◆  ◆  ◆



 ────荒野を往く。

 がたん、ごとん。
 小さな馬車を引いて、二匹と二人。

「よかったね」

 蒼太は言う。
 垣間見たオリンポスの記憶の中、ひとり世界に残されたネプトゥーンモン。──彼が二人と再会できた事が、嬉しくて。

「でもいいの? ネプトゥーンモンさん、もっと一緒にいて欲しそうだったよ」

 花那は言う。
 二人が都市に戻ると聞いて、ネプトゥーンモンは不安げだった。過去の件を思えば、そうなるのも無理はない。

「兄さんは寂しがり屋だからなあ」

 コロナモンが笑った。

「それに大丈夫。もう、ネプトゥーンモンはひとりじゃないよ」

 馬車の床に敷き詰められたクッション。──その上には誰もいない。コロナモンとガルルモンは、連れて行った妹を兄のもとへ託したのだ。
 今頃は海底神殿で眠っている事だろう。安らかに、いつか目覚めるその日まで。

「本当は僕らにも神殿があったんだ。もう跡も残ってないだろうけど……」
「私、見てみたかったなあ。オリンポスの皆の神殿……。二人の記憶、すごい速く流れちゃったから、ちゃんと見れなかったんだ」
「しっかり見られたら見られたで、ちょっと恥ずかしいよ。──ああでも、俺とディアナの神殿は見せてあげたかった。東の空と西の空、対になって浮かんでて」

 それなりに綺麗だったんだ。それぞれに個性があったんだ。
 懐かしそうにコロナモンは語った。もう、見ることの叶わない景色を浮かべながら。

 新しく作らないの? と蒼太が問う。毒に脅かされる事は無くなるのだから、どんな場所に再建したって良いだろうに。
 コロナモンは少しだけ考える素振りをして、「しばらくはいいかな」と苦笑した。神殿を築くより、領地を構えるより、やらなくてはいけない事がたくさんある。

「……今朝の雨で世界中が被害に遭った。俺達は──この時代に生き残った究極体として、やれる事をやっていくよ」

 毒で溶けた世界に、復興と再生を。
 戦いはまだ終わらない。血と涙は流れなくとも。

 ──けれど、それが終ったら。

「僕は思い切り、色んな場所を駆け巡りたいな。僕らのデジタルワールドはきっと、素敵な世界に生まれ変わるから」

 毒を浄化する旅でもなく、記憶を取り戻す旅でもなく────ひたすらに、自由な旅を。

 素敵だね、と。花那が笑った。
 楽しみだね、と蒼太が笑った。

「でも、メルクリモンだとあっという間に走り終っちゃうよな。せっかくだしガルルモンのままで、……コロナモンと一緒に」

 蒼太はそこに、自分達の名前を入れなかった。

「……」

 本当は一緒に行きたかった。一緒に旅をしたかった。
 毒の無い世界、本当のデジタルワールドを。

 どんな景色が広がっているのだろう。
 どんな出会いが待っているのだろう。
 考えるだけで胸が踊る。あの廃ビルで、まだ見ぬデジタルワールドの話を聞いた時と同じように。

 ──それでも、言わなかったのだ。

「……」

 ガルルモンはゆっくりとスピードを落として、馬車を止めた。

 三人の体が大きく揺れる。
 静かになった幌の中、花那がコロナモンを抱きしめた。コロナモンは黙ったまま、少女の頭を優しく撫でる。

「……──俺達の記憶を見て、君達は……もう、知っているかもしれないけど」

 馬車の外で、ガルルモンは俯いていた。項垂れた背を向けたまま、振り向くことはしなかった。

「それでも二人に、伝えなくちゃいけない事があるんだ」



◆  ◆  ◆




 デジタルワールドにとって、人間は異物だ。
 リアルワールドにとって、デジモンは異物だ。

 リアライズしたデジモンは、何の対処も無しに生存できない。ゲート越えの負荷で、数日と持たず散っていく。
 デジタライズした人間は、何の対処も無しに滞在してはいけない。肉体が電子化し、一年と経たず散っていく。

