◆ ◆ ◆
再び主聖堂に戻ったエンジェモンは、がらりと変わった堂内の空気に目を丸くさせた。
あの亜空間の魔女も、目に力が戻っている。多少は事態が好転したのだろう。
「エンジェモン、丁度良い所に。──今、彼が持って来た分で足りるか?」
「ええ、それだけあれば十分かと。……この聖水があって良かッタ。分離後の飛散防止になりマスから」
祭壇の前には二つの木箱が用意されていた。
子供達の背丈よりも少し大きな直方体。聖具室から運ばれたそれらには、既に半分ほど聖水が溜まっていた。
ホーリーエンジェモンは、その上から更に水を注いでいく。やがて聖水で木箱が満たされると、ウィッチモンは子供達に顔を向けた。
「ユズコ、テマリ、セイジ。皆さんにお願いが」
「! 何でも言って! オレたちにできること、あるなら全部やるから!」
「補正用の生体因子が必要デス。……あなた達の皮膚か爪、もしくは血液を──彼等に提供して頂きたい」
マグナモンの最高傑作でさえ、消化器官の機能は不完全だった。
これは推測だが。当時の子供達は体内まで電脳化が進行し、情報を読み取る最中にエラーが生じたのだろう。
逆を言えば──電脳化が軽度な人間が一人でもいれば、それだけでエラー箇所を補正できる事になる。
幸い、亜空間で過ごしていた柚子がそれに該当した。肉体ベースを彼女の因子から、性別に由来する構造の違いを手鞠と誠司の因子から、それぞれ補正すれば問題ない筈だ。
「……わたし、花那ちゃんと血液型いっしょだよ! A型!」
「私も! それに爪だって皮膚だって、二人にあげるから!」
「お、オレだけO型……だけど、何とかなるよな!? ……そうだ髪の毛は!? 使えるなら全部持ってったって良い!」
必死の様相で自身の髪の毛を抜こうとする。蒼太が慌てて止めるが、誠司は本気だった。
「絶対に皆で、そーちゃんと村崎を元に戻すんだ! 死なせるもんか!!」
『……誠司……』
「採取した組織はこれに。零して無駄にしては大変だ」
と、ホーリーエンジェモンが用意したのは、二つの小さな黄金の杯。
そして彼の指示の元、エンジェモンが短剣を取り出した。──採取の為だ。痛みも少ない筈と分かっていても、子供達の顔には緊張が走る。
「待ちな。……この子達はウチらのパートナーだ。だからせめて、ウチがやる」
それにナイフの使い方なら、この中で自分が一番慣れているのだから。──そうして短剣はチューモンの手に渡った。自分の手で仲間を傷付けるとは思わなかったが、他の奴にされるよりはマシだった。
三人はまず、自身の髪を数本、毛根ごと引き抜く。チューモンが彼らの爪の先を少しだけ切り落とし──それから指先に、針で刺した程度の小さな傷をつけた。
丁寧に採取した血液が、そして肉体の情報が、黄金の杯の中で混ざっていく。
「──さあ、お納めを。偉大なりしオリンポス十二神」
ホーリーエンジェモンは杯に亜麻布をそっと被せ、手渡した。
「「……」」
杯を見つめながら、アポロモンとメルクリモンは思う。──ミネルヴァモンの義体にも、こうして未春の身体の一部が使われたのだろうか。
「……せめて、あの子が……痛い思い、だけでも……してなかったら、いいんだけど」
メルクリモンは、掠れる声を震えさせた。
木箱を満たす聖水の水面は、光を反射し揺らめいている。
アポロモンとメルクリモンはそれぞれ側に膝を付き、覗き込んだ。──水鏡に映る自身の顔を見る。
遠き日と寸分違わない、けれど酷く疲れ切った顔。こんな顔を仲間達に見せていたのかと思うと、少しだけ恥ずかしい。
蒼太と花那は、この水の中で実体化されるのか。溺れてしまわないか心配になる。……いや、それよりも────これではまるで、棺のようじゃないか。
「──まずは基盤の造形を」
水面が波立ち、何も見えなくなった。義体の製造が開始される。
──第一段階だ。ウィッチモンは水瓶の材質を素に、二つの人形を構築した。
まだ雌雄さえ分かれていない、球体関節のビスクドール。
聖水の中に生まれ、音もなく沈んでいく。
無機質の人形に中身は無い。関節を繋ぐ紐さえ存在しない。
そんなビスクドールに、「みちる」と「はるか」の情報を転写していく。何も無い中身に、人体の構成情報を埋め込んでいく。……あの二人の義体が、それぞれ男女の体で作られていたのは幸いした。
「三人の肉体情報で補正しマス。──杯を中へ」
アポロモンとメルクリモンは、黄金の杯を聖水の中へと沈める。
選ばれし子供たちの命の欠片が、人形へと溶けていった。
「生体因子、及び有機素材より生体適合性高分子を造形。──付加製造開始」
