────全てを終えたその果てで。

 彼らはどんな明日を迎え、生きていくのだろう。











最終話

願いの果て
‐The End of Prayers‐







◆  ◆  ◆




 ────蒼太達の出発から一時間後。
 
「あ゛ー、体が重いー」

 ベッドに倒れこみながら、誠司はそんな脱力した声を吐き出した。

 声はコンクリートの壁を跳ね、広い地下室に反響する。数刻前までシェルターの役割を担っていた地下室であるが、今は即席の客間に変わっていた。これまで利用していた三階以上が毒で溶けた為だ。

 動く度に軋む音を立てる簡易ベッド。疲弊した彼にとっては、羽毛布団と変わらない。
 そんな誠司の隣で、ユキアグモンが「ぎぃ」と鳴いた。もう一歩も動けませんと言わんばかりに、硬いマットレスへ顔を埋めていた。

 ……とにかく、疲れた。
 こんなにごっそり体力を持っていかれる事など、そうそう無いだろう。できれば人生でこれっきりにしたいものだ。

「……あれ、チューモン。宮古さんは?」
「厨房だよ」

 ソファーの上から気怠げな声が返ってきた。

「レオモンの奴となんか作ってる」
「えー、いいな。オレもやりたい」

 そう言いつつ、ベッドの上でジタバタと動いてみるだけ。

「アンタは休んでなって。蒼太と花那の次にやばかったんだから」
「そこまでじゃないと思うけどなあ。オレなんかより、ユキアグモンとチューモンの方がずっと危なかったんでしょ?」

 自分と手鞠がいない間、二人は信じられない程の大怪我をしたらしい。それをベルゼブモンが助けたのだと聞いた時には驚いた。
 ただ、残念ながら完治には至っておらず──退化した今も生々しい傷が残っている。

 けれど傷の治療は追々。別に後回しでも支障は無いとの事。ウィッチモンが先に腕の治療を受けているが、彼女もある程度回復したら戻って来るようだ。

「二人とも平気? 怪我、痛くない?」
「ぎぃ。痛いけど、大丈夫」
「飯食って寝てりゃそのうち治るさ。ウチらよりもっと、治してやんなきゃいけない奴らがいるからね」

 チューモンの言葉はその通りで、現在都市には多数の負傷者がいる。
 シェルターで守りきれなかったデジモン達は毒に焼かれた。浴びた量によって軽症から重症まで様々──当然、命を落とした者も。

 故に、都市中の天使達が各地域へ飛び、治療優先度が高い者達の救命にあたっている。

「……」

 ユキアグモンは都市の様子が気に掛かるようだった。自分の暮らす街なのだから、無理もない。

「……ユキアグモン、行くかい?」
「行きたい、げど……天使様が、まだ外に出ちゃだめっで」
「まあ、無理して死なれてもね」
「……ぎー」
「少し休んだら、もう一回聞いてみようよ。……オレも手伝いたいから」

 寝転んだまま、誠司はユキアグモンを撫でる。寝かしつけるように、小さな背中を優しく叩いた。

「戦いは終ったけど、やることたくさんだ」
「……こわれぢゃっだ、街……直しで、また作るよ。みんなで……」
「ああそうさ。だからその為に今は休むんだよ。……ウチらは貴重な完全体だ。あの天使どもに、これからイヤって程こき使われるんだから」

 チューモンは悪い笑みを浮かべ、からかうように言った。ユキアグモンは少し安心したのか、それとも疲労が極度に達したのか、眠たそうに瞼を擦り始める。

「で、誠司達には炊き出しでもやってもらおうか」
「いいね! オレがんばるよ、皿洗い!」
「…………ぐー」
「……あ、ユキアグモン寝ちゃった。オレもちょっと寝ようかなあ。チューモン、ご飯の時間になったら起こしてよ」
「安心しな。二人の分は食べといてやるよ」

 チューモンはニヤニヤしながら寝相を変える。返事の変わりに、安心しきったような二つの寝息が聞こえてきた。

「……」

 チューモンも、目を閉じる。

 ──荒野の城から抜け出して、世界を侵す毒も消えて。
 後始末はさて置き、これで本当に自由になった。何に怯えて生きる事もない。

 だから────これからの日々に、思いを馳せてみる。
 さあ、どうやって暮らそうか。世界を救った恩もあるし、贅沢に暮らしたってバチは当たらない筈だ。そう思うとワクワクする。
 暖かな寝床に豪華な食事。痛い思いなんてしなくていい、そんな理想の日々が──きっと待っているのだろう。

 ──でも、その前に。
 あの子達の世界へ行きたい。デジタルワールドを旅したように、コロナモンとガルルモンとユキアグモン、今度はウィッチモンも一緒に──リアルワールドを旅できたら。