 生きる世界が異なるとは、そういう事なのだ。

「──だから、」

 生きる為に。
 生かす為に。

「皆、家に帰らないと」

 想うからこそ。
 コロナモンは、その言葉を口にする。

「……──ねえ。私たちのこと、最後まで見送ってね」

 コロナモンの話は、やっぱり少しだけ知っていた。だから察していたし、自分達に起きた事を考えれば理解もできた。

 それに、何より。
 廃ビルで過ごしたあの日々から、変わらない二人の思いを──分かっているから。

「俺たち、本当に大事にされてきたよなあ」

 ああ、本当に。
 いつも守ろうとしてくれて。
 たくさん守ってきてくれて。
 一緒に世界を生き抜いて。

 本当は────ずっと、ずっと。側にいて欲しかったけれど。

「ありがとう。俺たちと、出会ってくれて」


 長い旅が、もうすぐ終わる。




◆  ◆  ◆




 ──藍色が空に滲みだす頃、蒼太と花那は宿舎棟へと戻ってきた。

 静まり返ったエントランスには誰の気配も無く、蝶番の擦れる音だけが反響する。
 友人達がいるなら、もう少し声が聞こえてきてもいいだろうに。二人はキョトンと顔を見合わせた。

 友の名を呼びながら階段を上がる。窓枠には黒い染みが生々しく付着していた。そういえば「使えなくなった部屋がある」とペガスモンが言っていた気がするが──いつもの場所にはいないのだろうか?

「──あ、ベルゼブモンだ」

 その時、二階の廊下で見つけた大きな影。
 蒼太が声をかけると、男はゆっくりと振り向いた。

「なあ、皆がどこにいるか知ってる?」

 少年の顔を見下ろす。ベルゼブモンは数秒だけ沈黙し──

「……上と下と、食堂だ。デジモンはいない」

 それぞれに誰がいるかまでは答えなかった。自分達の個別名まで認識できていないのだろう。

「わかった。ありがとな!」
「ねえ、カノンさんあれからどう? 大丈夫?」
「……。……今は寝ている。……今度は、大丈夫だろう」

 そう、廊下の奥を一瞥する。
 今度は──という言葉が気になったが、花那は「ゆっくり休まなきゃね」と言って微笑んだ。

「ベルゼブモン、カノンさんの側にいるでしょ? ご飯の時間になったら呼びに来てあげる!」
「……」

 男は何も言わなかった。花那と蒼太も、それ以上は特に聞かず去ろうとした。
 あまり引き留めるのも良くないだろうと、パートナーの側に少しでも長く居て欲しいと思ったからだ。

 すると、

「……──俺は」

 珍しく、男の方から話を続けた。

「喰うものがあれば、何処だろうが生きられる」

 突然何のことだろう。首を傾げる子供達に構わず、男は「だが」と、

「……カノンが生きるには……こういう場所の方が、良いんだろうか」

 柔らかなベッドの中、穏やかに眠る少女を見て。
 或いは、いつか廃墟の城の客間。隣で眠る少女を思い出して。

 荒野よりも、岩場よりも、誰もいない廃屋よりも。

 ──それはそうだろう、と二人は思う。口には敢えて出さなかった。
 カノンがこれからどうするのかも──どうなるのかも聞かなかった。

「…………大人なら、歩いて旅する人とかもいるけど……」

 それでも、子供なりに思考を巡らせる。

「とりあえず、休める場所はあった方がいいかもな。椅子でも、乗り物でもさ」
「私たちの時はガルルモンが馬車、引いてくれたもんね」
「ベルゼブモンが引いたら人力車みたいになっちゃうなあ。……キャンピングカーは? 寝れるし便利そうだし」
「それ、デジタルワールドにあるの?」

「…………」

 そんな二人を眺めながら、ベルゼブモンは小さく「そうか」と呟く。──そのまま背を向けた。答えに満足したのだろうか。

「……本当に大切なんだね、カノンさんのこと」

 掛けられた花那の言葉に、男は踏み出した足を止める。

「私たちもね、ガルルモンとコロナモン……皆に大事にしてもらったの。皆と一緒だったから、何処に行くのも大丈夫だったよ」

 男は答えなかった。
 表情の読めない大きな背中を、子供達はじっと見上げていた。

 そして、

「……──世話になった」

 低く、小さな声で。

「あいつらにも、伝えておけ」

 それだけ告げると、男は少女のもとへ戻って行った。




◆  ◆  ◆



「手鞠ちゃんなら外の空気、吸いに行ったよ。海棠くんは探検するって」

 厨房にて。
 柚子はジャガイモの皮を剥きながらそう言った。レオモンも二人の帰還を喜びながら、そうそうと首を縦に振る。

「それより、二人が元気そうで良かったよ。あれからすぐ出かけちゃって、皆心配してたんだからね?」
「そ、それは……」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていーの。無事ならそれで良いんだから」

