士を殺せない。あの子を、迎えに行けない。
だから男は、周囲に広がる水晶にさえ手を伸ばした。
この水晶も元を辿ればデータの塊。そう認識した訳ではなかったが、男は喰らった。
歯を砕いてでも喰った。顎を裂いてでも喰った。
這って、手を伸ばして、喰って、不思議と足が「ぐちゃり」と再生して、膨張した下肢の肉から毒を滴し、引き摺りながら進んで、喰って────そうして見覚えのない場所を、方向感覚も忘れて動き続けていく。
自分がどのくらいの時間、這いずり回っているのか。どのくらい進んだのか。もう、分からない。
それでも喰い続けようと、目の前に散らばる美しい欠片に手を伸ばした。
──その時だった。
「……」
何かを聞いた。小さな音だ。
同行者達のものではない。騎士のものではない。防衛機のそれでもない。
「……──」
どこかから。
いつか、聞いたような。
────綺麗な旋律が
「カノン?」
聴こえた、気がした。
男は。
力を振り絞って上体を起こした。
小さな音を頼りに這って、少女の名を呼ぶ。
そうして────やがて、網膜を焼く程眩しい白の世界で。
男は視界の先に、透き通る瓦礫の山を見つけた。
崩壊した昇降機。
集合住宅のそれと同じ姿さえ、とうに保てなくなった、朽ちた移送機の残骸。
音が聞こえてくる、その中に
「────ぁ、」
少女の姿を見たのだ。
まるで、無機物の山に咲く花の様に──
「──……あ……あぁ……ッ」
埋もれていた。
「ぁあああああああああああああ!!!!!」
──叫ぶ。
叫んで、瓦礫の前まで這って、手を伸ばす。
「カノン! カノン……!!」
どうして。どうして。どうしてこんな事に。
瓦礫に手をかける。水晶の瓦礫は容易に皮膚を裂いた。鋭利な硝子のようであった。
一つ一つの重量はそれほどでもないのだろう。だが、少女の肌を傷付けるには充分。男はそれに腕を突っ込んで、頭を突っ込んで、彼女を守るように覆い被さって────。
少女の白い腕を掴み、なんとか引き摺り出した。けれど、
「──……!!」
触れた場所が冷たい。
呼び掛けても、返事をしてくれない。目を覚まさない。
それでも少女は、その手に小さな機械を握り締めていた。とても、とても大事そうに。
機械が奏でる美しい旋律。イヤホンのプラグが何かの拍子で抜けたのだろう。溢れた音色が水晶に反射し、男の耳に届いたのだ。
聞き覚えのある音階。それが何なのかは分からない。
けれど────あの夜。彼女が自分に聞かせたいと言っていたものだと、理解する。
「──ッ……!!」
胸に押し寄せる後悔の念。
あと僅かでも早く、此処に辿り着いていれば。
最初からクレニアムモンを追わずに、彼女を探しに行っていれば。
────どれ程それを嘆いたところで、時間は戻りはしない。
ベルゼブモンは震える片手で少女を抱き寄せた。少女はやはり目を覚まさなかった。
それから何度も、何度も、必死に周囲を見回して、
「……──誰か、いないのか」
遠い天の空洞を見上げ、乞い願うように声を上げた。
「誰か……、……来て、くれないか」
同行者達の姿を、銀の髪の男を浮かべる。
「ここに、いるんだ。カノンがいるんだ。カノンを……、……助けてくれ……」
声は消えゆく。
此処には、誰もいないのだと知る。
目に映るモノクロームの世界。
他には誰もいない、静かな世界。
あの夜の続きを描くように──たった二人、取り残されて。
「…………」
ようやく手に掴んだ、白い花の情景と共に。
朽ちていく。
「……、……嫌だ」
それはあまりに欲深く、けれど心から湧いた感情だった。
彼女を此処で眠らせたくない。
彼女と此処で果てたくはない。
────生きていたい。一緒に。
「カノン」
ああ、もしも。
ひとつだけ願えるのなら。願う事を許されるなら。
どうか彼女に光を。
どうか、ひとかけらの奇跡を。
◆ ◆ ◆
ぽたり、と。
男の瞳から何かが零れた。
透明な何か。あたたかな何か。
ひとしずく、ひとしずく。少女の顔に落ちては、長い睫毛を僅かに濡らす。
それから白い頬を、首筋を伝い──ベルゼブモンは顔を寄せ、指先でなぞるように優しく拭った。
想いを溶かした涙の痕。
滲む視界で、男はまた少女の名を呼ぶ。
────その時、
『 』
旋律に混じり、誰かの声のようなものを聞いた。
そして──目を疑う。少女の白い頬に、ひとつの幾何学模様が浮かび上がっていく。
「…………!」
男は咄嗟に、彼女の頬に手のひらを当てた。
ぬくもりを感じた。覚えのある温かさが、そこには確かに在ったのだ。
少女に浮かんだ幾何学模様。
それはかつて、未来へと託された祈りの結晶。
子供達に捧げられた紋章。──その、最後の小片だった。
輝くは奇跡の紋章。
溢れる光の海に、二人は飲まれていく。
◆ ◆ ◆
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