テクスチャではない皮膚を。ワイヤーフレームではない骨と神経を。
ボリュームメッシュではない肉と内臓を。光の粒子ではない血液を。
「──組織の構築……──接合、足場との接着……」
一層ずつ重ねるように、人形へ組み込んでいく。
「各臓器、生理機能を代替。自己修復機能の補助を──」
主聖堂の空気は酷く張り詰めていた。経過していく時間の中で、仲間達はひたすらに成功を祈り続けた。
祭壇の少女は見守っている。仲間達の為に、必死に祈る彼らを見守っている。
「……いい子達ね」
無垢で素直で、優しくて。なんて素敵な子達だろう。
こんな彼らだから、想いの強い彼らだから、世界だって救えたのかもしれない。
「ねえベルゼブモン。あなた、いい子達に会えたわね」
「……。……」
返事は無かった。男は少女の横顔を見つめ、それから、同行者達に目を向ける。
────少し遅れて、「そうだな」と、小さく頷いた。
「──、……──内部の構築が完了しまシタ。起動テストはできまセンが、理論上は起動する筈……」
こうして二つの人形は、子供達の肉体を維持するに値する「義体」に昇華した。
しかし外見上はまだ、ビスクドールと変わらない。蒼太と花那という半実体、半電脳体の移植がされる事が、義体起動のトリガーとなる。
「では────お二方。『二人』の手を」
「「……」」
アポロモンとメルクリモンは、水に沈む人形の手を握る。
……冷たくて硬い感触に、少しだけ不安になった。
接触による物理的接続が開始される。
触れた肌に感じる、静電気が走ったような小さな痛み。──どこか懐かしい痛み。
木箱の中に、光の繭が形成されていく。誠司と手鞠を分離した時と同様のものだ。
繭はそのまま義体達を包み込んだ。パートナーと繋いだ手も、包帯の様に覆われた。
蒼太と花那にはまだ意識がある。
……緊張と不安、そして恐怖が、胸の中で混ざり合っていた。
「義体と回路の結合、異常なし。電脳体分離システムを起動──」
だが──それも、間もなくして
「──電脳体から実体への再変換。義体への同期を開始しマス!」
意識が輪郭を失い出した。蒼太と花那は、温かな水底に沈むような感覚を抱く。
自分達が、パートナーの中から離れていく。
『『────』』
ああ、どうか上手くいきますように。
どうかもう一度だけ────二人と一緒に、デジタルワールドを
『が、ガルルモン……』
名前を呼んだ。
「……花那……」
『手……離さないで……』
「……もちろんだ。絶対に、離さない」
義体の手を、ぎゅっと握り締める。
『……コロナモン』
「蒼太」
──少しだけ、眠たくなった。
「……──大丈夫だよ」
ぼやけていく意識の中で、アポロモンの優しい声を聞く。
身を任せるように、目を閉じた。
◆ ◆ ◆
────けたたましい、蝉の合唱が聞こえてくる。
瞼を開けると、射し込んできた夕陽の光に目が眩んだ。
空は濁った橙赤色。果ては夜の色に染まりかけている。
“ああ、これは夢だ。”と、蒼太は思った。
だって雨上がりの空は美しい青色で、そもそもデジタルワールドに蝉の声が聞こえる筈もない。
だから──きっと、これは夢なのだろう。
「──蒼太」
呼ばれて振り向くと、隣には花那が立っていた。
自分の夢が作り出した存在なのか、それとも自分と同様、夢に迷った本人なのかは分からない。
「ねえ、あれ見て」
花那は指を差す。その先には、見覚えのある古びた雑居ビル。
鉄骨造りの四階建て。テナントは全て撤収し、今はもう使われていない。なのに取り壊されないまま放置され、すっかり廃墟と化してしまった。
──どうして、こんな所にいるのだろう。
「……──そうだ。……宮古の、ランドセル……」
此処には、それを探しに来たんだった。
しかしどうしたものか。花那は怖がりだから、このお化け屋敷とは非常に相性が悪い。
でも、これは夢だから。
ランドセルを探さなくても、覚めればきっと元通り。そもそも中には無いかもしれない。
ああ、これは夢だから。
家に帰ってみても良いだろう。花那と一緒に、夢の中でだけでも家に帰って──きっと家族が、夕食を作って待っているから。
こんな時間までどこに行っていたのと、怒られて。
心配かけてごめんなさいと、謝って。
もしかしたら、もしかしたら、それが最後の会話になるかもしれないなら────いっそのこと。
「……」
──けれど。
やっぱり、中に入らなければ、いけないような気がして。
「行こう」
先にそう言ったのは花那だった。
蒼太は目を丸くする。差し出された手を、気付けば取って握っていた。