 生きてさえいてくれれば、それで。
 柚子の言葉は、少しだけ二人の胸に刺さった。

「迎えに行ってあげて。まだご飯まで時間あるけどね」
「わかりました。じゃあ俺、誠司のとこ行ってくるから。花那は宮古よろしく」
「上の階は毒で焼かれてしまったが、床の抜け落ちは心配ないだろう。それでも足元には気を付けてくれ」

 鍋をぐるぐるかき混ぜるレオモンに、蒼太と花那は「はあい」と返事をして去っていく。
 その背中を見つめながら──

「──元気が無かったな。あの子達も、君と同じで」

 呟いて、目線を隣の少女に向ける。

「君も、無理して笑わなくていいんだぞ」
「……そういうわけにもいかないよ」

 柚子は俯いたまま、けれど手は止めなかった。

「ウィッチモンにはバレちゃうんだけどね。こういうの」
「……だろうな。私にさえバレてるんだから」
「もっと上手に隠せたらいいのになー」

 乾いた笑いを溢す。

「……。……こうやって全部が終わって、私……きっと皆も、『終わった! 万歳!』ってなると思ってたんだけど。何でかなあ」
「……──救われた身には想像する事しかできないが……戦ったからこそ、世界を見てきたからこそ……君達には得たものだけでなく、失った何かもあったんだろう。思うところだって沢山」
「……」
「君達が負ったものは、直ぐに癒えるものではないよ。どこかで吐き出した方がいい。
 ……仲間やパートナーの前では難しくても、今は私しかいない。きっとこれから、たくさんの我慢をしなければいけないなら──せめて」

 そう言ってレオモンは、柚子から顔を背けた。
 ──戦い抜いた子供達が負った心の傷を、理解してはあげられない。自分に出来ることがあると思うのさえ、傲慢だろう。

 ただ──それでも、少しくらいは。

「私には、野菜を切る音しか聞こえないからな」

 この子供達の、力になりたいと思うのだ。

「──。──っ……」

 しゃくり上げる声が聞こえてくる。
 レオモンは何も訊かず、何も言わず、ただ鍋の料理をかき回し続けた。



◆  ◆  ◆



「──見つけた、手鞠!」

 棟の裏口に手鞠を見つける。
 手鞠はひとり、ぽつんと段差に座り込んでいた。花那の声に顔を上げると、嬉しそうに「花那ちゃん、おかえり」と微笑む。

「そんな所でどうしたの?」
「な、なんでもない。少し考え事してて……。……そうだ、あのね。レオモンさんとクッキー焼いたんだ! これ花那ちゃんの!」
「ほんと!? ありが──……」

 言いかけて、花那は友人の目が腫れている事に気付く。
 きっと先程まで泣いていたのだ。どうしてかは、わからないけれど。

「──手鞠」

 花那はクッキーを受け取ると、そのまま手鞠を抱き寄せた。

「……花那ちゃん、……わたし」
「……うん」
「わたしたち、家に帰れるんだよね」
「────、……うん」
「その時は……花那ちゃんと矢車くんも一緒だよね? また一緒に学校、行けるんだよね……?」
「……私も蒼太も一緒だよ。……私たちは……もう、帰らないと……」

