◆ ◆ ◆
「蒼太……花那……!?」
窓の外を眺めていたコロナモンは、必死の様相で駆けて来る子供達に目を丸くさせた。
「……来たんだね」
「うん。……でも様子が変だよ。焦ってるみたいだ」
「急いでるなら下まで迎えに行こう。外にさえ出なきゃ大丈夫だろう?」
「ガルルモン、もう動けるの?」
「昨日よりは少し、良くなったよ。それに身体も慣らしていかないと」
ガルルモンは呼吸を整えながら立ち上がる。コロナモンを先に走らせ、追うように部屋を出ると──声が聞こえてきた。
三階と四階とを繋ぐ踊り場で、子供達が息を切らしながら座り込んでいる。コロナモンが二人の背中をさすっていた。
「……!? コロナモン、一体何が……」
「ガルルモン! 二人が……デジモンを連れて来たって……!」
その言葉に、ガルルモンは大きく目を見開いた。花那は安堵と焦りが混ざったような顔で、蒼太に抱かれたデジモンを見せる。
「公園で見つけたの! この子……!」
「テリアモンの時とは違う……今度はしっかり重いんだ! だからさ、きっと助かるよな……!?」
床にそっと置き、包んでいた上着を広げて──
「でもこいつ、怪我してるみたいで……!」
──コロナモンとガルルモンの顔が、凍り付く。
「! 嘘だろ、こんなに血が出てる……!?」
「ど、どうしよう……! ねえ、やっぱり救急箱必要だったんじゃ……」
上着とデジモンにべっとり付着した、真っ黒な『血液』が地面に垂れた。
────血液?
「なんだ、これは」
ガルルモンが呟いた。
コロナモンが崩れ落ちるように膝を着いた。
子供達は、その様子に気付くことなく狼狽している。──気付いた所で、その意味を理解する事は出来なかっただろう。
目の前にいるデジモンの名は、ツカイモンと言う。
哺乳類型の成長期。ウイルス種だった。
あらゆる進化段階において唯一、猛毒の黒い水に殺されない属性だ。しかし────
「……、一緒だ……──ゴブリモン、あの時と……」
コロナモンは乾いた瞳で、横たわるデジモンを眺めている。
ツカイモンの小さな口から、泡の混ざった黒い液体が溢れていた。
「……っ、どうして……! どうして!! こんな事……!」
コロナモンの声に、子供達は肩を震わせる。……状況は理解できなかった。けれどこのデジモンもテリアモン同様、希望を持てない状態なのだと察した。
助けてあげられなくてごめんね。──そう呟いて、蒼太はツカイモンに手を伸ばそうとする。
だが
「駄目だ」
ガルルモンが、ひどく落ち着いた声で制止した。
「それに触るのは駄目だ」
「……!? な、何でだよ……」
「とにかく、駄目なんだ。今すぐ離れて」
「ガルルモン……私たち、何がなんだかわからないよ……!?」
子供達は助け船を求めるようにコロナモンを見る。コロナモンは無言のまま、申し訳なさそうに首を横に降った。
「……後は、僕たちがするから」
帰りなさい。──なんとか冷静さを保ちながら、ガルルモンは子供達を見ることなく告げる。
「……何を?」
何をするの? そう花那が尋ねたが、ガルルモンは答えない。
──沈黙の中、ツカイモンの荒い呼吸音だけが響く。やがて痺れを切らしたように、ガルルモンがもう一度「帰りなさい」と言った。
蒼太が、泣き出しそうな顔の花那の腕を掴む。
「……行こう。もう行こう」
「でも……!」
花那を立ち上がらせ、振り向く。コロナモンは悲しそうにこちらを見上げていた。
「君たちは……何も、悪くないんだ。悪いのは全部俺たちだ……!」
「……コロナモンたちだって、きっと何も悪くないよ」
そのまま花那を促し、階段を降りて行った。
◆ ◆ ◆
子供達の足音が聞こえなくなると、コロナモンとガルルモンは改めてツカイモンに目を向ける。
ツカイモンは僅かに呼吸をしながら、辛うじて命を繋いでいる状態だった。
黒い水に侵されたウイルス種を救う術は知らない。
だが、このままでは里の仲間のように暴走しかねない。止めるなら今しかなかった。
しかしどうするべきか。
殺すべきか。
この無抵抗なデジモンを?