「……ああ、我ながらいい考えだ。アイツらが戻ってきたら、相談しよう……」

 眠気が襲う。微睡みの中、チューモンは穏やかに意識を落とした。



◆  ◆  ◆



 ────義体の製造から二時間後。
 
「痛みは?」
「お陰様で殆ど」

 大聖堂の祭室では、ウィッチモンがホーリーエンジェモンによる治療を受けていた。
 クレニアムモンに焼かれた両腕。大天使のデータを点滴し、彼の羽根で織った包帯を巻き付けている。──幸い、手首を動かせる程度には回復した。

「……すまない。指先を動かせるまでには至らなかったな」
「原因が原因デスもの。仕方ありまセン」
「不運な事だ。その場でなく、亜空間に居たにも関わらず」

 どうやらクレニアムモンに逆探知された際、電脳核に干渉されたらしい。腕のデータは書き換えられ、復元は困難だった。
 そうなると、通常の治療──他者のデータによる補填では一時的な処置にしかならない。他に手立ては無いか頭を抱えるホーリーエンジェモンに、ウィッチモンは「そういえば」と声を上げる。

 ひとつだけ、思い当たる節があった。

「……──以前マグナモンが、ベルゼブモンとの戦闘で負傷した仲間を治シテくれて」

 当時の仲間達の損傷は酷いものだった。マグナモンはそれを、自身のデータを使わずに治したのだ。
 ラタトスクという名を持つ特別なサーバー。あらゆるデジモンの種族データが、肉体の構成に至るまで記録されているのだという。

 先程イグドラシルの領域に接続した際、ウィッチモンはそれを発見していた。

「そこからワタクシの種族データを引っ張ってくれば、恐らく……補修できるのでショウが」
「騎士殿の権限を継いでいるなら可能なのでは?」
「接続する資格はある、というだけ。あの少女を経由しなければ深部には辿り着けまセン。
 ……正直それはしんどいので。凄く、凄く」

 カノンを媒介として利用する事自体、気が引ける。何より、それが彼女の負担となってはならないのだ。──少なくとも、自分の為には使えない。

「デスが、負傷した民の治療に……という事であれば。彼女に負荷がかからない程度なら……」
「……それはこの都市の事情だ。私の責任であり、天使達で解決すべき問題。ならば身を削るべきは我々である。
 それに君はロイヤルナイツではない。自身の修復だけならともかく、大勢の民にとなれば──過ぎたる行為として何かしら影響もあろう。それは避けたい」

 そうですか、とウィッチモンは頷いた。

「けれど何もしないと言うのも、決まりが悪いデスから」
「ならば明日以降に協力を要請する。今日は子供達と共に休みなさい」
「……ではお言葉に甘えて。治療、ありがとうございまシタ」

 一礼をして立ち上がる。しかし踵を返した所で、ホーリーエンジェモンに呼び止められた。

「ひとつ、言伝が」
「ワタクシに?」
「世界樹への接続の件だ。……我々の事ではないのだが……」

 彼はらしくなく、辿々しい物言いで──

「……あの少女が……塔の後処理を頼みたいと……」
「え?」

 変わり果てた天の塔。
 取り敢えず、管制室だけ復元したいのだとか。

「ん?」
「……彼女が言うには、『その部屋と座だけあれば、あとはイグドラシルが何とかするから 』だ、そうだ……」
「────」

 ウィッチモンはみるみる青ざめて、思わず天を仰ぐ。「大丈夫か」と心配するホーリーエンジェモンに、消え入りそうな声で答えた。

「……。……胃薬、用意して下さる?」



◆  ◆  ◆




 ──水底から、水面に揺らぐ天井を見上げる。

 ゆらゆらと、きらきらと、揺蕩う光。
 見つめて、見惚れて、息が続かなくなるまでそうしていた。

 やがて胸が苦しくなって──カノンは水の中から身を起こす。

 そこは大理石の洗礼室。
 洗礼盤を満たす聖水が、少女の身体を懸命に浄めていた。

 身体が霧散しない為の対処療法──とは言え、付け焼き刃だ。そもそも肉体の粒子化を完全に防げるなら、過去の子供達が死ぬ事もなかっただろう。

 現実、天使達に出来るのはここまでだった。
 この沐浴も果たしてどれだけ意味があるのか。最初からあまり期待していなかったので、カノン自身は気にしていない。お風呂には入りたかったから丁度良かった。

