◆ ◆ ◆
小学生の子らを見送った後。扉の向こうが静かになる前に、私は彼と踵を返した。
心配な事など何もない。自宅までもきっと、あの子達なら問題なく帰れるだろう。
騒がしそうな外にはまだ出ず、正面玄関の近くでデジモン達が戻るのを待つ。イグドラシル周辺の後処理の事、改めてお願いしなければ。
「────そういえば、あなたの眼」
隣で壁にもたれる彼は、目線だけをこちらに向けた。
「色、見えるようになったのかしら。まだ感想を聞いてなかったわ」
産まれ落ちたイグドラシルが座に着いて、総ての毒は世界樹に回帰した。世界と同様、今の彼にも毒は無い筈だ。
彼が翼を抱いていた時にはもう、そう成っていた気もするけれど。後遺症さえ無ければ──
「……見えるが、お前はあまり変わらない」
すると、ベルゼブモンはそう一言。
「それだけ?」
「それだけだ」
「もったいない」
彼の世界に色が戻っても、どうやら私は「白と黒」らしい。
「でもほら、スカーフだって。前に言った通り『赤い』でしょう?」
私は胸のスカーフを見せる。懐かしい廃墟の遊園地で、交換しあった赤い布。
一方、ベルゼブモンに渡した制服のそれは、すっかりボロボロになっていた。
スカーフの状態に言われてから気付いたのか、ベルゼブモンは気まずそうに眉をひそめる。
その反応が少し面白くて、「気にしてないわ」と私は笑った。
◇
日が高く昇る正午過ぎ。
白い少女と黒い男は、聖なる都市を後にする。
共に戦った「仲間達」は、喧噪の少ない裏門から二人の事を見送った。
多すぎない程度の荷物と食糧、一つの小さな機械を持たせて。
デジヴァイスと呼ばれるそれは、白蝶貝を思わせる純白で彩られていた。
通信用であり、少女が直接イグドラシルへ干渉しない為の媒介でもある。彼らを世界樹へ送る度、使う事になるだろう。
少女の役割は、言ってしまえばその程度だ。
他に責務は無い。何を強いられる事も無い。
二人は今、この世界で誰よりも自由だった。
「────見て。街がもう、あんなに遠い」
気付けば都市は視界の彼方。溶けた荒野に、二人分の足跡が続く。
その足取りは穏やかだ。男が少女に歩調を合わせ、一歩だけ前を歩いていた。
「……ああ、そうだな」
目的も無く街を出て、目的が無いまま進んで行く。
それは果ての無い旅路。けれど、いつかは終わりを迎えるもの。
少女は、人間の生命のルールから外れたが故、およそ永い時をこの電脳世界で生きていくだろう。或いは路傍の花の様に、儚く散ってゆくかもしれない。
しかしそれは、男にしてみても同じ事。
だから互いに、限りある時間の重さは、理解しているつもりだった。
──それでも少女は、ふと思ってしまうのだ。
これからの日々、巡りゆく日常が、かつて夢見た“普通”でなくとも構わない。
少しでも長く、心を彩るこの幸せが続きますように──と。
いっその事、いつの日か。
世界にふたりぼっちになって、夢の様に消えるまで。
「ベルゼブモン。どこに行くの?」
少女は男を見上げ、手を伸ばし──彼の指にそっと触れる。
「……決めていない。適当だ。そのうち、思い付けばいい」
男は手を取り、握り締め──そして少女の瞳を見た。
「カノン」
優しい微笑みで、名前を呼んだ。
「お前となら────ずっと、何処へだって」
モノクロームの世界。灰色だった曇り空。
今は青く、碧く、鮮やかに。どこまでも続いていく。
二人を包み込んで、広がっていく。
◆ ◆ ◆
「────結局、聖要塞都市は都市機能の三分の一を失った」
子供達が帰還した翌日。
大聖堂の告解部屋に、ホーリーエンジェモンの声が響いていた。
仕切り壁の向こうには誰もいない。別に虚無へ語り掛けているわけではなく、彼の手にはアンティークの受話器が握られている。
「結界の展開を地下シェルターの設置区域に限局させた結果だ。……人的被害はそこそこに留められたが」
我が身がセラフィモンであったならと、今も尚思わずにいられない。
ホーリーエンジェモンは自らの力不足を嘆く。嘆いた所で、どうしようもないのだが。
