◆  ◆  ◆



 ────そこは、純白の空間だった。

 天井からいくつも垂れる半透明の布。
 ドレープを描きながら、来客を迎えるように柔らかく揺れていた。

「────」

 ワイズモン達からの通信は無い。側にいる様子もない。
 彼女の使い魔は、きっと此処まで辿り着けなかったのだろう。

 全身で感じる張り詰めた空気。あらゆるものを拒絶するように澄み渡る、高位の空間。

 とても静かで、穏やかだった。

『すごく綺麗なのに……息、詰まりそう……』
『……。……ここで、毒が……生まれたせいで……ふたりが────オリンポスの皆が、あんなことに』

 此処が、此処こそが全ての始まり。
 イグドラシルが黒い涙を流した場所。膨れ上がる世界を、愛する世界を、自らの手で侵していった──。

「────俺達の、家族は」

 天蓋のベールが燃えていく。
 ゆっくりと、煙ひとつ立てずに。

「……“あの子”は、もう……戻って来ない……」

 炎の向こうには、宝石の欠片が散りばめられた美しい祭壇。
 周りには円を描くように、十一の結晶が並べられていた。

 そして、その中心に──今は誰もいない、水晶の座が姿を見せる。

「でも……なあ、皆……俺達は、ここまで来たよ……」

 ──思いが溢れる。
 それが涙となって零れそうになるのを、必死に堪えた。肩を震わせ、拳を強く握り締めて。

「……メルクリモン、頼む」
「……ああ」

 メルクリモンは、仲間から託された光を両手で掲げた。
 それから床に片膝を着き、深く深く頭を垂れ──世界の、我らの哀しき創造主に捧ぐ

「ありがとう二人とも。これで──やっと、」




「────いいえ、我が君」

 後方から、低い声が聞こえた。

「イグドラシル、イグドラシル……我らの、……」

 クレニアムモンはやはり追ってきたのだ。
 空間を抉じ開け、彼が何よりも大切にした場所へ。

 彼の両腕は先程の閃光で吹き飛ばされていた。
 それを無理に再生させようとしたのだろう。断面からはブラックデジゾイドが有刺鉄線のように伸びている。
 ──針の先には既に、誰かの血液がたくさん付着していた。












 血走った深紅の瞳は、ただ、目の前の光だけを映して──

「──私の、神……」

 変わり果てた騎士の姿。
 アポロモンとメルクリモンは、何故だかとても悲しくなる。

「手を、下ろせ。それではいけないのだ」

 かつては彼も嘆いたのだ。世界に、子供達に、自らの行為に。
 けれどそれ以上に、イグドラシルへの忠誠が彼を突き動かした。今日という日まで動かし続けた。──その結果がこれだ。