 荒野での会話を思い出し、声を詰まらせる。けれど手鞠は──彼女が泣いていた理由は、それとは少し違う様子で、

「何かあった?」

 そう問うと、手鞠は小さく頷いた。
 それから──ひとりでは抱えきれなかった、カノンとのやり取りを打ち明ける。

 花那はそれを静かに聞いた。「──ああ、やっぱりそうなんだ」と思いながら、聞いていた。
  
 これまで続いた心身の疲労。家に帰れる安心感と、共に帰れない仲間達への罪悪感。
 全部がぐちゃぐちゃに入り混ざって、目の前の友人は泣いていたのだろう。

「────手鞠。それでも私たちは」

 天の座で、アポロモンがイグトラシルへ送った言葉を思い出す。

「私たちはこれからも、私たちのリアルワールドを生きていくんだよ」

 戻らなかった仲間の分まで。
 帰れなかった子供達の分まで。

 自分達は、こうして生き残ったのだから。



◆  ◆  ◆



 三階の廊下に誠司を見つけた。
 らしくなくボーッとしていて、溶け落ちた天井から空を眺めている。

 蒼太が名前を呼ぶと、誠司は振り向く。いつもの笑顔で「おかえり」と言うが、どこか辛そうだ。

「そーちゃんたちタフだなあ。オレなんて昼寝が爆睡になっちゃってたのに」
「そんなことないよ。ほとんど座ってたし。……腕どう? まだ痺れる?」
「寝たらだいぶ良くなった!」
「ならよかった。……ユキアグモンは?」
「なんかデジモンだけ集合だって、だいぜーどー行っちゃったぜ。そーちゃんたちはどこ行ってたの?」
「……ちょっと、海まで。ネプトゥーンモンさんに会ってきたんだ。元気そうだったよ」

 隠す理由もないので、ちゃんと答える。誠司は小さく「そっか」とだけ言って、理由は聞いてこなかった。

「……みちるさんは?」
「ネプトゥーンモンさんが看病してくれるって」
「ここじゃ、しばらくゴタゴタしそうだもんな。究極体の傍なら安心だし……」

 声は消え入るように途切れ、続かない。
 それから僅かな沈黙の後。誠司は空を見上げたまま──

「──そーちゃん。おにーさんは、やっぱり帰って来ないんだね」

 蒼太は俯いた。否定も肯定も出来ず、何も言えなかった。

「……あの人たちのこと、いつから知ってた?」
「……今日だよ。……コロナモンとガルルモンの記憶に、二人もいたから。
 隠してた訳じゃないんだ。……でも、ごめん」
「わかってるよ。そーちゃんも村崎も、色々あるんだろうし」

 誠司は頬杖をつく。別に、憤りや疎外感を抱いている訳ではないのだ。

「……。……おにーさんの最期、見てないんだ。……ひとりになりたいって言ったから……その前にオレたち」
「……うん」
「おにーさんも、おねーさんも……ちゃんと会って話したの、ちょっとだけだったけどさ。でも……──」

 凄く、寂しいよ。

 誠司はスンと鼻を鳴らす。少しだけ流れた涙を、乱暴に腕で拭った。蒼太はそれを横目に見つめ、彼と同じように空を見上げる。──再び、沈黙が流れた。

「……本当は待ってる間、外で皆の手伝いしたかったんだ。でもエンジェモンさんが、瓦礫が危ないから今日は出ちゃだめだって。
 でもさ、オレ……ユキアグモンと一緒に、この街を直したいんだよ」

 誰かの為に、自分の為に。まだ出来ることがある筈だ。
 がむしゃらに手伝って、皆が元の暮らしに戻れるよう頑張って、それが落ち着いたらがむしゃらに遊んで────そうすれば、この物悲しい気持ちも、いつか消えていくだろうから。

 乗り越えていきたいのだと言う、少年の言葉は未来への希望に満ちていた。蒼太はまた、胸がぎゅっと苦しくなる。

「……──その、ことなんだけど……誠司」
「?」
「コロナモンたちと話したんだ。それで……俺たちの家族が、ずっと心配してるだろうって。……だから」
「……そっか、……そうだよな。そろそろ帰らなきゃだよな」

 あっさりと誠司が受け入れたので、蒼太は思わず目を丸くさせた。

「誠司……」
「なあ、次はいつ来ようか?」
「……え」
「すぐ来れなくても、祝日とか冬休みとか……」

「────それは」

 分からない。
 自分達が帰った後、次にゲートが開くのは、いつだろう。

「……そうだね。……冬にでも、また来れたらいいんだけど」

 蒼太は寂しげに笑った。叶わないだろう願いを胸に、夜に染まる空を見上げながら。




◆  ◆  ◆





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