◆  ◆  ◆




 ──荒野を駆ける。

 大切な人達と共に、晴れ渡るデジタルワールドを駆け抜ける。

「揺れ、大丈夫?」

 ガルルモンが問うと、彼が引く幌馬車から「平気だよ」と声が聞こえた。振り向けば三人の──蒼太と花那と、そしてコロナモンの笑顔がある。
 それを見てガルルモンは、安心したように前を向いた。

 ──クッションが敷かれた床板には、ミネルヴァモンが眠っている。ホーリーエンジェモンのデータを分けてもらったが、未だ目覚める様子は無い。
 もう蒼太ひとりでも運べる程、彼女の身体は軽くなってしまっていた。コロナモンが時折、頬を撫でて──生きている事を確かめる。

「少し、暑いね」

 花那が幌から顔を覗かせた。
 照りつける眩しい日射に目を細める。──デジタルワールドも、本当なら夏だったのだろうか。

 広く、広く、続いていく赤土の荒野。雄大な景色の中に生命の気配は無い。
 まだ残る透明な雨の雫が、散らばる宝石のように光っていて綺麗だった。

 温く湿った風が、心地良く頬を撫でていく。

「……」

 毒が無くなった世界で、パートナーと旅をする────それは、蒼太と花那が夢にまで見た時間。ずっと、こうしたいと願っていた。

 旅とは言っても、放浪のそれではない。彼らの行き先は決まっている。
 だからこれは、そこに辿り着くまでの僅かな夢。嬉しさと物悲しさを含んだ、夢の旅だ。

 けれど──

「「……」」

 ──雨が上がったデジタルワールドには今、どれだけの命が生きているだろう。どれだけの命が消えていったのだろう。

 考えたくない、それでも考えなくてはいけない。幌の外にはそんな現実が広がっていた。
 透明な水溜まりの中、黒く染み付いた毒の跡が混ざっているのを──無視する事は出来なかった。

「……アンドロモンさんたち、大丈夫かなあ」

 蒼太がぽつりと呟く。
 彼らが今、この青空を眺めている事を心から願って。




「ガルルモン」

 荒野の先に大きな川を見つけた頃。
 コロナモンは馬車から出ると、ガルルモンの背に飛び移った。

「これを越えたら、もうすぐだ」
「……そうだね」

 ──やり残した事があった。

 それを遂げる為に、四人は都市を発ったのだ。仲間達に感謝を伝えて直ぐ、必ず戻るからと言い残して。

 メルクリモンならすぐに着いたのだろうが、究極体になるまでは力が戻らなかった。
 しかし幸い、各地に設置したワープポイントがまだ機能していた。おかげで目的地までの時間はかなり短縮できている。──天使達に任された浄化活動が、こんな所で実を結んだのは意外だった。

「……間に合いそう?」

 不安げに尋ねる花那に、コロナモンは「多分」と振り返る。

「予感ってわけじゃ、ないんだけど」

 そう言って指差した先──段々と幅を広げていく川の下流は穏やかだった。澄んだ川面が、風に波立ちながら輝いている。

 デジタルワールドを満たす水は、まだこんなにも美しい。
 だからきっと間に合うと、コロナモンとガルルモンは前を向いた。──川の先に広がる、海を目指して。



◆  ◆  ◆




 ──白い砂に飾られた海岸線。

 風が鳴る波打ち際に、多くの海洋性デジモン達が集まっている。

 彼らの中心にはネプトゥーンモンがいた。まるで、打ち上げられた魚の様に倒れていた。
 崩れた鱗鎧の深い青は砂と混ざり、シーグラスのように煌めく。周囲のデジモン達が、泣きながらそれをかき集めている。

 ──毒の雨が降り続けた中。彼は結界を張り巡らせ、毒から世界を護り続けた。
 それは一時的なものであったし、何より世界中全てに手が届いたわけではない。それでも──ネプトゥーンモンに課せられた代償は、大きかった。

 生命は維持しているが、もう自力では動けない。顔の向きを変えるだけで精一杯だ。
 海洋性デジモン達は懸命に自らのデータを捧げたり、力を合わせて彼を海へ連れて行こうとした。集めた鎧の欠片を、必死に彼へ戻そうとしていた。

「……無理しなくていい。それで皆が死んだら元も子もないんだ」
「ネプトゥーンモン様……。皆、貴方に救われました。貴方が護って下さったから……今、この命と世界がある」
「せめて、せめて貴方の海へ。海の底の神殿へ。ネプトゥーンモン様の安らげる場所まで──」
「……そのうち自分で戻るさ。それに──」

 ネプトゥーンモンは、遠く晴れ渡る空を見上げた。

「こうして世界を眺めるのも、悪くない」

 陽光に照らされた浜辺。輝く海面。
 毒で失った──いや、深海に籠り自ら遠ざけていた風景。目にしたのはいつぶりだろう。

 懐かしくて泣きそうになる。
 ──見せてあげたかった。もう遠く離れてしまった、大切な皆に。

「……! ネプトゥーンモン様、誰かこちらに……」

 同胞達がどよめく中、砂を踏む音が聞こえてくる。
 かつてのパートナーを思い出すような、小さな足が砂を踏む音だ。

 警戒する群れを牽制する。ネプトゥーンモンは静かに海を見つめながら、その「誰か」が来るのを待った。


「……ネプトゥーンモンさん!」


 覚えのある少年の声。
 ネプトゥーンモンは僅かに顔を振り向かせた。──そこにいたのは、深海神殿で出会った子供達。

 驚いた、と口を開く。

「まさか、君達が来るとは」

 わざわざこんな場所まで、遠かっただろうに。

「……友達はどうした?」

 ふと、二人しかいない事に疑問を抱いた。

「ここには……私たちだけ来ました」

 そう答えた少女の表情は、彼らの仲間も無事である事を物語っていた。どうやら杞憂だったらしい。
 ──この子供達は、ちゃんとリアルワールドに帰れそうだ。そう思うと、嬉しかった。

