◆  ◆  ◆





 ──水晶の群が軋む。
 割れて、崩れていく。

 耳を突くような轟音。喧しくてうるさい筈なのに、ベルゼブモンには周囲がとても静かに思えた。
 戻って来るまでの間、此処で何があったのかは知らない。──自分はただ、憎悪すべき黒紫を狙って撃っただけ。それが運良く同行者達を巻き込まなかっただけの事。

 だから、そこまで礼を言われる事もないのだが──と、思う。

 上空を仰ぐ。見当たらないあの二体は、どうやら戻って来るらしい。
 此処が崩れて無くなるのと、どちらが先か。いずれにせよ、自分がそれまで留まる事に異論はなかった。

「……」

 大切なものは、既に腕の中に在る。
 離れてしまわないよう抱き締める。
 仮に足場が崩れても大丈夫だ。今の自分には、彼女が授けた翼があるのだから。

 深い穴の底から、どこまでも飛んで行けるのだから。

「……──」

 成長を続ける光の根。壁は次々と崩落し、視界に空が広がっていく。
 すると、男は自らの視覚情報に違和感を覚えた。

 どこまでも果ての無い空。
 灰色にしか映らない筈の空。先程までは確かにそう見えていた筈の空。

 何故だかそれが、いつもと違う色に見えて────



「────ベルゼブモン?」



 声を聞いた。
 鈴を転がした様な、透き通った綺麗な声が。

「────」

 仰いだまま、ベルゼブモンは目を見開く。
 唇を震わせ、腕の中へ目線を落として──

「……──、──カノン……」

 名前を呼んだ。
 何度呼んでも届かなかった、少女の名前。掠れた声で、けれどはっきりと口にした。

「……」

 少女の瞼は薄く開かれている。
 美しい琥珀色の瞳は濡れ、長い睫毛の先に雫が結ぶ。そのまま、涙となって零れていく。
 それを、男はそっと指で拭った。──触れた頬に一瞬、あの幾何学模様が浮かび、消えていった。

「……どこか、痛いのか。カノン」

 少女は小さく首を振る。

「怖いのか。カノン」

 少女はまた、小さく首を振った。

「────あなたが、」

 白く細い指が、男の首元に触れる。

「生きて……いてくれて、……嬉しいの」

 恐る恐る、不安げに。
 そんな少女の手を、男は強く、けれど大切に握り締めて──自身の頬にそっと当てた。

「大丈夫だ」

 掌から感じる温度。やわらかな温もり。

「カノン。……俺は、ここにいる」

 穏やかな笑顔。優しい眼差し。
 カノンは、安心したように微笑んだ。

「……──ありがとう、ベルゼブ」


 水晶が軋む音がする。瓦礫が轟音となって響き渡る。
 それは遠い日、いつかモノクロームの世界で聞いた、鐘の音の様で。

 声も、何もかも、掻き消してしまいそうなそれを聞きながら────二人は互いの鼓動を、確かに感じていた。




◆  ◆  ◆





 → Next Story