 洗礼盤を囲う亜麻布の向こうでは、ベルゼブモンが背を向けて座っている。
 何も言わず、ただ少女が出てくるのを待っていた。

「──」

 男は相変わらず寡黙だった。
 かつて毒に焼かれた脳は、喉は、もう殆ど治っているだろうに。──やはり元々、性格は静かな方なのだろう。

「カノン」

 ふと、名前を呼ばれた。
 その度に胸の中で、あたたかな感情が火を灯す。

「どうしたの、ベルゼブモン」
「…………──お前は、これで良かったのか」

 男の問いに、カノンは少しだけ間を置いて──「どうして?」と聞き返した。

「あれを使えば、治ったかもしれない」

 義体の事を言っているのだろう。人形を人間にするなんて、彼らもとんでもない賭けに出たものだ。
 あの赤い魔女がマグナモンの記録と繋がった時、イグドラシルが何を見せて、何を言ったのかは分からない。──ともあれ、あの二人が助かったのは本当に良かったと思う。

「確かに綺麗な人形(いれもの)だったわ。──そのうち、あの子に作ってもらおうかしら」

 少しばかり、冗談気味に。

「その時はあなたの分も」
「……俺には、別に」
「あったら便利でしょう? きっと、色々な所に行けるようになるわ」

 そんなカノンの言葉からは──自身が元の世界へ戻る意志を一切、感じなかった。

「……」

 静寂が落ちる。

 水が跳ねる音がした。
 水が滴る音がした。
 ベルゼブモンは押し黙って、ただ、それを聞いていた。

「ベルゼブモン」

 カーテンが揺れる。
 亜麻布越しの体温を背中に感じて──けれど男は、振り向かずに目を閉じた。

「私は、これで良かったのよ」

 少女は言った。
 男は、答えなかった。





◆  ◆  ◆



 洗礼室の扉の前で、手鞠は一人まごついていた。
 レオモンと作ったお菓子を忍ばせ、カノンに会いに来たのだが──まだ“治療中”だろうか。中に入る勇気が出ない。

 と、その時。内側からガチャリと音が聞こえた。
 手鞠は飛ぶように扉から離れる。──中から出てきたベルゼブモンが、訝しげに手鞠を見下ろした。

「……」
「あ、あの……」
「……」
「……お、お見舞いに……」

 ベルゼブモンはきっと、自分の気配に気付いて出てきたのだろう。なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。
 気まずい沈黙が続く。すると男は、室内に顔を向けて──

「……先に戻る」

 そう言うと、行ってしまった。

 手鞠はポカンと口を開け、男の背中を見送る。──気を取り直して、けれど遠慮がちに洗礼室を覗いた。
 少しだけ広い浴室を思わせる空間。“湯船”を囲うカーテンは開けられていて、セーラー服の少女が濡れた髪を拭っている。

 その姿に思わず見惚れていると、少女から「どうぞ」と声をかけられた。

「でも、髪がまだ……」
「乾かしてたら時間かかっちゃうわ。ここ、ドライヤー付いてないでしょう?」

 ドライヤーなんて言葉をカノンは久しぶりに発したし、手鞠も久しぶりに聞いた。
 この都市には電化製品が照明しか無いのだ。……最初の夜は花那と共々驚いて、コロナモンに熱い風を吹いてもらったっけ。

 遠慮がちにお邪魔して、手鞠は椅子らしき台座に座る。さっきまでベルゼブモンがここにいたのか、まだ温もりが残っていた。

「お見舞いに来てくれたの?」
「えっ、」
「さっき、そう言ったわ」
「……は、はい! でも祭室に行ったらいなくて、ホーリーエンジェモンさんがこっちだって……」
「そうなの。あの場所だと、出来ることが無かったんですって」
「────」

 ──それはつまり、天使達には成す術がなかったという事だ。……何と言うべきなのか、手鞠は言葉をすぐに見つけられなかった。

 だが、意を決したように顔を上げる。忍ばせていた焼き菓子を取り出して、カノンに差し出した。

「? クッキー?」
「わた……いえ、レオモンさんが焼いてくれて。……カノンさんの分も」

 すると、カノンは嬉しそうにクッキーを受け取った。年相応の少女の表情で「食べてもいい?」と聞く。──手鞠もなんだか嬉しくなって、笑顔で何度も頷いた。

「ありがとう」

 一口齧れば広がっていく、砂糖と小麦粉の味。人間の味覚に合わせて作られた甘さが美味しい。こんなものを食べたのは、いつ振りだろう。

「お、おいしい、ですか……?」
「……ええ、すごく」
「! よかった……! その、レオモンさんも喜びます!」
「何枚かは取っておくわね。ベルゼブモンにも食べさせてあげたいの」
「じゃあ、もっと焼きます! ……良かったら後で、カノンさんも一緒に……」