『古き海神が加護を撒いたとは言え──それまで持ち堪えたのは、それこそ天使共の偉業だと思うがね』
それを慰めるかのように、受話器の向こうからは低い声が聴こえてきた。
『その他の地域は? こちらは相変わらず陸の孤島でな』
「廃工場都市は都心の一部区域を除いて壊滅。アンドロモン曰く、鋼鉄の帝国も完全に機能を停止させたと。先日の『豪雨』が追い討ちをかけたな」
ホーリーエンジェモンは深く溜め息を吐いた。
「──草原や森は焼かれ、山は崩れた。やはり海域から離れたフィールドほど深刻らしい。我らのデジタルワールドは、文字通り『やり直し』となるだろう」
復興には骨が折れそうだ。果たして、真に平穏が戻るのは何時になることやら。
『であれば、今こそ再び「英雄達」の出番ではないかね?』
声は可笑しそうに喉を鳴らす。
『統治者が必要だ。導き手が必要だ。新たな世界としての拡張も。そうだろう?』
「彼ら自身、既に世界の復興に尽力してくれているとも。……しかし広域の統治となると、完全体以上の定常化が求められる」
『と、言うと?』
「うち三体は現状、時間制限付きだ。デジコアの強化は施されているから、時間をかければ叶うだろうが……」
『そうか。あの可愛らしい子供達は、もう其処にはいないのだったな』
「ああ、帰還した。今度こそ無事に、リアルワールドへ」
『──それは良かった。実に良かった』
その声色は、本音なのか建前なのか。非常に曖昧であったが、ホーリーエンジェモンにとってはどうでもよかった。
『しかし本当に驚いたな。あの時の幼弱な二体がまさか、かの大英雄であったなんて』
「同感だ。貴様が殺してしまわないで本当に良かったよ。────フェレスモン」
◆ ◆ ◆
「ネプトゥーンモン様、お戻りになられましたか」
──毒の大雨から、二ヶ月後のある日。
ネプトゥーンモンが海底神殿へ帰還すると、従者の一人が小包を手に駆けてきた。
「留守の間に変わった事は」
「ございません。ですが、先程お荷物が届きました」
「……覚えは無いな。誰からだ?」
「それが、ウィッチェルニーの民からミネルヴァモン様宛のようで……」
ふむ、とネプトゥーンモンは首を傾げる。
「確か、以前いらっしゃった……アポロモン様とメルクリモン様のお仲間でしたか」
三週間ほど前、弟達は新たな時代の「英雄」を改めて紹介してくれた。──尤も本題は、デジタルワールドの今後に向けての会議であったが。
「……」
──その日。ネプトゥーンモンは彼等から、毒と世界の真相についてを聞かされた。
聞いた時は、憤りと虚無感でおかしくなってしまいそうだった。
それでも、弟妹が生き残ってくれていたから。何よりあの子供達が無事に帰還できた────その救いがあったから、辛うじて心が耐えられたのだ。
『今日まで兄さんが知らなくて良かった。もし知ってたら、一人で天の塔に乗り込んでたかもしれない』
メルクリモンはそう言った。──その通りだと思う。血気盛んに、若しくは自暴自棄に、きっとそうしていただろう。
結果だけを見るなら、自分は深い海の底に籠ったままで良かったと言える。情けない話ではあるが。
全てが終わったあの日以降、弟達と仲間達は大忙しだ。ほぼ毎日のように世界樹へ登り、「後片付け」に追われている。
自分は、一足先に各地の復興へ。これまでの不甲斐なさに対する、身勝手な贖罪も兼ねて。
彼等が安息を得られるのは、もう少し先の事になるだろう。
できれば弟達には、早く自由になってもらいたいのだが────
「……それで、如何されますか?」
「ああ、すまない。取り敢えず私が受け取ろう」
荷物を抱いて妹の部屋へ向かう。
小さくノックをし、少しだけ返事を待って──やはり何も聞こえないと扉を開けた。
「……戻ったぞ」
殺風景な部屋に置かれた大きなベッドでは、ミネルヴァモンが穏やかに寝息を立てている。
──核と肉体に負ったダメージは、とっくに修復されている筈だった。
それでも目覚めないのは、精神的なものなのか。それとも別に理由があるのか──ネプトゥーンモンと従者達は看病を続けている。
「お前へのプレゼントだそうだ」