「そういえば」
震えるツカイモンを見て、コロナモンは思い出す。
「あの子たちの荷物の中に、毛布があったんだ」
「……毛布?」
「かけてあげようよ。こんなに、震えてる……」
寒いわけではないのだろう。そんな事はコロナモンにもわかっている。
けれど、せめて。少しでも怖くないように。────毛布の上から爪を立て、この命を終わらせてあげなければ。
「…………」
ガルルモンは頷いた。それから、ゆっくりと踵を返して──
「ギャッ」
ツカイモンが飛び起きた。
突然目を剥き、飛び跳ねるように痙攣し始めた。
何が起きたのか理解出来ないまま、ガルルモンは咄嗟にコロナモンを咥えてツカイモンから引き離す。──直後、ツカイモンが勢い良く体液を吐き出した。先程までコロナモンがいた場所に、黒い液体が撒き散らされた。
黒い水は口だけでなく、皮膚からも溢れているようだった。
滲む液体は皮膚の上で凝固しながら、ツカイモンの全身を覆っていく。その異様な光景に、里で惨劇を目の当たりにした二人でさえ愕然とした。
「……ガッ、ぎゃあぁ……あっ」
ただの黒い塊のように成り果てた肉体が膨張し始める。
破裂した肉片と共に黒い水が滴り、飛び散り、付着する度に音と煙を立てて消えていく。先程床に垂れた黒い水も既に蒸発しており、ツカイモンの肉体から離れた黒い水は、人間界ではその存在を維持出来ないようだった。
──決して触れるわけにはいかない。近付く事さえ危険だった。ガルルモンとコロナモンは急いで四階へ移る。
「何だ今のは!? こんなの、里でだって見なかった!」
「……ガルルモン。もしかしてアイツ……」
膨張した肉体は、高さだけなら既にガルルモンさえ越えていた。
最早ツカイモンの原型も留めていない──その生き物の頭部らしき部分が動く。
「進化を……」
黒い水が、ゲル状の塊となり崩れ落ちる。
口と思われる穴が露わになった瞬間、雄叫びの様な絶叫が放たれた。
声の振動で纏っていた黒塊は剥がれ落ちた。
そこにはツカイモンでない何かが、けたたましい産声を上げて────
◆ ◆ ◆
事情は知らない。
何も知らないし、わからない。
何が起こっているのだろう。
「……あのまま、いちゃいけないような気がして」
裏口の扉を、ゆっくりと閉める。
「ごめん」
「……なんで蒼太が謝るの」
「……そうだね」
二人のあんな様子は初めて見た。……花那はそう言おうとして、二人を知ってからまだ数日しか経ってない事を思い出す。
「……あのデジモン、どうなっちゃうのかな……」
そして、ビルを見上げた。わからないと蒼太が俯く。
残してきた彼が心配だった。──きっと助からないのだろう。
自分達はまた、何もできなかったのだ。今度は最期を見届けてあげる事さえできない。
「……テリアモンのさ」
「……うん」
「死んじゃった時みたいに、したくなかったんじゃないかなって。デジモンが死ぬの、俺たちに見せたくなくて、それで……」
「……それで?」
「それだったら、いいなって。ガルルモンがああ言ったの」
「……そうだといいね」
「そうだと、いいな」
「うん……うん、きっとそうだよ。だって二人とも優しい──」
「あれー、またキミたち!」
突然、聞き覚えのある声がする。
二人が驚いて振り向くと──そこには、案の定
「……なんで、いるんですか……」
「そりゃあ少年。ここはみちるちゃん唯一の帰り道だからさ!」
三つ編みの少女は、相変わらずへらへらと笑っていた。
「そんな毎日肝試ししてて楽しいかい?」
「……なんでいつも、私たちが帰る時に」