 一緒にお菓子を焼きませんか。
 皆でたくさん話をして。それで一緒に、──元の世界へ。

 そう、言いたかった。
 でも、言えなかった。

「……。……」
「……──手鞠さん」

 突然名を呼ばれ、手鞠は目を丸くさせる。カノンは少し不安げに「名前、あってた?」と続けた。

「私を見つけてくれた花のデジモン……彼女の中にいたの、あなたでしょう」

 あの時、見つけてくれたから。助けに来たと言ってくれたから。ここにベルゼブモンがいると教えてくれたから。

 だからあの時、頑張れたのだ。

「貴女達のおかげよ。本当に、ありがとう」
「……わたしは……。……──もっと早く、カノンさんのこと……見つけたかったです。……それでも間に合ったか、わからないけど……」

 口ごもりながら、手鞠は懸命に言葉を繋ぐ。

「……あの、……どうして……」
「……」
「どうして、花那ちゃんたちのと一緒に……カノンさんの義体、作らなかったんですか?」

 もしかしたら、もしかしたら。
 同じようにやれば、帰れるようになっていたんじゃないか。そう思わずにはいられないのだ。

 カノンは数秒、手鞠を見つめ──それから、天井に飾られたモザイク画を仰ぐ。

「……理由なんていっぱいあるわ。私のは別に、急いで作る必要も無いのだし。
 それに────もしまた『あの子』が同じ事になったら、傍に行ってあげないと」
「……それって、イグドラシルの……」
「私やあなた達みたいに、人間が攫われるなんて事は……もう絶対にあっちゃいけないから」

 ひとつは、そんな理由。

「ベルゼブモンには内緒にしてね。聞いたら怒りそうだもの」

 そう、小さく微笑んだ。
 手鞠は胸が苦しくなる。

「だからって、そんな……ひとりだけ犠牲みたいな事……!」
「いいえ。もうとっくに、たくさんの人が犠牲になってるわ」

 最初に降りた廃墟の街で、命を落としたあの子のように。

「それにね、もっと大事な理由があるの。……私、そんな大層な人間じゃない。私がそうしたいから、此処に残るって決めたのよ」
「……。……じゃあ、本当に……ここでお別れなんですか?」
「そうね。きっと」
「……もっといっぱい、お話……聞きたかったのに」
「……例えば?」
「……。……受験の、こととか……来年、六年生なんです」

 手鞠は目を伏せながら、カノンのセーラー服を見る。
 それに気付いて──「ああ」と、カノンは納得した。

「受けるの?」
「……今日、決めました」
「ごめんなさい。私、ずっと内部進学だったから……受験には詳しくないの」
「そ、そうなんですね。……その、じゃあ……女子校でミッション系って……どんな感じなんですか?」
「……特別、変わった事なんて無いわ。きっと普通の学校よ」

 ────懐かしそうに目を細める。

 春を彩る桜色。新学期のクラス替えにはしゃぐ同級生達。
 夏のプールの後。温い風が乗せていく、ほのかな塩素の香りが好きだった。
 秋を彩る金色。体育祭や文化祭の準備に勤しむ同級生達。
 冬の雪の日。教室の窓から覗く校庭が、白んでいくのを見るのが好きだった。

 そんな、どこにでもある学生の風景。
 同じような日を毎年繰り返す、ありふれた普通の日常。

「──でも私、そんな『普通』が好きだった。普通だから大事で、安心できた」

 彼女の言葉に、手鞠は顔を上げた。

「……大事だったのに?」
「ええ。それでも」

 カノンは胸のスカーフに触れる。
 制服本来のものではない、少しだけ大きな赤いスカーフに。

「……私は、ベルゼブモンと──……」

 途中で言い澱み、「ほら、自分勝手な理由でしょう?」と誤魔化した。

「だからあなたは気にしないで」
「……」

 ──嘘や建前では、ないのだろう。
 自分だって、出来ることならパートナー達と一緒にいたい。帰りたい思いと、彼らと過ごしたい思いが錯綜している。

 だが、それは義体を作っても同じ事の筈。残るなら、むしろそうすべきだろうに。
 なのに彼女は選ばない。それを選んでも、きっと意味がないから。

「────カノンさん、……もしかして……」

 彼女は。

 帰らないし、帰れないのだ。
 残りたいし、残るしかない。

 いつか、「あの世界へ帰りたい」と願ったとしても。
 もう、あの世界で生きていく事ができないのだろう。

「泣かないで」

 穏やかな声。美しい琥珀の瞳は、とうに全てを受け入れていた。

「……すみません。……っ、ごめんなさい……」
「謝らないで。優しいのね」

 カノンは手鞠の頭を撫でる。そのまま胸に抱き寄せて、「ありがとう」と言った。



◆  ◆  ◆





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