「見てくれ」

 ネプトゥーンモンにつられ、蒼太と花那は振り向く。

「空が青い。私の海と同じ色だ」

 視界が一面の青色に染まる。
 とても美しい、空を映す大海原。

「私の結界だけでは、時間の問題だった。きっと取り戻せなかった。
 だからこれは、君達のおかげだ。──と、思っているが」
「……俺たちだけの、力じゃないです」
「まあ、それはな」

 細かく言えばそうなのだろう。
 それでも、せっかくなのだから胸を張ればいいのに。

「良ければ聞かせてくれないか? 君達が、どんな戦いをしてきたのか」
「それは……もちろんです。でも、俺たちからじゃない方がいいかも……」
「?」

 ネプトゥーンモンは首を傾げる。
 蒼太が理由を言いあぐねていると、花那が突然「あ!」と声を上げた。
 
「ねえ、待っててネプトゥーンモンさん。すぐ戻るから!」

 そのまま砂浜を駆け戻っていく。
 ネプトゥーンモンはまた、何事かと驚いた。──けれど思わず笑みが溢れる。子供達が元気そうで、何よりだ。

「こっち! 早く早く!」

 少女の声より先、遠くからガタガタと音が聞こえてくる。……木製の車輪だろうか。砂にはまったのか、途中で止まった。
 それに気付いて少年も駆け出した。──視界から見えなくなる。それから何かを話す声が聞こえてきて、砂を踏む足音が入れ替わった。

 数は同じく二つ。──ああ、これは

「……やっぱり、君達か」

 程無くして──コロナモンとガルルモンが、ネプトゥーンモンの前に現れた。

「あの子達を見ていて、そうだろうとは思っていたが……無事で良かった」

 すると、二人は黙ってネプトゥーンモンの側に座った。……ネプトゥーンモンは不思議に思う。この子らはどうして、今にも泣き出しそうな顔をしているのだろう。

「──そうか、疲れたんだな。少し休むといい。……なあ、私の海は綺麗だろう?」

 コロナモンが小さく頷いた。ガルルモンは何かを堪えるように、じっと海を見つめている。

「──」

 ──穏やかな潮騒。湿った海風。
 気付けば自分達だけになっていた。海のデジモン達は幌馬車を見て、桴を作る事を思い付いたらしい。ネプトゥーンモンを運ぶ為にと散開し、海岸沿いの木を探しに向かっていた。

「「……」」

 デジモン達が木を伐る音がする。子供達と会話を交わす声が聞こえる。
 それでも、自分達の周りは静かだった。──そう感じた。

「……。……あの」

 コロナモンがようやく口を開く。

「ん?」
「……その傷……」

 声を詰まらせる彼に、ネプトゥーンモンは「気にしないでくれ」と手を伸ばそうとするが──腕に力が入らなかった。

「……年甲斐もなく無理をしたらこの様だ。だが……究極体というのは存外、しぶといものだな」

 冗談混じりに言ってみせるが、コロナモンとガルルモンは笑わなかった。いっそ笑い飛ばして欲しかったのだがと、ネプトゥーンモンは苦笑する。

「──……」

 此の場所に来ているのは、どうやら彼らだけらしい。

「……」


 ────“ ちゃんと伝えたかったの。お別れ。”

 海の底で言われた、「妹」の言葉を思い出す。
 何を期待したのだろう。自分が恥ずかしくて堪らなくなった。

 世界が元に戻っても、現実は変わらない。
 起きてしまった事実は変わりようがない。
 失ったものは、もう二度と帰ってこない。

 それを自覚して──ただただ、空しくなった。

「ああ。また……私だけ、生き残ってしまったなあ」

「────違うよ」

 その時。
 側にいた白銀の仔が、振り向いて。

「僕達がいるよ。──兄さん」

 もう二度と、呼ばれる筈のない言葉を口にした。

「…………今……、何て……」

 狼狽えるネプトゥーンモンに、赤橙の仔が小さな手でそっと触れる。白銀の仔と二人、データを施して彼の傷を癒す。
 かつて自分が、弟妹達にしていたのと同じように。

 懐かしくて遠い、あの日々のように。

「……──お前達は、──」

 あの子供達が戻ってくる。

 少年が背に担ぐ、ひどく見覚えのある誰かの姿。
 アクアブルーの三つ編みが、風に揺れて──


「遅くなってごめんね」
「ただいま」


 ────腕を伸ばした。
 入らない筈の力を、思い切り振り絞って。

 ────抱き寄せた。
 コロナモンを、ガルルモンを。
 必死に抱き留めて、必死に抱き締めて。もう二度と離すまいと誓うように。

 大きな声を上げて、大粒の涙を零して泣いた。







第三十七話  終





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