「えー、今までのはガチで偶然だよー。コンビニ帰りの奇跡。よく見てごらんよ。アタシ今日何も持ってない。いやゼリーは持ってますけどマスカット味の」
「じゃ、じゃあ何で……」
警戒心を露わにする花那に、みちるは両手をぷらぷらと降りながら
「会いに来たのさ! 二人が超ダッシュで走って、入って行ったの見えたから。何かあったのかなーって。ここの辺り、アタシの部屋からは結構見えるんだよねえ」
みちるは廃ビルとは反対の方向を指差すと、「あっちにマイホーム!」と叫ぶ。
「ウチくる?」
「……行きません」
「まあつれないわ少年! あ、そういえばアタシまだキミたちの名前聞いてない──」
みちるが家の方角から子供達に視線を移した、瞬間
「 」
雄叫びが響いた。
自分達の真上から、巨大な獣の様な、雄叫びが。
三人は驚いて空を仰ぐ。少ししないうちに、建物の中から激しい物音が聞こえてきた。
ガラスの割れる音。物が壊れるような音。何かが争うような轟音。中で何が起きているのか──蒼太と花那は呆然と見上げる。
「二人のじゃ……なかったよな、さっきの声……」
「……で、でも、あの小さいデジモンから、こんな……」
「デジモン?」
みちるはきょとんと上を向いたまま、子供達が「しまった」と息を呑んだ事には気付かない。
やがて聞き覚えのある声が響いてきた。狼のような声。──ガルルモンの叫ぶ声だった。
子供達はようやく、中で起きている事の深刻さを理解した。
「キミたち、ここで怪物か何かでも飼ってるの?」
みちるの言葉には耳も傾けず、子供達は青ざめた顔で中へと入って行った。
開け放しにされたドアの蝶番が、きぃきぃと音を立てる。
みちるは肩をすくめてみせると、そのドアをそっと閉めた。
◆ ◆ ◆
一体、何が起こったのか。
何が起こっているのか。
説明して欲しいのは自分達の方だ。
今二人がいるのは三階の通路。
ツカイモンから進化したデジモンが、ぐちゃぐちゃと泡の混ざる黒い涎を垂らしながらこちらを見ている。何かに触れる度、その皮膚からは黒い液体が染み出していた。
──後悔した。子供達がいなくなってからすぐに……命を絶っておけば、こんな事にはならなかった。
唯一幸いだったとすれば、このデジモンが外で暴走しなかった事だろう。
「早く……ここでなんとかしないと、あの子たちが……!」
体力を消耗したガルルモンがよろめく。
「無理に動いちゃダメだ! まだ歩けるようになったばかりじゃないか! ……でも言う通りだ。早くしないと下に降りられる……!」
力が戻りきっていない状態で、二人の出す技の威力は弱く──辛うじてガルルモンの炎でダメージを与えられる程度。倒すには至らず、足止めするので精一杯だ。
子供達が連れてきたツカイモン。二人はツカイモンという種族自体は見たことがなかったが、亜種である色違いのデジモンの存在を知っていた。
パタモンという成長期デジモン。その亜種が進化したという事は、目の前の敵は成熟期だろう。段階を飛び越え進化するケースも無視出来ないが、自分達がまだ殺されずにいる事からその可能性は低い。
そして、あの様子。凶暴化と理性の喪失。侵されても消えない命。歪に変貌した姿。──ダルクモンの話にあった、ウイルス種特有の症状と一致していた。
余談ではあるが。
ツカイモンから進化した目の前のデジモンは、サイクロモンという。
だが、サイクロモンが言葉を発せられない今、デジモン達や子供達がそれを知ることはない。
「……あの子たち……ちゃんと、帰れたかな……」
「!! ガルルモン! あいつ走って──」
突然走り出したサイクロモンが、ガルルモンに勢いよく掴みかかった。
手から染み出す黒い水がガルルモンの皮膚を焼く。熱した鉄板を押し当てられたような激痛に悲鳴を上げた。