「世界が変わらねば、イグドラシルが再誕されなければ、意味が無い。貴様らの行為に意味は無い」

 どこからか、いつからから、狂い出した。
 
「繰り返しだ。また繰り返すぞ。今は逃れても、いつかまた──膨れ上がる命に、世界に!
 イグドラシルは悲しまれる。いつか、いつか……──」

 故に、騎士は遂げなければならなかった。
 後には退けない。退くつもりもない。
 これまでの数多の犠牲を無駄にはしない。

 私が世界を救うのだ。イグドラシルが愛した、デジタルワールドを。

「──だからこそ私は!! イグドラシル……! もう二度と、御身が涙を流されぬよう──!!」

 主よ、盟友達よ。
 どうか────未来の世界が、永久に平和でありますように。

「エンド……! ワルツ!!」

 腕から伸びた有刺鉄線が絡み合い、歪な槍と成っていく。
 断面の肉が捻れようとも、千切れようとも厭わず──クレニアムモンは、双槍のクラウ・ソラスを生み出した。

 荒れ狂う衝撃波。
 空間を捻るように巻き込んで、守りたかった場所(もの)さえ壊していく。

『……! アポロモン!』
「ああ!」

 アポロモンが咆哮を上げた。
 放たれた光が風を焼き、紅蓮の灼熱と共に騎士を抱く。

 熔解する黒紫の鎧。肉の焦げる匂い。
 しかし騎士は止まらなかった。弾丸のように踏み込み肉薄する。

 狙われたのはメルクリモンだ。けれどアポロモンが咄嗟に前へ出た。
 衝撃の全てを、自身の装甲で受け止める。

「ぐっ……!」

 槍の先が装甲を貫く。焼けた金属が肉を抉る激痛に、アポロモンは苦悶する。
 アポロモンを穿ったまま、槍は柄をしならせメルクリモンを追った。

 メルクリモンは振り向き様、片手で短剣を構え──しかし槍の軌道がぐにゃりと歪み、彼の首元を切りつける。
 棘まみれの柄をアポロモンが掴んだ。掌に、腕に、身体に穴が空いていくのも構わず食い止める。

「!! アポロ……」
「イグドラシルを! ──兄さん!!」

「────……!!」

 メルクリモンは駆け出した。
 ほんの僅かな距離。目の前のゴールに。

 そして──

「『──あああぁっ!!』」

 美しき水晶の座へ。
 神の光が、再び宿った。





◆  ◆  ◆




 静寂が訪れる。

 ほんの一瞬。──しかし、それだけだ。他には何も起こらない。
 四人は困惑する。イグドラシルは間違いなく、あの水晶台に座した筈なのに。

『何で……何も、起きないの……』

 やり方が違っていたのだろうか。それとも置くだけではいけないのだろうか。
 何かシステムを起動させるなら、ワイズモン達の力が無ければ──

「──────イグドラシル」

 けれど騎士の様相が、決して失敗した訳でないのだと彼等に思わせる。
 怒りを、憎悪を露に、騎士の眼窩には血のような赤い光が灯っていた。

「御身は、私が」

 ああ、嗚呼。アア。
 そんな形で座に戻られるとは、なんて嘆かわしい。

 戻さなければ。
 全部、全部、全部、全部全部全部全てはイグドラシルの為に。


 黒紫の鎧の内側から、肉の弾ける音が聞こえた。


「「──!!」」

 メルクリモンがアポロモンの腕を掴む。即座に騎士と距離を取った。

 アポロモンがいた場所で有刺鉄線が破裂する。その破片は、空間の天井に突き刺さり──

「友よ、盟友達よ、仲間達よ」

 ピシ、と小さな音を立てる。
 白い天井が、ひび割れていく。

 亀裂からは黒い液体が、白い空間を侵すように垂れ始めた。

『……やだ、待ってよ。だって……』

 天上の結界が塞き止めていた毒の雲。
 その一部が溶けて入り込み、それは──かつての騎士達の姿を模した、防衛機を作り上げていく。

『私たち、今……ウイルス種……!』
「──ッ!! メルクリモンを守れ! 我が太陽、聖なる焔!!」

 アポロモンがメルクリモンに太陽の加護を授ける。彼が万が一にでも汚染されたら終わりだ。
 だが──オリンポス十二神としての力を取り戻したばかりの彼の能力は、まだ万全ではない。

「気を付けろ! 久しぶりだから多分、長くもたない……!」
「充分だ! ありがとう!」

 白い床の上で這い回る防衛機。
 毒を溢しながら、二人めがけて襲いかかる。

「──我ら、ロイヤルナイツ。主を護りし騎士なれば──」

 剣が、槍が、刃が、拳が、毒を抱いたそれらが押し寄せる。

 例え突貫工事の無機物だとしても。クレニアムモンのような強さは持たないとしても。
 片手で払い避けられるような代物ではない。何よりもその数が厄介だった。今度はこちらの足止めをすると、言わんばかりに。