正面玄関は封鎖されているから、裏口へ回る。
途中、四階の右端の部屋を見上げてみた。──何も光ってはいなかった。
◆ ◆
一階のロビーはやたらと広くて、思ったよりも薄暗い。
動かないエレベーター。色褪せた窓。破かれたテナント募集の貼り紙。
歩く度に埃が舞って咽そうになる。薄暗くて視界も悪い。
早くしなければ。夜が来たら真っ暗になってしまう。
「──あ、……ごめん花那。懐中電灯、持ってない」
暗いまま進むなんて、花那を余計に怖がらせてしまう。申し訳ない気持ちになった。
だが──花那は何故だか、きょとんと目と瞬かせて、
「でも道、覚えてるでしょ?」
そんな事を言ってきた。
蒼太はまた、驚いた。──どうやら、彼女は夢ではないらしい。
◆ ◆
熱がこもったコンクリートの階段を、手を取りながら上がっていく。
いつか救えなかったツカイモンの──毒の染み痕を横目に見ながら。
中は静かだ。自分達の足音と、蝉の声しか聞こえてこない。
「懐かしいね」
お互いにそう言い合いながら、真っ直ぐに四階へ向かう。
最後まで上がると、屋上への階段が目に入った。相変わらず鎖で閉鎖されていた。
階には一部屋。出入口もひとつだけ。そんな変な間取りだから、テナント達も去ってしまったのだろう。
奥に位置する硝子扉には、白い紙がびっしりと貼られている。──中は、見えない。
「──ここに」
あの日、この扉の向こうに。
「ここに、いたんだ。二人とも」
「……そうだね」
「…………ちょっと怖くなってきた。花那、これ一緒に開けない?」
「あれ、蒼太のが先に怖がるなんて珍しいねえ」
「……笑うなよー。それにホラーだから怖いんじゃねーし」
「ごめんごめん。分かってるよ」
「……。……それじゃ、開けるか」
「うん。会いに行こう、二人に」
取っ手にかけられる二つの手。蝶番が軋む音。
蝉の喝采を浴びながら、旅の始まりの扉を開ける。
────暗い廊下に、薄明かりが差し込んだ。
◆ ◆ ◆
────声を聞く。
「花那ちゃん! 矢車くん! がんばれ!!」
「元に戻れーっ!!」
「……お願い成功して。もうこれしか手がないの……!」
友人達の、声を。
「しっかり二人共! 絶対帰ってこい!!」
「おで、待っでるよ! だがら……!」
仲間達の、声を。
「「────蒼太! 花那!!」」
パートナーの、声を聞いた。
木箱を包む、光の亜麻布が弾け飛ぶ。
そして──大きく水が跳ねる音と共に、
「──ごほっ、ごほっ!!」
「っ……ハ──、はぁっ──、──ッ!!」
水の中から──蒼太と花那が飛び起きた。
鼻と口から入り込んだ水で思い切り咽る。気管に誤嚥した水を必死に吐き出した。
しかしそれは、二人が正常に生体反射を起こした証であり───
「────せ、……成功、……しまシタ。バイタルも異常ありまセン……!!」
義体が人間として機能している事を、示していた。
「そーちゃん!!」
ずぶ濡れの蒼太に誠司が抱き着く。蒼太も花那も、まだ意識がはっきりせず困惑していた。
……水で張り付いた服が冷たい。五感は触覚から取り戻したらしい。他はまだ、曖昧だ。
ぼやけた視界には、大泣きする誠司と手鞠がいた。安堵から腰を抜かす柚子がいた。チューモンとユキアグモンが、喜びながらウィッチモンに飛びついていた。
「ああウィッチモン! アンタ本当によくやったよ! ったくどいつもこいつも心配かけさせて……!」
「ぎぃー! そうだ、誰かタオルぢょうだい! 二人が風邪ひいぢゃう!」
「すぐに聖具室から持って来よう。エンジェモンはペガスモンに伝達を!」
心地良い賑やかな喧騒の中。段々と意識が輪郭を取り戻し──蒼太と花那はハッとする。
視界の中に二人がいない。大切なパートナーがいない。
物質化したばかりの心臓が、どくんと大きく音を立てた。
「な、なあ! 二人は──」
「────おかえり」
──その声は、自分の目線よりもずっと下から聞こえてきた。
「花那、蒼太」
その声は──自分の目線より、ずっと後ろから聞こえてきた。
手を握る赤橙色。頬を撫でる白銀色。
あたたかくて懐かしい、パートナーの──
「────コロナモン!! ガルルモン!!」
「私たち……──また、二人に……会いに来たよ……!」
手を伸ばして、抱き寄せた。
その温もりを肌で感じながら。回路が繋がる痛みを慈しみながら。
蒼太と花那は、コロナモンとガルルモンに出会う。
◆ ◆ ◆
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