◆  ◆  ◆





 ────懐かしい、薄緑色の光の道を往く。

 次に来られるのはいつだろう、なんて思いながら、何度か後ろを振り返る。
 来た道は既に消えているのか、光で埋もれているのか、とにかくもう見えなくなっていた。

 先頭で柚子が急ぐよう促す。彼女の背中が、何だかとても頼もしく見える。
 それからしばらくして、道の終わりが見えてきた。


 選ばれし子供たちは、リアルワールドへと帰還する。





◆  ◆  ◆



 ──最初に感じたのは、夏の匂い。

 それから、けたたましい蝉の合唱。
 肌に粘り付くような蒸し暑さ。

 ゲートの先に繋がっていたのは、とあるアパートの一室。
 古臭くて薄暗く、五人も居るには少し狭い。

 蒼太と花那がこの部屋に来るのは、デジタルワールドへ発った日の朝以来だ。
 少し懐かしそうに眺めて──この部屋にいた筈の三人を思い出す二人と、初めて見る部屋に戸惑いながら、そういえば土足のままだと慌てる二人。
 そんな彼らを他所に、柚子は持ち込んでいた私物をてきぱきと片付け始める。別にもう、靴を履いたままでも構わなかった。

「……柚子さん、ずっとここにいたんですか?」

 そう尋ねる手鞠に、柚子は苦笑しながら「思ったより狭いでしょ?」

「それでも皆よりは全然、気楽だったけどね。たまに買い出しに行くこともあったし。ワトソンさんと……」

 そこまで言って、口を噤む。
 だが──唇を噛み締め、顔を上げた。

「ねえ、帰りにコンビニ寄ろう。アイス買おうよ」
「え! 行く行く行きます!」
「で、でも、わたしお金が……」
「大丈夫大丈夫。お小遣いもらってるからねー」

 誰から、とは言わなかった。

 数分で片付けを終え、最後に指差し確認でチェック。ここで忘れ物なんてしたら後で厄介だ。
 “元住人”の私物はそのままにするよう言われているが、冷蔵庫のゼリー達だけは持って帰ることにする。

「ごめん、お待たせ」

 狭い部屋だが、玄関まで道案内。ドアノブに手を掛けたところで、

「矢車くん、村崎さん」

 立ち止まったまま、部屋を見つめる二人を呼んだ。

「帰ろう」




 外に出ると、そこには紛れもなく、自分達の暮らす世界が広がっていた。

 建付けの悪い扉を閉めて、日陰の廊下を進んで、錆びた階段を下りていく。
 焼き付くような日差しが彼らを照らした。眩しさに、誰もが思わず目を細めた。

 ジリジリと熱を反射するアスファルト。一歩踏み出すだけで、靴の裏が熱く感じる。

「──あ、人だ」

 通行人を見つけて、誠司がそんな声を上げた。

「こっちは全然、平和だなー」



◆  ◆  ◆



 懐かしいコンビニの入店音。
 懐かしい、店内の有線放送。
 肌寒い程の冷房も、何もかも。よく知っている筈なのに、何故だか非現実的な感覚を抱く。

 それでも久しぶりに食べたアイスは美味しくて、思わず泣いてしまいそうになった。



 ──そんな寄り道の後、子供達は小学校に辿り着く。

 校門は閉まっていた。今日は休日なのか、それともオーロラ事件の影響で休校になっているのか、とにかく人の気配は感じられない。
 とは言え、職員室まで行けば教師が一人くらい居るのかもしれないが──面倒事になりそうなので、誰も行こうとは言わなかった。

「……手鞠ちゃんたちが攫われて……私、大人たちに色々聞かれたから話したんだけどさ。デジモンのことなんて、誰も信じてくれる訳なくて」

 柚子は図書室の窓を見上げる。ブギーモンに壊された硝子は、すっかり新しいものに換わっていた。

「こいつはショックでおかしくなったんだーってだけ。あの日、矢車くんとコロナモンが学校に来てなかったら……私ここにいなかったんだろうなあ」
「……俺たちの一人でもいなかったら、きっと皆、帰って来られてないですよ」
「まー、確かにね」

 以前よりは自信をもって、そう言える。

「……あ、そうだ。ねえ私、手鞠ちゃんの連絡先しか知らないんだけど」
「そっか。交換しておいた方がいいですもんね。……えーっと、俺と誠司のを花那に送って」
「で、それを私が手鞠に送って」
「わたしが柚子さんに送れば大丈夫ですね。帰ったらケータイ充電しないと……」
「色々バタバタしそうだし、蒼太。夜か明日に連絡ちょーだい」