「スピリチャルエンチャント……!!」

 メルクリモンが短剣を振るう。
 数なら数を。幻影の魔物達が溢れ出し、毒の騎士らを飲み込んだ。

 騎士と魔物が殺し合う。その中で更に、クレニアムモンがイグドラシルを取り戻すのを食い止め続ける。
 焔の壁が周囲を覆う。魔物達がクレニアムモンと毒騎士に群がる。黒紫の槍が、その肉塊を吹き飛ばしていた。

 およそ神が座する場とは思えない光景が、広がっていく。
 毒の焼けるにおいと、毒に焼かれるにおいが、鼻を突いた。

『くそ……倒してるのに減らない! 何でだよ!』
「上に毒が溜まってるせいで湧いてくるんだ! ……こっちの手札は無限じゃないっていうのに……!」

 天上に溜まった毒から生まれる騎士と違い、幻影の魔物には限りがある。──あくまで数ではなく、メルクリモン側の問題ではあるのだが。
 召喚による消耗が激しくなる程、中の花那にも影響が出てしまう。二人共、既に疲弊の色が見え始めていた。

「兄さん! あと出せる魔物は何体だ!?」
「……二体だ! 流石に僕の中で花那を消したくはない!」

 再度、短剣を構える。
 襲い掛かる毒の騎士をアポロモンが殴り飛ばした。その隙にメルクリモンは力を振り絞り、最後の二体を召喚する。

 ──虚空の切れ間から飛び出した、二つの幻影。

「……え……?」

 それは────ディアナモンとマルスモンの姿に、よく似ていた。

『あれって……さっき、記憶の中にいた……?』
『お願い! 私たちに力を貸して!』

 月女神の影は無言のまま鎌を振り上げ、毒騎士の首を切り落とす。
 闘神の影が毒の騎士を薙ぎ払う。クレニアムモンまでの道を、切り拓いていく。

「……ディアナ……! ──っ、アロー・オブ・アポロ!!」
《────、──》

 炎の矢と氷の矢。
 入り交じりながらクレニアムモンを穿つ。有刺鉄線の結び目を溶かし、砕く。騎士の腕を弾き飛ばしていく。

《──、──》

 マルスモンの幻影が放つ無音の雄叫び。俊神と共にクレニアムモンへ肉薄する。
 二人を狙い毒の騎士らが飛び掛かる。それを上空から、アポロモンとディアナモンの影が撃ち抜いた。

 黒紫の腹部に拳を、膝を、叩き込む。
 金属がひび割れる音と共に、騎士の身体が僅かに浮いた。

 肩から腹部にかけて、欠片を零していく黒紫の鎧。

「……、──私の、ブラック、デジゾイドは……」

 露出する肉の部位。
 深紅の瞳が揺れる。

「……イグドラシルより、賜りし──……」

 ──直後。
 両腕の断面から、大量の槍が一斉に飛び出した。

 あまりに鋭く、長く、短く。
 それは無差別の全方位攻撃。
 魔物も、騎士も、周囲の全てを貫かんとする黒紫の槍。

 穂先は二人の身体中を穿ち、穴を空けていく。

「がっ……!」
「……、──ッ!」

 しかし──致命的部位だけは、避けられた。
 二人を庇うように、二つの幻影が彼らの前へ出たからだ。

「……!!」

 ──あくまで影だ。ただ形が似ているだけ。意思も感情も待ち合わせない紛い物。
 それでも──「ありがとう」と、アポロモンとメルクリモンは、声を零す。

《────》

 幻影は何も語らない。
 けれども穏やかに揺らぎ、消えていった。

 そして──


「「────クレニアムモン!!」」


 ──陽炎に轟く二つの咆哮。

 真っ直ぐに駆けて往く。目線の先、黒紫の騎士へ。
 飛び出した槍が肩を裂いても止まらない。膝を貫かれても止まらない。

 進む。
 たくさんの仲間が、友が、ここまで繋いで拓いた道を。

 進む。


『『いっけえええーっ!!!』』


 たくさんの願いを、託された思いを、その拳に込めて────


「──サウザンドフィスト!!」
「──フォイボス・ブロウ!!」




















第三十五話  終








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