ベッドサイドを飾る向日葵を、少しだけ脇に寄せた。
──弟達によれば、妹は一時期ウィッチェルニーの民と暮らしていたらしい。その時の忘れ物か、それとも見舞いの品でも贈ってくれたのか。
妹の荷物を勝手に開けるのは気が引けるが、保存状態を選ぶものだといけない。心の中で謝罪しつつ、ネプトゥーンモンは慎重に包みを開けた。
「ん?」
添えられた一枚の手紙が目に入る。
「────」
書かれた言葉。姿を覗かせる“贈り物”。
ネプトゥーンモンは驚いたように、何度か瞬きをすると──それを、ミネルヴァモンの枕元にそっと置いた。クリスマスイブの夜のように。
「…………ミネルヴァ。目を覚ますのが、楽しみだな」
────“ これが同一個体なのか、以前と同じ進化を遂げるかは分かりませんが。
ひとまず回収しておきました。あとは貴女に託します。 ”────。
ワレモノ注意の箱の中。
栗色の羽と共に、ひとつのデジタマが収められていた。
◆ ◆ ◆
丘に沈む夕陽を眺める。
深く静かな夜を迎える。
そしてまた、朝が来る。
あたたかな光。コロナモンは太陽に手をかざしながら、少しだけ目を細めた。
「……」
澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、青空に向け両手を伸ばす。
そして一歩、草が芽吹き始めた大地を踏みしめた。
朝陽が照らす二つの影。
前を向いて進んでいく、大きな白銀と小さな赤橙。
いつか命を繰り返しながら、旅した時と同じように。
「──ここは、どこだろう」
白銀の背から景色を臨む。
見慣れない風景。毒に溶けて姿を失い、けれど生まれ変わりつつある地平線。
「きっともうすぐだ」
ガルルモンは言った。穏やかな声で、柔らかな眼差しで。
そうだね、とコロナモンは答える。温もりを感じながら、遠い彼方を眺めていた。
────やがて。
「さあ、着いたよ」
二人は、辿り着く。
「……。……ただいま、ガルルモン」
「……ああ、ただいま。コロナモン」
そこはかつて、天使の里と呼ばれた場所。
始まりの夜。いつか帰ると誓った、約束の場所。
中には誰もいなかった。
“あの日”の半月後に訪れたらしい、テリアモン達の形跡は当然。自分達が暮らしていた痕跡さえ朧気だった。
何もかも、毒の雨に塗り潰されて──もうずっと昔から、廃れてしまっているかの様に。
「……」
そんな故郷を、二人は無言のまま巡る。静かに、遠い思い出と共に。
崩れた木製の門。錆びたレリーフ。瓦礫まみれの家屋。
二人で暮らした岩穴。ボール遊びをした広場。ボールを取りに迷い込んだ森の名残。
高台の上に佇む、小さな聖堂。
「────」
白い壁と青い屋根。鐘楼塔にかかる金色の鐘。
此処だけは────思い出と、何一つ変わらない外観のまま。
「────だめだな、コロナモン」
ガルルモンが声を漏らした。
「……どうして?」
目線の先。ステンドグラスの欠片だったかもしれない、丸い小石が煌めいている。
「だって……──これ以上は、泣きそうだ」
「……」
コロナモンはガルルモンの背から降りた。
重く閉ざされた鉄の扉を、掌でそっと撫でる。中には、入らなかった。
「……いいんだよ、ガルルモン」
扉にそっと額を擦り、俯く。
「たくさん泣いたっていいんだ。声を出したっていいんだ。俺達はもう──」
小さな肩を震わせて。
あの日の思いを、これまでの思いを────何もかも吐き出すように。
コロナモンは声を上げた。幼子のように嗚咽した。もう、我慢なんてしなかった。
ガルルモンは声を堪えた。堪えようとして、けれど我慢できなくなった。
誰もいなくなった天使の里に、二人の泣く声だけが響いていた。
「 」
──ふと、柔らかな風が吹く。
それは二人の頬を撫でるように、溢れる涙を拭うように。
優しく流れて、あたたかな空へ消えていった。
◆ ◆ ◆
幾つもの願いの果て。
広がる世界を、明日も生きていく。
◆ ◆ ◆
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