 子供達は子供達同士、これからの事を約束し合って。
 あまり長居するわけにもいかないから、程良い所で各自、解散する。

「じゃあ、また学校で」

 まるで、いつも通りの下校風景のようだった。



◆  ◆  ◆



 皆とは通学路が異なる為、柚子は一人、久々の帰路に着いていた。

 高く高く、空を昇る入道雲。
 じっと見上げる。まだ感覚はぼんやりしていて、帰って来た実感が湧かない。……また明日にでも、あの狭いアパートから世界を見守るような気がして。

 もし、いつか再びゲートが開くなら。
 この街で、この場所で。その時きっと、私達はまた出会えるだろうか。

「──でも、」

 もう、この街に「座標」はいない。
 ウィッチモンが、この場所を記録してくれている事を願うばかりだ。

 そう思って────ふと。

「……」

 ──みちる達の役割が座標であったなら。ただ「在る」だけで良かった存在なら。
 彼女達の知らぬ間に、一体どれだけのゲートが開かれていたのだろう。

 “初代”の選ばれし子供達から、自分達の間にも、きっと。
 ニュースにさえならなかった、行方不明の子供達がいたかもしれない。

 ……連れて行ったのがマグナモンならいいのだが。
 彼ならきっと同じ轍は踏まないから──回路を奪った後で、こっそり帰してくれていただろう。

 だが────もし、別のデジモンが、

「……。……」

 柚子は考えるのを止めた。
 あくまで想像でしかない。既に起きた現実は変わらない。

 眼鏡を外して、汗なのか涙なのか、分からない雫を腕で拭う。
 そのまま洋服の裾でレンズを拭いて、掛け直した。視界には相変わらず、清々しい夏の空が広がっている。

「……うん。取り敢えず、事故とかには気を付けよう」

 せっかく生き残ったのだ。
 大切に、生きていこう。

 真っ直ぐに前を向いて、家路を進む。
 アスファルトに立ち上る陽炎が、揺れながら柚子を包み込んだ。



◆  ◆  ◆



「お母さんとお父さん、怒るかなあ」

 ようやくの帰り道なのに、手鞠はそんな心配ばかり。
 彼女の親が、やや過保護気味なのは花那も知っていた。別に理不尽さ等は無いらしいので、きっとただ心配性なのだと思う。
 自分の親は過保護とまではいかないが──それでもたくさん心配をかけただろう。一体どんな顔で迎えられるのか、正直不安なところではあった。

「そしたらその時は、私も一緒に怒られてあげるね。『どこ行ってたの!』『ごめんなさーい!』って」

 なんて、冗談交じりに言ってみる。

「いっそ五人全員で怒られよっか?」
「そ、それは悪いよ……。……でも、ちょっと心強いかも」
「でしょ? じゃあ怒られる時は集合で! なんてね。……あ、でも手鞠、もしかして塾とかやばかったりする?」
「こっちだと、一週間くらいしか経ってないって聞いたから……多分、平気だと思う」
「すごーい! 勉強も問題ないなら尚更だよ! 怒られたりなんかしないって」

 花那はそう励まして、手鞠の肩を軽く叩いた。
 ──その優しい力強さに、手鞠はハッと顔を上げ、

「……花那ちゃん。……ありがとう。今の、すごく元気出た」

 首から提げたペンダントに触れて笑う。
 友達の笑顔に、花那もなんだか嬉しくなった。

 そうして肩を並べる帰り道。青い風が、二人の少女の背中を押す。



◆  ◆  ◆



「あっちーなー、もー」

 どこか不満げな誠司の声は、悉く蝉の合唱に遮られていた。

「さっきアイス食べたじゃん」
「もう体のどこにも残ってない! オレたちの世界こんな暑かったっけ?」
「デジタルワールド、別にそんなでもなかったもんなあ。火山とかはあるっぽいけど」
「まじかー。行きてーなー」
「流石に危ないだろ。ハワイあたりの火山で我慢しときなよ」
「え、あれって遊びに行けんの?」
「知らねー」

 少年達はそんな、中身のない会話のキャッチボールをする。
 出来れば思い出に耽りながら帰りたかったが、暑くてそれどころではない。

「なあ、オレたちちゃんと家まで着けるかな。家だと思ったらサボテンの幻だったとかない?」
「蜃気楼な。あとちょっとだし頑張ろう。家なら冷房も効いてるよ。多分」
「もし親、仕事でいなかったら図書館いこうぜ。寝れるしさ」
「ついでに充電器とか貸してもらえないかなあ」

 灼熱の公道に車通りは殆ど無い。学校は閉まっていたが、世間的には平日なのだろうか? それなら最悪、図書館は夕方まで開いているし────。

 なんて考えていたところ。その公道を一台のパトカーが走り去る。
 まあ、あんな事件があったのだ。見回りでもしているのだろう。すると、それを見た誠司が「あっ」と声を上げた。