すかさずコロナモンが、サイクロモンの顔めがけて炎の球体を投げつけた。サイクロモンはガルルモンから手を離し、自身の顔を覆う。コロナモンは攻撃を休めることなく、顔面を目掛けて火を吹き続けた。
サイクロモンは火を払うように腕を振り上げる。──しかし火は除けずに、降り下ろした腕はそのままコロナモンを殴り付けた。
「コロナモン……!!」
黒い水が滲み出る拳。殴られたコロナモンはガルルモンと同様に皮膚を焼かれながら、床に思い切り叩き付けられた。
「……ぐっ……ふ……」
「コロナモン!!」
毒を受けて尚、彼が絶命を免れたのは────ダルクモンのデータによって、黒い水への耐性が出来ていたからだろう。
「──ッ!!」
ガルルモンが冷気を吐き出し、サイクロモンの周りに氷の壁を張る。……すぐに破られるだろう。だが今は時間を稼ぎ、コロナモンを別の場所に移動させる方が先決だ。コロナモンの首を咥えると、彼を部屋の中へ逃がす。
直後、氷が破られる音が聞こえた。サイクロモンが唸る。ガルルモンは振り向き、サイクロモンと対峙する。
すると、コロナモンがふらつきながら起き上がった。ガルルモンの足にしがみついて、なんとか体勢を保とうとする。
「お、おい……」
「俺も……た、たたか、う……。ガルルモンだけには、もう……!」
サイクロモンはゆっくりと歩いてくる。
液体と瓦礫を一緒に踏みつける音が響く。
──その音に混ざって、不自然な音が聞こえてきた。
硬い床を何度も叩き付けるような音が、下の方から勢い良く────
「コロナモン!!」
「ガルルモン! 何があったの!?」
姿を見せた、子供達へ。
眼球がぐるりと剥けられる。
「────え?」
サイクロモンを目にした子供達の足が止まった。
子供達を目にしたデジモン達の呼吸が止まった。
サイクロモンが、子供達を目掛けて走り出した。
「やめろ……!」
咆哮が響く。ガルルモンのものだった。サイクロモンに飛び掛かり腹を喰い千切った。
けれどサイクロモンは止まらない。尚も子供達に手を伸ばそうとする。
「やめろおおおおぉっ!!」
その子達にだけは、お願いだから手を出すな。
炎を纏い、コロナモンがサイクロモンの首に飛び付く。
────喉元を、噛みちぎった。
「……、ごぽっ」
サイクロモンは悲鳴を上げることもなく、立ったまま崩れていく。
「「…………」」
──そんな、目の前の光景。
映画でしか見た事のない化け物。
映画でも見た事のない血飛沫。
散っていく蛍の光。消えていく化け物。
子供達に伸ばした手は、果たして襲う為だったのか。または別の理由だったのか。それは誰にも分からない事だ。
サイクロモンが消え去り、コロナモンとガルルモンが床に崩れ落ちる。──そして、嘔吐した。体内の毒を抜くように、黒い何かが混ざった液体を吐き出していた。
立ち尽くした子供達の足は震えている。目は真っ直ぐ、友達である筈のデジモン達に向けられている。
「怪我……、……は、ふたりとも……」
ガルルモンが心配そうにこちらを見ていた。呼吸はひどく荒かった。
子供達に怪我が無いと分かって、コロナモンは咳き込みながら「よかった」と言った。守れたと、笑顔でそう言った。
二人の身体には、痛々しい火傷のような痕。
──その全てが、紛れもない現実。
ああ、言えない筈だ。見せたくない筈だ。隠したい筈だ。巻き込みたくない筈だ。それをようやく理解した。
子供達は、堰を切ったように泣き出した。
第五話 終
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