「そーちゃん。今わりと重大なことに気付いちゃったんだけど」
「え、何」
「オレたち、もしかしてニュースになったりする?」
「……あー」

 蒼太は思わず頭を抱えた。

「……そうだよなー。絶対、警察沙汰だよなあ……」

 なんとかうまく、適当に切り抜けられないだろうか。ウィッチモン達が用意した台本が、上手くいくことを願うばかりだ。

「そーちゃんの顔映ったら、オレ声高くしてモザイク付けてインタビュー受けるから」
「それだと俺が犯罪者! ……あ、誠司。そろそろお前んち」
「おー、なんかカーテン空いてるしいけそう。じゃあそーちゃん、また学校でなー」
「うん。……学校、次いつだ? まあいいや。てきとーに連絡するよ」

 そうして友人と別れ、蒼太はひとり通学路を進んでいく。
 相変わらずの暑さのせいか、もしくはそのおかげか、一人の時間に色々考えてしまうという事はなかった。いつもの夏の日と同じように、汗を拭いながら家に帰る。

 やがて、懐かしい我が家が見えてきた。
 どうやら家族はいるようだ。安心して、胸を高鳴らせ、少しだけ小走りになって────そして、


「ただいま」





◆  ◆  ◆



 炎天が続く街の中。いくつかの住宅地、ある五つの家庭で、その日大きな事件が起きた。

 もう何日も行方不明だった、自分の子供が帰って来たのだ。
 顔はやつれて、少しだけ痩せて。衣服もどこか汚れていて。何より怪我の痕があって。

 けれど、笑顔を見せられる程度には元気そうだった。

 親達は大きな声を上げて泣く。怒られる事なんて微塵も無かった。ただひたすら、泣き腫らした顔で抱き締められた。

「無事でよかった」
「大きな怪我が無くてよかった」
「生きていてよかった」

 その言葉達は、不思議と聞き慣れていたものだったけど。
 何故だろう。それまで堪えていた感情が、堰を切ったように溢れ出して────気付けば子供達もまた、家族の胸の中で泣いていた。

 それは、親にとっては約六日ぶり、もしくは八日ぶりの。
 子にとっては約三十日、もしくは四十三日ぶりの再会だった。



◆  ◆  ◆



 久しぶりの自宅は、特に何も変わっていなかった。
 現実世界での時間経過を考えれば不思議でもない。

 母親が色々な所へ電話をしている間、蒼太は自室で寛ぐ事にする。
 リビングや他の部屋は今まで通りだが、自室はやけに片付いていた。自分が戻ってくると信じて、親が日々掃除していたのだろう。……そう思うと、どこか申し訳ない気持ちが湧いてくる。

 涼しい風を受けながらぼんやりしていると、壁掛けのカレンダーが目に入った。
 何となく、自分達が失踪していた日に〇をつけてみる。

 すると────

「……なんだ。もう夏休みじゃん」

 思わず笑ってしまった。
 夏休みならとっくに、もう十分味わったよ。






『────速報です。七月■日に発生した児童集団失踪事件。本日新たに五人の児童が発見されました』
『いずれも命に別状は無く、今後は更なる調査を────』


 ────警察や家族から、行方不明の間に何があったのかを何度も聞かれた。
 けれど俺たちは“台本”通りに、「ショックで何も覚えていない」を突き通す。場所も時間も下手に言わず、トラウマにでもなっているフリをして、ひたすら嘘を吐き続けた。

 あの夏の思い出は────自分達の心の中だけに、大切にしまい込んだのだ。

 そんな事があったので、しばらくの間は大変だった。
 栄養状態やら生傷やらで病院にも何度か通い、気付けば夏休みもあと僅か。せめて宿題だけでも免除されないものか。最近の悩みの種はもっぱらそれだ。

 特に日記の宿題なんて、本当に書くことが無い。
 まあ、例年も適当にでっち上げているのだが。

「……うーん」

 鉛筆を握って、何を書こうか考える度────あの日々を思い出す。
 思い出す度に、思いを馳せる。彼らは今どうしているだろうと。

 コロナモンとガルルモンは、今度こそ自由に暮らせているだろうか。
 ウィッチモンは、無事に故郷へ帰れただろうか。
 ユキアグモンは都市の復興に勤しんでいるのだろうか。
 チューモンは、ちゃんと街の皆と馴染めているだろうか。
 ベルゼブモンは今も、あの人と一緒にいられているだろうか。

 メトロポリスの皆は。要塞都市の皆は。ネプトゥーンモンとミネルヴァモンは、今────

「……散歩いこ」

 鉛筆を置いて、部屋を、家を飛び出した。目的地はないので、適当に周囲を散歩する。
 強い日差しが肌に当たってじりじりと暑い。蝉たちはまだまだ、元気なようだ。
 気晴らしをして、コンビニで冷たい飲み物を買って、帰り道。


「──ねえ、あのおばけビル、取り壊しになるんだって」
「よかったー。なんか不気味だったもんねえ」


 過ぎ去る誰かの、そんな会話が聞こえてきた。



◆  ◆  ◆





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